浦雅春のレビュー一覧
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恥ずかしながら名前は知っているがいつの時代の人も分かっていない。ただポップで、ドフトエフスキーが「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」が気になったのと、『鼻』がどんな話なのか異常に気になったので、がちがちの訳の岩波文庫でなく、なんとなくライトな訳本のイメージのある光文社版を購入して読んでみた。
一言で言えばなんとも不思議な世界。決してすごくこった話でもないし、派手でもない。それなのになんだろうこの読後感。『鼻』にいたっては何ともいえず笑えてくる。しかも結末としてなんともすっきりしない。パンの中から出てきた鼻が服着て歩いて違和感がない。くすくす笑えるのになんだかぞっとするそんな作品だ -
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読んだつもりになっていたけど、読んでいなかった、というタイプの本です。
この手のブンガクについて、ある年齢以降、
「どれだけ、翻訳が難解にしていて、モトモトの魅力を削いでいるか」
ということに気づいてしまって。
気づいたら恐らく意識過敏になってしまって。
で、その反動で、光文社の古典新訳はイイナア、とかなり盲信してしまっています。ほとんど感覚なんで。別に比較した訳でもないんですけどね。
という訳で光文社の新訳で衝動買い。
チェーホフについては、井上ひさしさんが描いたチェーホフの評伝芝居を観たことがあるのと、あとは・・・映画「黒い瞳」が素敵だったなあ、というくらいです。
「桜の園」 -
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『鼻』を新作落語にできないだろうか、などと考えながら読んだ。落語調に訳すという試みは、自分は面白いと思った。でも、あくまでも「調」なのであって、本寸法の落語ではない。だからこれを元にして、プロの落語家や落語評論家が手直しすれば、新作落語に「改作」できるのではなかろうか。それを白鳥師匠が演じたら…などと、妄想が尽きなかった。
いわゆる「古典」だからといって、肩肘張って読まなくてもよい。このことに気づけたのは大きな収穫だった。
作品自体のレビューも忘れずに書きたい。喜劇『査察官』も面白かった。皮肉の利いた言い回しとドタバタっぷりが、面白い。そして、幕切れの前衛的な雰囲気に息を呑んだ。このシーン -
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ネタバレ「ワーニャ伯父さん」といい「三人姉妹」といい、登場人物すべての背中が重い・・・
「ワーニャ伯父さん」ではソーニャ、ワーニャにスポットがあたり最後のコメントが強烈に記憶に残るが、ワーニャが憎んだセレブリャコフもソーニャが失恋したアーストロフも否、全ての登場人物が幸福になっていない。
「三人姉妹」も同じ。希望が絶望に変わってゆく。
しかも、最後の台詞に強引なる希望のようなコメントではなく、「それでも生きていかなくてはならない。」「私たちの人生、まだ終わりじゃないの、生きていきましょう」と残りの人生片方の翼がもぎとられもう決して飛べないのに「そのまま」生きていこうとするのだ。ロシアだから「バーン!! -
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読書会の課題本として光文社古典新訳文庫版を読みました。
チェーホフの戯曲は、「行動の不在」の中にこそ人間の本質的な停滞を描き出すという点で、非常に厳密な構造を持っています。特に、この二作のラストシーンにある長台詞は、絶望的な現実に対する、切実な希望の構造を象徴しており、深く考えさせられます。
本書の内容とは別に、読書会という場においては、私自身が「戯曲の読解」に対する認識を改めて問われる時間となりました。
参加者間の解釈の方向性に大きな隔たりがあり、特に重要なラストの台詞については、作品の論理構造を無視した感傷的な読みに傾倒している方が目立ちました。
ラストの「対話」を「独白」と誤認し -
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アガサ・クリスティの小説の中に出てきたので参考のために「三人姉妹」を読んだのだが、後に読んだ「ワーニャ伯父さん」の方がわかりやすくてインパクトのある話だった。
100年以上前に書かれた小説だが古さを感じない。
小説のなかで100年後の人々のために頑張る、というようなことが書かれているが、今ロシアは戦争しているし。。
チェーホフはなんどか読もうとして挫折しているけど、
年をとって未来が少なくなっていく悲しみのなかで読むと身に染みるのかも。
身近な恋愛にはまると人間関係がたいそう面倒なことになるけど、押し活などで上手に楽しんでいるのが生活の知恵だなあ。
戯曲はほとんど読んだことがないのだが、会話の -
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表題作「桜の園」はチェーホフ最後の作品だそう。
本人はコメディとして書き、一部の人からは悲劇と評された、と巻末の読書ガイドには解説がある。自分にとってはどちらでもなく、歴史ドラマのようだった。
農奴解放以降も土地に縛られ続ける農民と、徐々に力を付ける商人と、じわじわ没落する貴族地主。貴族が競売で土地を失い、それを商人が買う、桜の木は切り倒されて、別荘地として開発される。貴族が土地を去る最終日までが描かれる。
悲劇といえば悲劇だが、それまでご先祖様を含めて充分に恩恵に与っただろうから、悲劇性はない。貴族の養女と商人の縁談がうまく行きそうで行かない辺りはコメディっぽくはあった。
他の二篇はド -
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ネタバレものすごい閉塞感が溢れる戯曲。かみ合わない会話、実らない恋、中年の危機。生きていく意味を見いだせない空虚さを抱えた登場人物がたくさん出てくるが、同時に「人生に意味なんてない」という答えと「でも生きていかなくてはいけない」というあきらめが語られている。救いも希望もないけど、あきらめはあるのだ。
今ちょうど仕事を辞めたばかりで日々もやもやそわそわしてるので、三人姉妹のイリーナの「人間は誰でも、骨身を惜しまず、額に汗して働かなくてはならないって。人が生きている意味も目的も、その人の仕合わせも歓びも、そこにあるの。」という台詞には肩身の狭い思いがした。でも、働いてみたって後のイリーナのようにただただく -
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「小説は問題を提起しても答えは与えない」というチェーホフのスタンスが相変わらず(他の作品と同じで)示されている。教訓となるわけでも無いし、決して登場人物に共感できるわけでもない。にも関わらず、チェーホフ作品に惹かれるのは、彼の生きた時代におけるチェーホフのスタンスが現代に通じる点にあると思う。革命前夜の時代、教養はあるが社会で実際に役割を持つことはできない貴族、貧しい暮らしに喘ぐ下層階級、誰もが今の社会に不満を持っているのに、どうにもならないという諦観を持ってしまっている(直接的な批判を加えることをことごとく避けているチェーホフ作品において「しまっている」という表現はそぐわないかもしれない)。