G・フローベールのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
9月9日に日仏会館で開催されるイベント「日仏の翻訳者を囲んで」 (講師:太田浩一)に参加するために読んだ。
また、サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』を読む準備としての意味もある。
この物語はフランスの二月革命(1848年)頃を時代背景としているので、その時代の予備知識を補うために『クロニック世界全史』を読んだ。
以前からフランス革命には興味があったので、当時の世相の一端を知ることができるこの物語は、まさに一粒で二度美味しい作品だ。/
大学入学資格試験(バカロレア)に合格したばかりの青年フレデリックは、美術商アルヌーと知り合い、その夫人に心惹かれる。/
◯「人間の欲望は他者の欲望である」(ジャック・ラカン):
だとすれば、アルヌー夫人への欲望の前には、必ずやアルヌー本人への憧れがなければならないだろう。
あった!あった!
【男は共和政の支持者だった。各地を旅行したことがあり、劇場、レストラン、新聞社の内情につうじていた。著名な芸術家のことごとくと知り合いで、かれらを気やすくファーストネームで呼んだりもする。フレデリックが将来の計画をうちあけると、男は激励のことばをかけてくれた。
─中略─
フレデリックはある種の尊敬の念をおぼえ、どうしても男の名を知りたくなった。男はひと息に答えた。
「ジャック・アルヌー。モンマルトル大通りで〈工芸美術〉という店をやっています」
─中略─
〈工芸美術〉は絵を売買する店で、絵画新聞も発行していた。フレデリックはその店の名を地元の書店でなんどか目にしたことがある。かなり大判のパンフレットに、ジャック・アルヌーの名前が麗々しく記されていた。】(本書。【】内以下同様。)/
【一瞬、まぼろしがたち現れたのかと思った。
その女性はベンチの中央にひとり腰をおろしていた。というより、その人の投げかける視線がまぶしくて、ほかの人の姿が目に入らなかったのだ。前を通りすぎようとしたとき、女性は顔をあげた。フレデリックは思わず身をすくめた。少し先まで行き、ようやくその女性を横から見ることができた。
大きな麦わら帽をかぶり、帽子につけられたピンクのリボンが風にあおられ、ひらひらと背後にはためいていた。まんなかで分けた黒い髪は、長い眉の端をふちどり、ずっと下のほうまで流れるようにつづいて、卵形の顔をやさしく包みこんでいるかのようだ。小さな水玉模様の入ったあかるいモスリンのドレスが、多くのプリーツを見せながら裾をひろげている。なにか刺繍をしているところだった。まっすぐのびた鼻すじ、顎、そして全身が、青い空を背景にくっきりと浮かびあがって見えた。】/
この辺りの展開は、以前読んだレイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会
』とそっくりだ。
あそこでも、主人公のフランソワは、まずドルジェル伯と親しくなり、しかるのちに夫人に恋をする。
まさに、ルネ・ジラールの「三角(形)的欲望論」※そのままだ。/
※ ルネ・ジラールの「三角(形)的欲望論」:
《ジラールの模倣(ミメーシス)的欲望論は,(略),人間の欲望が他者の模倣であるという仮定から始められる。そして,その根幹には,三角形的欲望という概念が存在する。
ー中略ー
欲望とは自分自身の心の奥底から自発的に引き出してくるものではなく,他者から借用してくる ものである。つまり,他者が主体に対して模倣する欲望を媒介するのだという。 そして,その関係性は,欲望する主体と欲望を引き出す媒介,そして欲望の対象という三角形の図式となる。これをジラールは「三角形的欲望」と表現する 》(松 平 功「ルネ・ジラールにおける模倣(ミメーシス)的欲望論とキリスト教」より。)/
◯『ボヴァリー夫人』と『感情教育』:
読んでいると、どうしても先日読んだ『ボヴァリー夫人』と比べたくなってしまう。
・生活、風俗:
『ボヴァリー夫人』が田舎の生活や風俗を描いているのに対して、『感情教育』ではパリという大都会の生活・風俗が描かれる。
娯楽に乏しい地方の生活と打って変わって、パリの生活は高級レストランや競馬、はたまた高級娼婦などとあくまでも享楽的である。
また、地方の免許医にすぎないボヴァリー氏と伯父の遺産が転がりこんだフレデリックとの経済力の格差もあり、ボヴァリー夫人が家産を傾けたような散財も、フレデリックにとってはほしいままにする贅沢にすぎない。/
・恋愛:
ボヴァリー夫人の生涯を賭けた悲壮感漂う恋愛に対して、フレデリックのアルヌー夫人への思慕は高級娼婦マレシャルや資産家ロック氏の娘などの他の選択肢を温存しつつ、続いて行く。(僕が想起したのは、オペラ『フィガロの結婚』などのような貴族や大金持ちの浮気やアヴァンチュールだ。)/
・作品の印象:
『ボヴァリー夫人』が悲劇的であり、運命の歯車に抗えずに破滅へと押し流されて行く「重い」物語であるのに対して、『感情教育』のほうは喜劇的であり、ブルジョワの乱痴気騒ぎのような表層的な「軽さ」が感じられる。
たぶん、フレデリックはアルヌー夫人との恋を失ったからといって、自殺したりはしないのではないか?この物語には自殺はそぐわないのだ。
もしかすると、僕が共感したボヴァリー氏の「痛み」のような切実な感情には、この物語では出会えないのではないだろうか? -
Posted by ブクログ
原著1877年刊。
未完の長編『プヴァールとペキュシェ』を除けば、フローベール最後の作品とのこと。
非常に趣の異なる短編が3つ入っているが、私としては、『ボヴァリー夫人』みたいな写実的な現代物の、巻頭にある「素朴なひと」が一番好きだった。
この作品は「暖かな眼差し」を感じさせるような人間的ぬくもりがあるように思うし、主人公である「素朴な」女中のキャラクターがとても好ましい。
この作品を読んでいると、鬼のように推敲しまくって彫琢されたフローベールの文章の「わざ」に惹き付けられる。一つの語りから次の語りへとなめらかに転調してゆくような「つなぎめ」部分は料理にたとえれば「絶品」という感じである。このように「書くこと」に自覚的に執念を燃やした作家は、やはりフローベールが随一だ。
続く「聖ジュリアン伝」はロマンチックな英雄物語のようで読者を引き込み、その分、「文章の味わい」に注意を向ける暇が無い。
最後の「ヘロディアス」は古代ローマの時代を扱った一種の「歴史物」ということになるか。しかし史実というより多分に伝説に基づいている感じだ。
私にとってはやはり「素朴なひと」が最高だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ初夜のあとシャルルがむしろ処女だったみたいでエンマはスンとしてたのウケる
「彼女が知らない場所で寝るのはこれで四度目だった。(中略)そして、そのどれもが自分の人生に新たな段階の幕開けをもたらしてきた。場所が違うので、同じことがまたしても起こるかもしれないなどとは思えず、これまで体験してきた部分がなにしろ辛いものだったので、たぶんこれから味わうべきものは、もっとましになるだろう。」
「男の子を持つというこの思いは、これまでできなかったさまざまなことに対するひそかな復讐のようなものだった。少なくとも、男なら自由で、どのような情熱もたどれるし、いかなる国々も駆けめぐることができ、あらゆる障害をくぐりぬけ、どんなに遠くにある幸福でも食らいつくことだってできる。ところが女はしじゅう思うようにいかない。女は活発さに欠けるだけでなく従順だし、意に反して肉体の軟弱さを持ち、法に縛られやすい。」
「自分の魂を奪ってくれるなら、生活をまるごと消し飛ばしてくれるなら。どんな深い信仰にも身をささげてみようという気になっていた。」
「エンマもほかのどの情婦とも似たり寄ったりで、そして、目新しさの魅力は少しずつ剥げ落ち、衣服と同じことで、そうして目にする裸は、お定まりの恋情の単調さで、恋情はいつも同じ形をしており、同じ言葉づかいをするのだ。じっさいの経験をつんでいるこの男も、同じ表現を浴びせられると、感情の違いなど見きわめようもなかった。というのも、放埒な唇や金で買った唇にも同じ文句をささやかれていたからで、彼はエンマの言葉の純真さをろくすっぽ信じられず、凡庸な情熱を秘めている大げさな愛の言葉は割り引いて聞くべきだと思っていて、まるで心が充ち足りると、ときどきじつに空虚な比喩がこぼれでるようなもので、なにしろだれであれ自分の欲求や想念や苦悩が正確にどれほどのものか示すことなど決してできないからで、さらに人の言葉は音の狂ったひどい楽器のようなものだからで、空の星までほろりとさせようとしても、熊を踊らせる節回しを打ち鳴らすことにしかならないのだ。」←心当たりありすぎ -
Posted by ブクログ
19世紀フランス文学の名作。モームの世界十大小説のひとつ。原文に忠実な訳文を目指したという日本語最新訳。
恋愛小説のような情熱的な恋に憧れていた少女が、うっかり平凡な結婚をしてしまった反動で引き起こしてしまう壮絶な不倫劇。不倫にまつわる情動の燃え上がりや苦悩の激しさをあますことなく描き切り、恋愛と結婚の本質に芸術的な迫力で切り込んでいる。こういうドロドロとした話を目にすると「昼ドラ」という単語が頭に浮かんでしまうが、内容そのものは実際、現代においては目新しいものではないのかもしれない。しかし酸いも甘いも噛み分けたようなフローベールの筆致は並みのエンタメでは味わえない凄まじさがあり、読み継がれるべき名作なのは間違いない。
この新潮文庫版、裏表紙の紹介文で盛大なネタバレをかましているので、これから初見の人は注意。いくら有名な古典といっても初めて触れる読者もいるだろうし、配慮がほしかったところ。 -
Posted by ブクログ
冒頭は、これでもかというぐらい当時の様子が描写されている。
まさに、もう一つの主人公は19世紀(改造前の)パリ。
主人公フレデリックが、超賢くもとんでもない阿呆でもなく、ごくごく普通な(時に失敗する)人間なのが良い。
これから面白くなるー!というところで下巻に続く。
今のところ回収見込みが無さそうなお金の貸し借りと、見込み薄の恋愛と決闘しかしてないよ、フレデリック!
あと、光文社古典新訳文庫の表紙絵は、作品を読んで膨らんだイメージを描いているらしいんだけど、この青虫のような人間の絵は一体何を表してるんだろう。
あ、、もしかして蝶(成熟した中年男性)になる前の、青くさいフレデリック自身を表してる、、? -
Posted by ブクログ
吉田健一の『文学人生案内』第一章「文学に現われた男性像」に小説には女性が華やかに、かつ悲惨に焦点を当てられ中心になって描かれているのが多い、男性には光が当てられてない、 という記事にはわたしは目をひらかれる思いだった。
吉田氏はこの本の中で「フローベルの『ボヴァリー夫人』」という章で詳しく、文学論のような感想をも書いていてらっしゃるのだけど、第一章のように副主人公の男性ボヴァリー氏については掘り起こしていない。
ただ、「フローベルは人生など何ものでもなく、充実か虚無かのふたつであると思っている思想のもとに描いた」と結論付けている。
しかし先の「文学に現われた男性像」に吉田氏が触れられているのは、田舎娘エンマをボヴァリー夫人にするだけのボヴァリー氏ではない、読者に印象付けられる特異な人物なのであるという。
そう、ボヴァリー氏は脇役ではない、最初から最後まで登場するというだけではない、夢見るばかりで実人生をふわふわ追いかけ、きれいなものが好きで、浮気や浪費を限りなくするエンマ・ボヴァリー夫人を強烈に愛するエネルギーある人物なのである。
どうしょうもない女性を愛してしまったら、一緒に奈落に落ちるしかない、強い強い男性なのである。だからエンマが破産して自殺してしまったら、抜け殻となり死んでしまう、生ききった男性主人公なのである。
それで「ボヴァリー夫人はわたしだ」と作者は言ったのだと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレボヴァリー医師の妻、美しいエマが、姦通を重ね、虚栄に溺れ、借財に追われ身を滅ぼす話。目の前の誘惑に負ける、強欲で愚かなエマ。遺された者のことを考えない、身勝手で卑怯なエマ。でも、およそ500ページにも及ぶ彼女の半生を辿ると、同情してしまう自分もいる。
エマは根から倫理に反した人間ではなかった。ただの夢見がちな少女だった。親や周囲に決められた結婚だったが、夢を見るだけに止まっていた。参事官の演説中、ロドルフがエマを口説く場面では、その行間にエマ(天使)とエマ(悪魔)の会話が隠れているみたい。彼女の葛藤が見事に現れていた。そして、彼女の人生の転落へ扉が開かれる印象的なシーンだった。一度身を持ち崩すと転がるように破滅の道を進む。夫が仕事で失敗し、自尊心の痛打をうけたときには、操正しくしたことを後悔すらする厚顔ぷり。
シャルルもシャルルで、エマの不貞に一切気がつかず(死後ロドルフからの手紙を見つけてもなお疑わないほどに現実から目を背けていたのだろう)、エマに理想を押し付けていたんじゃないかな、と思う。でもシャルルが全きの悪人でないところにこの物語のやりきれなさがある。
結局はエマの周りの人は誰一人幸せにならず、現実を生きる薬屋オメーと悪商人ルウルーだけが成功を収める。対比が痛烈。
現代だって、有名人の不倫なんてどーーでもいいことを第三者が鬼の首を取ったようにやいのやいの言うんだから、この小説が発表された19世紀には問題作扱いされるのは当然とも言える。裁判にまで発展し、そこで作者が発した「ボヴァリー夫人はわたしだ」という言葉はあまりにも有名。この言葉の裏にあるのは、「誰の心にもボヴァリー夫人がいる」ってことなのかな?????????? -
Posted by ブクログ
さすがは光文社新訳文庫!
訳注がとても親切な上、随所に画像が挿入されていて非常にわかりやすいです。さらに訳者まえがきでは、時代背景が解説されており、巻頭には地図、巻末には年表までつけられています。しかもしおりには、主な登場人物の簡単な紹介が。
このようないたれりつくせり、非常に快適そうな書なのですが、その入り口はなんだかとっても敷居が高いです。
「しばらくの間、辛抱強く読みすすめていただくことを願っています」だとか、「ともあれ、これから『感情教育』の大洋に乗りだす読者が、つつがなく航海を終えることを祈ってやみません」なんてなことが、いきなり、訳者まえがきに書かれているではないですか。
どうもこの上巻は、辛抱の巻であるらしく、読む前から、ちょっと心が折れそう。
ですが、ですが、心配ご無用です。
確かに、主人公の若者フレデリックは、美術商アルヌーの妻に恋心を抱きつつも何ら関係は進展せず、アルヌーの愛人であり他にも幾人もの男と関わっている女性ロザネットにもふりまわされるばかりだし、運よく伯父の遺産を相続したものの、特に何かになろうとするでもなく、「まだる」く物語は進んでゆきます。
が、このまだるさ、連綿と続くちょこちょこした出来事の一つ一つが、なんと非常に面白いのです!登場人物たちが織り成す出来事の数々には、彼らの底の浅さやこずるさが容赦なく絶妙に表現されているのも楽しいです。
そういう楽しみが凝縮されているのが、この上巻の終わり近くにあるフレデリックとシジーの決闘のエピソード。まるでドタバタ喜劇のような展開です。
フレデリックが片思い中のアルヌー夫人をシジーに馬鹿にされたと感じて暴れたことから決闘となる流れからして馬鹿馬鹿しいです。にもかかわらず、一人の女性のために決闘するのだ!とか、一人盛り上がるフレデリック。
決闘の立会人をたのまれたルジャンバールは、相手が貴族と知って居酒屋で剣術指南をはじめちゃいますし、当人に確認もせず断固和解を拒否しちゃう(それに対してフレデリックは「誰か他の人を介添人にしたほうがよかったかも…」と思っちゃう)のみならず、さらに侮辱を受けたのはどちらか、という解釈についてまで話をややこしくしちゃいます。
シジーは、決闘に対して非常に弱気で、いとこが黙って決闘を中止にしてくれないかなとか、フレデリックが脳卒中で死んでくれないものかとか、暴動が起きないかとか、自分が病気にならないかなとか、翌日学校へ行きたくない小学生みたいなことを延々思っていたりします。挙句が当日現地にて失神。せっかくの小説の盛り上がりどころであるはずの決闘なのに、全然かっこよく決まりません。
とどめが「私のために争わないで」と決闘を止めに入るのが、なぜかアルヌー!!
フレデリックの父親が決闘で亡くなっているのですから、この決闘も、普通だったらもっとドラマチックなものになりそうなものですが、全くそうはなりません。というか、フレデリックにしろ、ルジャンバールにしろ、アルヌーにしろ、各々ドラマチックに行動しているのですが、全く現実とかみ合っていないのです。
この小説の注目のしどころは色々あると思いますが、私自身が目が離せないのは、フレデリックとデローリエの関係。
出会いは鉄板の寄宿制の高等中学校、片や、傾きかけた資産しかないものの貴族の旧家出身の母を持ち、平民の父親は生まれる前に死亡していたため、父親不在の家庭で一人息子として期待され大事に育てられてきた者、片や、余裕のない家庭で、もと軍人の執達吏の父親から殴られ続けて育った者。はじめは特に親しくなかった二人ですが、デローリエの暴力事件を機にフレデリックの方から近づいて親友に。上級生と下級生の微笑ましい美味しい仲良し生活の中、卒業後一緒にパリで暮らすことを夢見ます。が、デローリアは、あてにしていた母親の遺産が手に入らないため、学資を貯めるためにトロワで働くことに。
デローリエは、運よく伯父の遺産を手にすることになるフレデリックとは非常に対照的な人物なのです。そのため、現実的でフレデリックにはない上昇志向や野心をもっています。
ただ一人の親友的存在であるはずのデローリエですが、フレデリックからの扱いは非常に酷いです。デローリエをとるかアルヌー夫人をとるか、という選択の場面が2度ありますが、どちらもアルヌー夫人の圧勝。全然つきあってもいないのに。
一時期疎遠になっていた時期には、ロザネットと一緒に乗っていた馬車で泥水ぶっかけたりまでしています。上巻の最後あたりで、仲直りしますが、この二人の今後が非常に気になります。
あと、真っ直ぐで気のいいもじゃもじゃ頭の屈強な青年デュサルディエも気になる存在。彼が登場するだけでなんだか癒されるような気持ちになるのですが、巻末の年表に1851年12月に死亡と書かれてしまっているではないですか!?
私にとってはこの小説を読み進める上での大事な憩いの場的存在ですから、できればそれは、下巻の終わりのほうであってほしいです……。
前書きを読んだ時点では、下巻が出るまでに読み終えられないんじゃないかとか、挫折しちゃうんじゃないかとか心配したのですが、もう今は下巻が待ち遠しくてたまらないです! -
Posted by ブクログ
想像したよりもずっと楽しんで読めた。
エマはゾラのナナのような根っからの奔放な女性では無かったように思う。では誰が犯人か?夫であるボヴァリー医師その人だろう。社会的に高い立場にいながら(この職を得ることが出来たのも母のお陰なのだが)、誰からも尊敬をえられず、その自らの立場にも気づかず、何とか起死回生を狙った手術のただ一回の失敗に自信を無くし、あげくに最後まで妻の不満や不貞にも気づかない愚鈍さ。エマは結婚という契約に縛られながら、自分を決して満たすことのない夫から離れ、女としての憧れや夢を外の愛人達に求める。結果、期待は裏切られ、最後には自滅へと至る。無知と田舎者特有の富や贅沢への憧れ故に悲劇的な最後を迎えざるを得なかったエマだが、決して彼女のせいだけでなく、彼女を取り巻く男達のだらしなさが彼女を追い詰めたのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
『紋切型辞典』これがまた面白い。ついでにフラ語の勉強にもなる。
岩波さんの書物案内によると
--ここに編まれたおよそ1000の項目は,衣服,飲食物や動植物に関するもの,礼儀作法の規範,身体と病気についての俗説,芸術家,歴史的人物の逸話と彼らの評価など,多岐にわたる.フローベール(1821-80)はその記述に様々な手法を駆使して,当時流布していた偏見や言葉の惰性,硬直した紋切型の表現を揶揄し,諷刺してみせた--
と、まぁ、このとおりなのであるが、『紋切型辞典』の着想をフローベールは早くから抱いていたらしい。
ジュリアン・バーンズが『フロベールの鸚鵡』という本を20年ほど前に書いているが、このなかに、『紋切型辞典』の形式を真似、アルファベット順にユーモアたっぷりの簡単な『紋切型辞典』を書いている。こちらもアイロニーが効いていて楽しい。