藤田一照のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「自分とか、ないから。」を起点にもっと知りたいと思って。
自己と自我のお話は、目から鱗だった。
ビジネスパーソンとしては、「他人、感情、過去といったコントロールできないものは思考で整理せよ」と教わってきたが、ここでは「受けたもう」として、ただ受け入れて隅に置いておけよと。そして浮き沈みを愉しみなさいと。
避けられないと分かっていても、苦しみは避けたい。制御したい。30年以上も生きていても、そう思ってしまう自分にとっては、考えが広がる良い機会になりました。
このワードはおそらく本には出ていないが、自分の言葉では「ゆるめる」ということが愉しむコツな気がした。 -
Posted by ブクログ
本書で扱われるブッダとか、併せて読んだキリストとか、難しいというよりは興味が持てず、入門編みたいなのにトライしてみては、真価が分からず今に至る。真価というと大層だけど、入門すらできないなら、こっちから願い下げだ、くらいの気がある。そんな中、本書はなかなかに楽しめる内容だった。
例えば、”周りとの交流全体から自然に何かがまなばれる、オーガニック・ラーニング”にこそ学びの本質がある、と。これは、考える力こそが注目される昨今、いかにも納得のいく主張。だけど、しなきゃならない一辺倒では上手くなく、”ネガティヴケイパビリティ(しない能力)”こそ必要で、中でも坐禅は、”やることを増やすのではなく、最大限減らしていくことで、深い未知のものを受信”するのに有用だ、と。これ、らしく言うとマインドフルネスやね。あと、”不可逆的に出会う痛みや快感に、自分の中の抵抗や執着を識別する、解像度の高い眼で臨む”ことも、苦痛との向き合いにおいて有効かな、と。
そんな感じで、なかなかに示唆に富むブッダの教えなのでした。 -
Posted by ブクログ
ブッダが苦行を捨てて、愉快に旅をし修行をしたというところが印象に残りました。
何事も苦しみながらやってもいい成果は出ないと思いますし、楽しみながらやれば、おのずと成果は出るだろうと思います。その過程自体が既に平安というのも印象に残りました。
座学だけでなく自然体験から学んで自己世界を拡張する。それこそが学ぶ喜びだというのも印象に残りました。
とはいえ、世の中しんどい事やきつい仕事もあります。その時は受けたもう!の精神で無理やり自発的にやることで楽しめてくるというのは面白い発想だと思いました。
受けたもう!受けたもう!心の中で口癖にしたいと思います。
あと苦しみ、幸せの方程式はなるほどと思いました。苦しみは受け入れれば楽になる。幸せは求めれば苦しくなる。確かにそうだと思いました。
心に留めておきたいと思いました。 -
Posted by ブクログ
・覚りには、理論だけで到達することが難しく、師について瞑想をしたとしても、覚れる人は決して多くない。それだけ自我の拘束は、強いのです。
どのような道であっても、書物から学ぶことのできる知識と、師からしか学ぶことができない暗黙知や技があるわけですが、意外にも、仏教にも、その事実が当てはまることを突きつけられるような内容でした。
また、たとえ優れた師に学んだとしても、それまでに身体に染み付いた自我という固定観念を捨てることができなければ、習得することができない境地があることも思い知ることになりました。
釈尊が自らの力で到達した覚りを乞われるまで伝える気持ちがなかったという話も、真実味が増してくるのです。覚りには、理論だけで到達することが難しく、師について瞑想をしたとしても、覚れる人は決して多くない。それだけ自我の拘束は、強いのです。
仏教は、個人や社会を導きうる思想なのに、そうならないのはなぜか、それは仏教の伝来がゆがめられ、仏教自身が生き残るために、思想としてではなく、ある意味、様式を示すビジネスになってしまったからかもしれません。 -
Posted by ブクログ
人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。
仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。
デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理に至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。
行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事
マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。
マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。
マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。
ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。
雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。
心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。
ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。
エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。
つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。
体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。
強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。
「アップデートする仏教」藤田一照、山下良道
人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。
仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。
デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理に至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。
行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事
マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。
マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。
マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。
ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。
雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。
心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。
ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。
エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。
つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。
体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。
強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。