あらすじ
19世紀フランスを代表する小説。田舎医者シャルルとの平凡で退屈な結婚生活にエマは倦んでいた。理想と現実とのギャップ。満たされない心……。彼女はやがて夫の目を盗んで情事を重ね、散財を繰り返し、膨大な借金を抱えてしまう。センセーショナルな内容から発表当時は不道徳の廉で訴えられて裁判沙汰になったが、その効果もありベストセラーになった。作家の深意、意向、意図を可能なかぎり反映させた忠実な翻訳。
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Posted by ブクログ
小説自体は読むのは三度目(新潮文庫の生島訳と河出文庫の山田訳は既読)。この翻訳はとても読みやすかった。
読み終えるのに1ヶ月ほどかかった。中盤の農業共進会までに5日くらい、その後しばらく放置してたまに少し読み、ロドルフと懇ろになって以降最後までを3日で。
集中すればもっと早く読めただろうが結果的にはこのペースでよかった気がする。エマの死後、シャルルの回想に現れる、まだ結婚する前のエマを彼と同じように懐かしむことができたのは時間が空いたからこそ得られた効果だったと思うから。
覚えているところと、すっかり忘れていたところがあった。
中盤まではよく覚えていた。ロドルフの逃走やレオンの尻込みは、忘れていたけれどまあそうなるよな、と予想の範囲内。
すっかり忘れていて度肝を抜かれたのが、服毒後のエマの様子。嘔吐、痙攣、せん妄。長々と続く苦悶の描写は鬼気迫る。軽くホラー入ってる。醜い盲人の歌を聞きながら事きれるのは残酷。エマと仲良くしていた女中が、死んだ彼女の衣装を盗んで男と駆け落ちするのは気分が悪い。
シャルルは死に、両親を失った娘は生活のため工場勤めに出る。寒々しい終わり方。一方で、ボヴァリー家以外の人たちの生活はエマの死に何の影響も受けず淡々と続いていく。シャルルの落胆と比較してロドルフは平然としているし、登場しないレオンも結婚でもしてうまくやっているのだろう。
エマの死は悲劇だったけれど、世界に何の影響も及ぼさないし痕跡も残さない。彼女の死にも悲劇にも、意味なんてない。そういう冷徹さが、露悪的でなく、不快に転じず、現実的な説得力を持って描かれているところがこの小説のすごいところだと思う。
Posted by ブクログ
読み終えるまで大分時間がかかったが、読み終えて読んで良かったと思える本だった。エマのシャルルに対する背信的な情事がいつ発覚し結末を迎えるのかと思いながら気の重さを感じながら読み進めるのだった。やはり読後はやるせない寂しさがどうしても残る。
しかし多彩な描写や豊富な語彙に引き寄せられ読書本来の楽しさや学び、恩恵を感じ取る事が出来た。
後書きで参考となる実話が存在した事を知り、この小説が発表された時、フランスの品位を貶めるのではないかと裁判沙汰になる程センセーショナルな存在になったと、それも理解出来そうである。
フランスにはフローベールという偉大なというか特異なというか作家がいて、その代表作を読んだという満足感や達成感みたいなものを感じた次第である。
Posted by ブクログ
やっと、『ボヴァリー夫人』にたどり着いた!
これも、「『ボヴァリー夫人』のここが読みどころ! 訳者・太田浩一さんを迎えて」のイベントのおかげだ。/
だいぶ前にサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の一、二巻を読んだが、実はそのときはフローベールの作品を一作も読んでいなかった。
今思えば、なんてでたらめな読書をしていたのかと悔やまれるが、そんなわけで、今度『家の馬鹿息子』を最初から読み直すにあたっては、どうしても事前にフローベールの作品を読んでおきたかった。
以前、『三つの物語』だけは読んでいたのだが、やはりそれだけではなんだか足りないような気がしていた。
ちょうどそんなところへ、今回のイベントの情報を耳にしたので、渡りに船と飛び乗ったわけだ。/
この圧倒的な読み心地の良さはいったいどこから来るのだろう?
訳者:フローベールは、音読にたえるような文章を理想としたので、訳文もそれを心がけた。登場人物の性格を反映したセリフ。
これぞ、ミシェル•ビュトールが『レペルトワール』で言っていた「それぞれの声が聞こえて来る文章」だ。/
【シャルルとしては、なぜ自分がいそいそとレ・ベルトーへ通うのか、深く考えてもみなかった。
─中略─
エマ嬢はいつも玄関の階段のいちばん下の段まで見送ってくれた。馬がまだ用意されていないときには、その場に立って待っていた。別れの挨拶を交わしてしまうと、たがいに話すことはなかった。戸外の空気が彼女をつつんで、うなじのほつれ毛を乱したり、腰の上でエプロンのひもをなびかせ、吹流しのようによじれさせたりした。あるとき、ちょうど雪解けのころで、庭の木々の樹皮は水を滴らせ、屋根の雪はとけだしていた。エマ嬢は戸口に立っていたが、日傘をとってきてそれを開いた。玉虫色の絹の日傘に陽光がさし込んで、顔の白い肌がゆらめく反映で染まっていた。暖かい陽気に、傘の下で娘はほほえみを浮かべている。日傘の、ぴんと張ったきらめく絹地の上に、ぽつりぽつりと滴の落ちる音が聞こえていた。】(本書。【】内、以下同様。)/
◯ロシア・フォルマリズム の異化と恋愛:
《生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、》(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』)/
上に引用したのは、ロシア•フォルマリズムのシクロフスキーの「異化」の方法だが、日常生活を「異化」して生の感覚を蘇らせるもう一つの方法がある。恋愛である。/
【ロドルフは少し先にある小さな池のほとりにエマを連れていった。青浮草が池の面に緑の色をひろげていた。枯れた睡蓮が藺草のあいだにじっと動かずに浮いていた。(略)
「ああ、ロドルフ!‥‥‥」男の肩に身をもたせかけて、若い女はかろうじてそう言った。
ラシャのドレスが男のビロードの上着に絡まった。エマはため息を押しころして白い首筋を反らせた。そして意識が薄らぎ、泣きぬれて長ながと身を震わせながら、手で顔を覆って身をまかせた。
宵闇が迫ってきた。枝のあいだからもれる沈みかけた夕陽がエマの目にまぶしかった。(略)あたりは静まりかえっていた。(略)エマは心臓がふたたび鼓動しはじめ、血があたかも乳の流れのように体内をめぐるのを感じた。】/
エマはひたすら情人に愛を求め、着飾り、装飾品を買い集めては、ついに破滅に至り服毒する。
もちろん、すべてエマが悪いのだ。
だが、そんなことを言ってみたところでいったい何になるだろう?
エマはこのように生きてしまったのだ。
フローベールは、死にゆくエマの最後の瞬間を異様な熱心さで描写する。
まるで、彼はこう言っているかのようだ。/
《もちろん生涯はひとつの崩壊の過程である》(フィッツジェラルド「崩壊」/フィッツジェラルド作品集 (3)/渥美昭夫、井上謙治訳/荒地出版社/1981年)/
【シャルルが入ってきたが、ふたりは目をさまさなかった。妻に最後の別れを告げにやって来たのだった。
─中略─
月の光のように白い繻子のドレスの上で、きらめく波紋が震えていた。エマの姿はその下に隠れていた。シャルルには、エマが自身の外へ拡散していくように思われた。そして、周囲をとりまく事物のなかに、夜のしじまのなかに、吹きすぎる風のなかに、たちのぼるしっとりとした香気のなかに紛れ込んでいくような気がした。
やがて、ふいにエマの姿が目に浮かんだ。トストの家の庭の、茨の生垣のそばのベンチに腰をおろしている。かと思うと、ルーアンの街なかに、いまの家の戸口に、レ・ベルトーの庭にその姿があった。(略)
こうしてシャルルは、長いあいだ、過ぎ去ったすべての幸福を、エマのおりおりの物腰、しぐさ、声音を思いうかべていた。悲痛な思いは、あたかもおし寄せる上げ潮のように、次から次へと際限もなく胸につきあげた。】/
おかしい。何か変だ。
普通の恋愛小説なら、ヒロインの悲劇的な死で物語は終わるはずだ。
フローベールは、なぜエマの死後のシャルルや人々の後日譚にページを割いたのだろうか?
物語は、シャルルの死を待ってようやく終わりを告げる。/
ゴキブリ亭主としては、悲劇のヒロイン:エマよりも、エマに裏切られても、そんなこととはつゆ知らずエマを愛し続けるシャルル•ボヴァリーの姿に、どうしても身につまされてしまうのだ。
「シャルル•ボヴァリーは私だ」。/
ここに至って、シャルル•ボヴァリーの姿は、奥様の娘ヴィルジニーを愛し、甥っ子のヴィクトールを愛し、おうむのルルを愛して死んでいった『三つの物語』の「純な心」の女中フェリシテの相貌に酷似してくる。/
これでようやく、サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』を読む資格を得たような気がする。
Posted by ブクログ
前半でやめずに最後まで読んでとても良かったです。細波のような何事も起こらない前半が荒波のような後半を引き立てる。数多くの語彙と比喩と引用による圧倒的な表現力。風景から人の仕草にいたるまで細部に渡る細かな状況描写は、当時のフランスの田舎町の映像を脳裏に映します。そして、複雑な禁断の恋と破滅に向かう心理描写は、まさにフランス文学の傑作。とても読みやすい素晴らしい訳だと思いました。
Posted by ブクログ
不倫には歴史的許容があるからこその内容かと思いきや、公序良俗に反するわいせつ罪に問われてしまった作品。ゆえにベストセラーになってしまったというあたり、いつの時代も実は垣間見たい恋愛テーマなのだろう。
日常の退屈から逃れるために、愛と情熱を追いかけるエマ。そして何もかも失ってしまう。
ただの向こう見ずで夢見がちのわがままとしか思えないし、病的な恋愛依存で、子供がかわいそうすぎる。そんな現実的な冷めた感想を持ってしまった。
でもそれこそが作者が求める現実的な感想かもしれず、どんでん返しやハッピーエンドのオチが必ずある訳ではない、まさに現実を描き出しているのだろうと思う。
解説を読んで気づいたが、視点がさりげなく変わっていく。最初は「わたしたち」が語っているが、その「わたしたち」は途中でいなくなる。
訳は読みやすく、風景の描写が爽やかで目の前に景色が広がる。