G・フローベールの作品一覧
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ユーザーレビュー
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書き手の存在が極限までに削ぎ落とされた結果生まれた、素朴でスマートな写実力が魅力のフローベール文体。個人的にはそこまで惹かれないが、公平性、主人公と作者の距離の絶妙な取り方という点に関して、とても勉強になる。
書き手の感情はもちろんのこと、描かれた人物の内面をこと細かに書き連ねることはせず、分かりや
...続きを読むすい行動や象徴的な動きにクローズアップし、それを丁寧に描写することで積み上げていく。
ただ「〜した」等が執拗に連続するため、本国の言語だと魅力的に思えるとこが、日本語になった途端、自分の好みである流れるような読書感は感じられなくなった感じはある。
正直好みではないかも。
突如差し込まれる非現実的な描写に関しては上手いと思う。
Posted by ブクログ
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『ボヴァリー夫人』
「そろそろやばいかな」とかこの若妻は思いません。
元祖ゴーイングマイウェイな”ボヴァリー夫人”。
若い時の夢見がちな空想って、
いつしか現実と向き合う時間が増えるにつれ
にこやかに送り出せるものだと思うのですが、
(と言うかサヨナラせざるを得ない…?)
この妻、諦めない。
...続きを読む
夢想で無双。
ナボコフは『ナボコフの文学講』の中で、
「俗物の中の俗物」みたいな勢いで彼女を評していましたが、今で言うと
スイーツ大好きインスタ映え命の韓流ドラマ大ファン女子って感じでしょうか。
(悪気はないです。例えね例え。)
もうね、ここまで貫かれると賞賛しちゃう。
あっぱれだよあっぱれ。
最後のほうなんてむしろちゃんとやりきってくれよって若干思ってた。
1857年の作品が、2023年に新訳で読めてるってもうやべーことだと思うのですが、
何でそこまで語り継がれているかって言うと、
当時のフランス文学をガッツリ変える革命を起こしているからなんですねぇ。
起こっている事を何もかも知っている俯瞰の第三者に語らせるという物語進行をせず(神の視点の排除)、
話者がかわるがわる交代することにより
それぞれの主観を際立たせ、感情移入を容易にしている。
つまり話者が、
誰かがこちらへ向かっているけどそれが誰かは分からないという状況なら、
我々読者も誰が来るのかわからない。
こういったミステリアスな仕掛けが、個々の文章や小説全体から受ける印象を形作っており、
まさにハラハラドキドキソワソワの追体験を読者に提供してくれています。
そして当然ストーリーとしても面白い。
これは当時のフランスで意欲作というか、
最早喧嘩腰作ですね。やるやんフロベール。
うまいなこの料理ってなって、
複雑な調理法や意外な材料を考えながら食べることもできるし、
「とりあえずうまい」とそのものの全体の味を楽しむこともできちゃう、と盛り沢山でありました。
Posted by ブクログ
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最初は冗長に感じたが、読み進むうちに繊細な情景描写や感情表現にぐいぐいと引き込まれた。文学史上に残る傑作だと思う。翻訳も丁寧で読みやすい。
Posted by ブクログ
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冷静で緻密な描写に終始圧巻される。
ストーリー自体は現代ではありふれた転落劇だが、これでもかと積み重ねられた情景描写が雄弁で士気迫ってくるものがある。
農業共進会でのロドルフとの逢引シーンが素晴らしい。
役者あとがきまでボリューム満点で満足度が高かった。
シャルルは何も悪いことはしていないし一貫して
...続きを読むかわいそうではあるけど、エンマの嫌悪する気持ちもわかってしまう。
Posted by ブクログ
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ついに…読み終えてしまった…!めちゃくちゃにおもしろくて、素晴らしい作品…
①ダンブルーズ氏の葬式における描写。
・フローベールの死に対するあっけない滑稽な描きかた。『ボヴァリー夫人』でも死人の扱いはさっぱり、淡々と扱う。死にゆくまでの肉体的な苦しみは丁寧に描くものの、死そのものに対する厳かな目線
...続きを読むはない。
「小石まじりの土がかけられた。これでもう、だれひとりとしてこの男のことなど気にかけないのだろう。」
という文章に見られるように、死んでしまえばおわり、という達観した死生観がみられる。⇔だからこそ、生きている間の滑稽なまでの生にしがみつく動き、がおもしろい
・葬式の「形式」を批判。参列した人はみな葬式のことなんてこれっぽっちもわかっておらず、口ぐちに俗物てきな話ばかりしている。
②フレデリックのアルヌー氏化
フレデリックはアルヌー夫人に恋をし、はじめはそんなアルヌー夫人を妻としてもちながら外で遊び歩いているアルヌー氏を軽蔑している。しかし物語がすすみ、アルヌー夫人と思い通りの関係になれないと、むしゃくしゃして他の女性に手をだしてしまう。
まずフレデリックが手を出すのが、ロザネットだ。ロザネットは、もともとアルヌー氏の愛人だった。フレデリックはアルヌー氏への当てつけの意味もあり、ロザネットと関係を持つ。
その後も故郷のルイーズや、上流階級のダンブルーズ夫人など、さまざまにタイプのちがう女性にあっちへこっちへ気がおもむくままに手を出す。結局、四人の女性の間で身動きが取れなくなるが、フレデリックが最後に出会い、最後まで想いを寄せていた相手はアルヌー夫人であった。これはアルヌー氏も同じである。
しかし決して、フローベールはそんなフレデリックやアルヌー氏を非難しているとは思えない。
「どれほど心を開いたうちあけ話でも、相手にたいする気がね、思いやり、憐憫の情などから、かならず口にだせないことがあるものだ。相手の、もしくは自分の心のなかに懸崖や泥沼を見いだして、それ以上さきへ進むことができなくなる。話したところでとうてい理解してはもらえまいという気持ちになる。どのようなことであれ、それを的確に言いあらわすのは至難のわざだ。人と人との理想的な結びつきがめったに見られないのも、そのためである。」
から見られるように、人と人が一対一で完璧につながり合うことなど不可能であるのだ。フレデリックも、アルヌー夫人に寄せた恋心は本物であるが、相手が既婚者なため理想的な関係にはなれない。ほかの女性でも、ここはよくてもあそこは欠点だというように、完璧に好きになることができない。それが人間関係の当たり前のことだと、フローベールは理解していたのだろう。
それでも、最後にはアルヌー夫人と再度恋心を確認し合う、しかしその時にはアルヌー夫人の白髪をみて、フレデリックは一瞬幻滅してしまう。恋というもののもろさを暴き出し、そして最後にはデローリエとふたり、まだ恋というものを知らなかった、夢見ていたころ、友情こそが第一だったときを思い出して「あのときがいちばんよかった」と語り合うのだった。
Posted by ブクログ
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