都市化が進み村は衰退したが、しかしその都市の中に新しい形で「ムラ」が形成されていた、というのは面白い。やはり人間には村的なものが欠かせない、あるいは人間の性として形成せずにはいられないものなのだろう。街並みを見る際の建築家の独特の視点が面白い。 ・社会と建築の関係に変化。建築の「動機」に変化。 ・1つは持ち家願望。アメリカ型解決法single-family house。社会主義的解決法、集合住宅。村的な粘っこいつながりは排除された。 ・「空間の商品化」というフィクションが村を破壊した。がそのまやかしも自壊を始めた。サブプライム。 ・311で我々は破壊され尽くした空間になお残る何かを感じた。それこそがけっして商品化され得ない空間の持つ力だ。その磁場がムラを形成する。 ・下北沢ムラ。近代化から偶然取り残された結果、「醗酵」が進み熟成した。 ・日本の都市計画に「運動神経(センス)」はない。過去に唯一後藤新平だけが関東大震災後の復興でやろうとしたが、周囲に潰された。日本では無理。 ・下北沢を脅かす、ゾンビのようによみがえった戦後の都市計画。道路特定財源制度という劇薬。ゼネコンや地権者を肥やし、空虚な街を増やしてきた。 ・市民が下北沢を守ろうと動き出した。様々な著名人、文化人も加わり洗練された街づくり計画を市民側から提案。下北沢フォーラム。 ・21世紀はモータリゼーションへのアンチテーゼ。まず道路を敵とする発想が必要。ファミレスやコンビニが増えるような街づくりは失敗だ、と言っていい。 ・都市計画は「闘い」の場である。様々な利害関係者、住民の中にも反対賛成があり、住民でなくてもそこに愛着を持つものなど、入り乱れての戦場。 ・下北沢は意に沿わぬ結婚などしなくていい。世間に流されず好きなように生きてきた老いたお嬢様がシモキタ。老いてもモラトリアムを貫く精神的タフネスが必要。 ・すべての創造はモラトリアムから生まれる。現代の「ムラ」はそんなモラトリアム人間に居場所を提供する、空間的仕組みの別名。 ・利害対立の両側を理解できること。セルフ・デプリシエーション(自己否定)やユーモアがないと都市計画なんてやっちゃだめ。 ・フランスの都市計画には諧謔性がある。インテリジェンスとウィット、エスプリが必ずついになっている。彼らと付き合うのはしんどいが、非常に面白い。 ・都市計画はおばちゃんを笑わせられるようなユーモアが必要だ。 ・高円寺ムラ。軍隊、陸軍の規律がもたらす陰が濃い。規律への反動としての、サブカルチャー、カウンターカルチャーな雰囲気がここにある。下流階層を優しく受け入れるムラ。中野のメガストラクチャーが実に軍隊的。 ・20世紀にゾーニングという発想が生まれて街を区分けしてしまった。本来はもっと混在していないと都市の抱擁的存在を再生できない。見直すべき時期に来ている。 ・「素人の乱」なんでも人工的に整えて金に換えていく風潮にNOと言いたい。 ・町の成り立ちそのものが男権的。21世紀のまちづくりには女性的な要素が絶対必要。 ・秋葉原ムラ。擦れ違いと演劇空間。 ・ムラは人を救う装置。村には地縁と血縁があってその”しがらみ”が人々を救ってきた。地縁・血縁は現代では”ネットワーク”と言える。現代では地縁はインターネットでのつながりに、血縁はアニメやゲームなどバーチャルな存在との関係に変貌を遂げているとみることもできる。それでもなお「肉を持つ人」として実際の場所との関係を求める。その場所としての役割を秋葉原が担っている。人とすれ違うだけでも、他人との対比の中で「自分」という存在を確認・実感できる。そういう空間。 ・ムラとは演劇的空間であった。人々はその空間で「演劇的救済」により互いを救済してきた。しかしやがて役割が固定化し演技の自由度が失われていく。これがムラ(村)の閉塞感につながっていき、やがてムラは「ハコ」と化す。近代の村の否定はこの「ハコ」の否定だったのだが、同時に演劇的救済まで否定してしまったことが悲劇の始まり。 ・アキバムラのヘンタイ性こそが日本の未来を拓く。人間の本性の半分は「ヘンタイ」でできてるのに、皆それを無視したがる。これを組み込まずして本当の「ムラ論」とはなりえない。20世紀のコミュニケーション論もコミュニティ論もキレイすぎる。 ・昔の村は食欲や性欲を垂れ流せる「土」があった。都市はコンクリートで覆われ、欲望は地下へと潜った。しかし秋葉原はコンクリートの上にヘンタイ性にまみれた欲望が成立している稀有な空間。 ・世界的にみても、ここまでヘンタイ性が洗練された形で都市に組み込まれている場所はほかにはない。日本にはそういう形でヘンタイ性と都市的なものを調停させる文化的伝統があったとも言える。 ・(メイド喫茶にて)内装が学校の文化祭レベルの安っぽさだからこそ、芝居が成り立つ。メイドカフェは、客も店もある虚構の中で演技をするという点で、銀座の高級クラブに通じるものがある。銀座は年寄りのヘンタイを受け持ち、アキバは若いヘンタイを受け持っている。 ・日本文化の世界に誇る核心は「ヘンタイ性」にある。谷崎潤一郎、川端康成しかり。 そのヘンタイ史に併走してきたのが日本の女性。ヘンタイ男を演劇的にうまく取り扱うことに長けてきた。メイドカフェにはその「日本的婦女子育成」が綿々と継承されている。 ・空間の快楽性。日本では貧相な空間ほど快楽性が高い。だから内装はチープでいい。 ・麻生太郎の成り下がりっぷりこそ、21世紀の、成熟し衰退する日本がモデルにすべきかも。「オタク」とは麻生、鳩山といった上流階層から、一般人、外国人までひっくるめて通用する、社会に対する新しいスタンスの別名。全員で平等に成り下がって、その成り下がり具合に快楽を見出す。その舞台としてもアキバの持つ意味は大きい。 ・「マニア」と異なり、「オタク」という言葉には「非モテ」が付きまとう。「負ける男性」という階層が21世紀になって台頭してきた。無理に強くなろうとせず、弱いことを逆手にとって無駄な争いを避けて生き延びる。衰退する日本が諸外国と渡りあう新しいモデルとなるかも知れない。 ・弱きものをまとめて受け入れるムラとしての秋葉原の発展は必然であり、その装置の一つがメイドカフェともいえる。 ・ガチャポン会館の不思議な空間。フレーミングと縮小による、どろどろとした人間的なものを「文化」にする常套手段。秋葉原ではこのフレーミングと縮小を使って、人間のリビドーを「文化」に高めている。 ・秋葉原クロスフィールドの浮きまくりっぷり。秋葉原の魅力は今も昔も場末のバラックと祝祭性にあり、その主役はドロドロとしたムラ人達。そこに浄化された建築と住人を入れても混ざるわけがない。 ・戦後の日本に、アメリカ式のピューリタン(清教徒)的な潔癖さが入ってきた。日本人が馬鹿みたいにそれに憧れてしまったのがそもそもの間違い。日本人はそもそもそんな潔癖さに耐えられない、勤勉ではあるが、わりかしユルい民族。 ・欲望は人間の生きる原動力。欲望が無かったら生きていけない。ただ、この欲望をどうやって取り扱うか、というのはローマ帝国の時代から都市計画のテーマだった。都市計画は欲望の処理系の一つ。その最たるものが「広場」。秋葉原は街全体に「人間の性欲がすれ違うための21世紀の演劇的空間」がちりばめられている。 ・秋葉原にヘンタイの様式美が興りつつある。メイドカフェの演技もあと100年も経ったら歌舞伎。 ・小布施ムラ。 ・ムラの再発見。村の消滅→国家が地位を高める。五月革命、レヴィ=ストロース。本物の社会と偽物の社会。 500人くらいの互いに顔見知りの人々からなる社会を本物。属性によって社会を構成するわけではない。性別や収入や趣味と言った属性によって成立する社会は偽物である。本物はある時間の継続の結果として属性を超えて出現する。 属性によって形成される「共同体」と「ムラ」を峻別した。「野生の思考」 ・ムラには「経済」と「美学」の両立という難しい問題がある。ムラは「固有の場所であり、多様な生き方と選択肢のよりどころであり、人が存在する価値を「エコノミー」から「ライフ」へと振り戻す地域」のこと。難しいのは、一度都会的なものを経験しなければ、多様性の受容にはなかなか至らないこと。村がそのままムラになるのは厳しい。 ・湯布院と小布施がその候補となり得る。 ・「セーラが街にやってきた」 ・街並み修景事業。80年代に、今のグローバリズムの惨状に通じる私有と新築を旨とする再開発を否定した先見性。補助金に頼らず「官・民・個人の対等な利害調整」をルールとした。実に時代を先取りしたやり方。 ・大きな駐車場を3つの施設で共有。それぞれに呼び方が違う。公共スペースというのは利害の対立する複数の癖のある連中が集まって初めて成立する。こういうオトナな妥協が存在しないと公共スペースなんて永遠に作れない。 ・オープンガーデンの思想が根付いている。民家の庭を観光客が横切っていく。 ・市村さん。鹿島の石油コンビナートの再開発で荒廃していく農村の風景を見た。また、市民の「被害者」として補償金をふんだくる姿にも辟易した。「加害者」も「被害者」も作らない、そういう街づくりをしようと考えた。 ・あとはゾーニングへの憎悪。20世紀のアメリカで生まれた特殊なルールで普遍性なんてなにもないのに、世界中が真似をしてしまった。商店も町工場も住宅も、有機的に配置されて初めて活発な人の動きにつながる。「たすきがけの湯布院」が愛読書だった。私は孤独な変わり者。 ・市村さんは非常に「目」の良いシティボーイ。「最先端の完成とネットワークの集まる磁場」がムラだとして、ここは小布施堂・桝一「界隈」がコアとなっている。これを作り上げた「目」、商売とは違う所を見ている。遊び心のセンス。 ・セーラ・マリ・カミングスさんが小布施に乱入。既成の枠をぶっ壊して可能性を広げた。宮本さんのナショナル・ロマンチシズム建築から、モーフォードの「グローカル・オリエンタリズム」へ。 ・ナショナル色を排するため、さらに小さなローカルを取出し脱色し、アク抜きをしてグローバルに通じるほど洗練させる。これがグローカル。オリエンタリズムはそのアク抜き加工に西洋人を使う所。アメリカ人はきれいにしすぎる。ムラにはもう少し汚さを残してほしい。農村と町場の断絶をより深めてしまった感がある。 ・街づくりはやがて地元のセンスで閉じてしまう。セーラさんの乱入は、異国人である、女性である、という非常に稀有な第三者視点が導入された。そして、彼女は日本の伝統の職人芸に新しさを見出した点が、20世紀的価値観に慣れた日本人には難しい発想だった。 ・思想闘争は孤独な変わり者でないとできない。自分を被害者だと思っている人は思想家にはなれない。人は誰しも加害者であり被害者でもある。そんな平衡感に立脚してこそ思想が力を持ち、人々を巻き込んでいく。シティボーイと思想という一見矛盾するものを合わせもった人が街づくりのカギを握る。 家父長→疲れた男→少女の癒し→母性・抑圧的な母→反抗する少年→強権的な父性→ 二項対立の否定、小さなムラの乱立を是