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西欧の建築に日本が出会って約一五〇年,建築家たちは日本建築をどう捉え,どう表現してきたのだろうか.たびたび災害に見舞われる日本で,たとえば村野藤吾をはじめとする建築家は「弱さ」や「小ささ」を大切にしながら,モダニズムとは異なる道を歩んだ.その精神を受け継ぎ著者は次へと歩を進める.日本建築の本質と未来.
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Posted by ブクログ
単なる二項対立でない建築史観は、近年の複眼的な歴史の再構築といった流れと重なるものであり、まさに今だからこそ生まれた本だと感じた。
読前にはタイトルを見て「日本の建築」ね、と軽く考えていた読者ではあるが、著者が「エッセイのようなものですませたくはなかった」と書いているだけに、深く心に迫る新書であると思います。まさに「日本の」とは何かを、国際的な時代の動きも含めて立体的に描かれている一冊。
やっぱり隈研吾さんが好き! 文章も単純明快だから読んでいてストレスがない。(小難しい建築論を語るわけじゃないから、ただの建築好きにはもってこい!笑)
(2024/04/23 2h) 建築について全く無知なわたしが「建物ってこんな面白く作れるんだ〜!」という驚きとともに建築について知りたいと思うキッカケになったのが、隈研吾の設計した建築群でした。 建築に関する本を読むのは初めてでしたが、分かりやすく興味深いです。新書なので気負わずにサラッと読め...続きを読むたのも嬉しいところ。 あとがきで8 年かけて執筆されたとあったので、サラッと読んでしまって申し訳ないと思いつつ……。日本の建築の魅力を門外漢にも分かりやすく広めてくれることに感謝です。
建築家 隈研吾氏が、日本の建築について8年にわたり研究した成果をまとめたもの。日本の建築といってもブルーノ・タウトが訪日した1930年代以降を対象としており、主として藤井厚二、堀口捨巳、吉田五十八、村野藤吾、丹下健三らについて述べている。建築家同士の対立があり、建築史の変遷をある程度つかむことができ...続きを読むた。建築家には芸術家のような人、科学者や数学者のような人、官僚的な人など様々なタイプの人がおり、建築物を通して多くの人々に影響を与えてきたことがわかる。興味深い。 「(タウトの誕生日の桂離宮訪問)自然と人工との間に宙吊りにされたような特殊な生垣を目にして、タウトは落涙したと伝えられている。「純粋で余計なもののない建築。心を打つ、無垢、そう、子どものように。今日のわれわれの情景の実現。おそらく最もすばらしい誕生日であっただろう」」p8 「建築史家の藤岡道夫は、このタウトの指摘に答えるかのように、その著書『京都御所』で御所の細部を徹底的に調査し、世界各国の宮殿建築との比較の上で、このように質素な宮殿建築は世界に例がないという一文で締め括った」p11 「人は自分のことが一番わからない。自分の場所が一番わからない。誰かによって発見、移動されることを通じて、人ははじめて自分を知るのである。タウトの発見は事実、その後の日本建築にも大きな影響を与え、日本建築を変えていった」p22 「木造の細い柱は、コンクリートや鉄骨の柱と違い、薄い壁の中に消去することができた。日本では柱を消去する技法が徹底的に追求され進化を遂げていた。それを可能としたのは、柱以外の補助的な部材、柱と柱の間を埋める土壁・格子・障子・襖のような、まったく構造を負担していないように見える華奢な部材が陰で助け合って建築を支えるという、世界にも類を見ない繊細なエンジニアリングであった」p60 「(数奇屋は民衆のための建築である(村野藤吾))数奇屋とは基本的に茶道のための空間であり、日本において、茶道がしばしば限られた人のための、しきたりに縛られた閉鎖的な芸事になっていることを村野藤吾は警戒していた。茶道こそが村野の一番嫌った「形式主義とペダンティズム」となっていたのである」p145 「柱のような、建築全体を支える主要部材でさえ、日本人は中間粒子とすることに成功した。天井と屋根との間を和小屋と呼ばれるリジットな構造体で埋めてしまうことによって、天井の下に位置する柱はいかようにも移動することができるという、世界に例のないフレキシブルな構造システムを日本人は発明した。柱は移動できないというのが世界の建築の不変の大原則である。しかし日本人は増改築において、当たり前のように、柱を動かしてしまう。木造建築の技術は大陸から伝わったが、この移動する柱は中国にも朝鮮半島にも存在しない。室町時代に完成したといわれるこの和小屋システムによって、日本人は柱さえも中間粒子として再定義したのである」p149 「西欧において、建築とは象徴的でなければならないと同時に、永劫の存在でなければならなかった。永劫のものなど、この世に存在しないというのが、村野の時間に対する哲学なのである。だから村野はあれほどのエネルギーをもって増改築に取り組み、リノベーションの傑作を世の中に残すことができた」p153 「吉村順三の手でデザインされた現代の書院造は「松風荘(しょうふうそう)」と名付けられた。そこで吉村がモデルとした書院造は、天台宗寺門宗総本山の滋賀の園城寺、別称三井寺の境内に建つ国宝、光浄院であった」p183 「MoMAの中庭の建築(松風荘)を、丹下健三ではなく吉村順三が設計したということは、その後の日本建築の歩みに大きな影を落とした(丹下健三の怨念により伝統論争に発展した)」p189 「(高知県檮原町(ゆすはらまち)での体験)そこで教わったことは、僕の一生の宝となった。そこでは単に、建築の施工についての諸々の細かく具体的な知識を身につけることができただけではなかった。自分にしみついてしまった設計の方法論に代わる、新しい方法論を、檮原の現場で学んだのである。それは「頭で設計する」のではなく、「モノから考える」方法であり、「上からの設計」ではなく「下からの設計」という方法論であった」p240 「「コンクリート化」が国家目標であった戦後の日本では、コンクリートが上等であり,高級であり、難易度も高いということになっていた。コンクリートの建物を設計できる一級建築士の方がレベルが高く、木造しか設計できない二級建築士は低レベルと見なされてきた。しかし僕の経験からいえば、木造設計の方がずっと難しい」p241
著者の隈研吾は現在日本で1番有名な建築家 特に国立競技場の設計以降はその地位を確立したと思う。 そんな彼が建築会の和の巨匠、大家などと言われることに抵抗があり、この本を角に立ったと初めにで書いている。 日本の建築において海外の影響などはとても強く受けていることもよくわかる。 しかしその反面、海外の有...続きを読む名建築家が日本の家屋からインスピレーションを得て、世界の名建築を生み出していると言うこともここで紹介されていた。 日本は建築や設計の面では、世界のトップグループに入る国だと思った
隈研吾。いまさら説明は不要であろう。「和の大家」(本人は強く否定)が論考する日本建築の伝統。注目する建築家として挙げたのが、藤井厚二、堀口捨己、吉田五十八、村野藤吾、レーモンド、ぺリアンの6名。特に「小さな建築」を標榜し、「増改築の達人」とも称される村野藤吾を熱く論じている。西欧的な時間概念に対す...続きを読むる辛辣な批判者として再発見されるべき存在。普段は明かされることのない多忙な建築家の思考回路が読み取れて興味深い。アルヴァ・アアルトも「小さな建築」の大家として少しだけ触れられている。
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