神谷美恵子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
この本を手に取ったいきさつを忘れてしまったが。今の時代だからこそ、というよりも本に記してあるように、いつの時代でもきっと、生きているうちに、もっと言えば窮地に立たされた時、或いは幸福至極な時に、自分自身に問うていみたり、答えてみる言葉だと思う。仕事の中で対象者の「生きがい」について深く考える立場でありながら、自分自身、なぜその言葉を表出することがなかったか、その理由が何となくわかったような気がする。他人の「生きがい」なんてそうそう語るものじゃないし、「生きがい」そのものの持つ意味すらこの本に巡り合うまで本当にわかっていなかったんだなとつくづく思い知らされた。自分の中で再び言葉を噛み締めて再読してみたい。
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ネタバレ
マルクス・アウレリウス帝
・マルクス・アウレリウス帝(ローマ帝国最後の五賢帝)のパルティア戦役→勝利→
帰還兵たちが新感染症(天然痘か麻疹と言われている)をローマに持ち込んだ=『アントニヌスの疫病』→
6000万人のローマ帝国で、1000万人の人が死亡→急激な人口減少→ローマの経済力の減退→
国家の安全保障に揺らぎ→ゲルマン民族がドナウ川口境を脅かすようになっていく。
・マルクス・アウレリウス帝「まもなく土は我々全てを覆い隠してしまうだろう。
次に土自身も変化し、更には次から次へと無限に変化して行く。
この変化と変形の波の動きと、その速さを考えて見る者は、諸々の死すべきものを軽蔑するに至るであろう。
全て君の見ているものは、まもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身も、
まもなく消滅してしまう。極めて高齢に達して死ぬ者も、結局は夭逝した者と同じことになってしまうであろう」
・マルクス・アウレリウス帝の死→ローマ帝国衰亡の始まり→
かつては享楽的で世俗的であったローマ帝国→三世紀にはキリスト教的(禁欲的で来世的)な雰囲気に変わった→
「神々はローマを見放した」「それならキリスト教だ」→
キリスト教「肉体の死を恐れてはならない」「魂を滅ぼすことのできる方、即ち神を恐れなさい」
「疫病による死は現世からの解放であり、キリスト教徒を天国での新たなる生へと導くものである」
→キリスト教徒は死や感染を恐れず病人を看護し、病院の経営も行った→
キリスト教の勝利→ローマの滅亡→中世の時代へ。
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Posted by ブクログ
いま読んでる
「生きがいということばは、日本語だけにあるらしい。〜 “ただ漫然と生の流れに流されて来たのではないことがうかがえる”」
「こうした論理的、哲学的概念にくらべると、生きがいということばにはいかにも日本語らしいあいまいさと、それゆえの余韻とふくらみがある」
フランス語で近いのは“raison d'être” (存在理由)
「ためらわずに行動するためには反省しすぎることは禁物なのであるから。しかし、深い認識や観照や思索のためには、よろこびよりもむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる」
「ひとは自分が何かにむかって前進していると感じられるときにのみ、その努力や苦しみをも目標への道程として、生命の発展の感じとしてうけとめるのである」
「”身をささげるものが何もないというのは何という欠乏を感じさせるものだろう。幸福とは独立性にあると一見思われるかも知れないが、実際はそのさかさまなのだ”」
「どのようにしてひとは特定の価値体系を採用するようになるのであろうか。幼年時代に主として両親を通して社会的環境によってこれが与えられるという考えは、フロイトをはじめ多くのひとによってみとめられて来た。そこに文化人類学者たちのいう文化と人格の関連性があるわけであるが、しかしことはそれほど簡単であろうか。〜 別の生活圏から現れて来た人物との出会いを通して、まったくちがった価値体系がもたらされることもある」
「生きがいを求めるという心は、被害や非難のない状態を前提条件にするか、あるいはたとえ被害や非難があっても、それをおぎなってあまりあるようなものを求める心であろう」
「結局食欲の満足というものは、ただそれだけではあくまでも生理的なもので、身体と精神に低い次元の安定をもたらすだけではないであろうか」
「“成長動機”の場合にはむしろわざわざ一層の困難や努力を、すなわち一層の緊張を求める欲求がみられるという」
「キャントリルによれば人間はあらゆる経験に際して直観的に価値判断を行うようにできている。それを彼は経験の“価値属性 value attitude”とよんでいるが、彼の考えでは、人間の最も普遍的で本質的な欲求は“経験の価値属性の増大”を求める傾向であるという。
この欲求がみたされたときには、それは経験の“高揚”として感じられるはずであるが、その感じの判断は本人のみによって行われる。」
「キャントリルのいう“経験の高揚”とは私たちの“生きがい感”にほかならない」
「ふつうの健康の持主が、朝おきて、その日自分のなすべき仕事は何かわからない、というような状況にあるとすれば、それだけでも生存の空虚さに圧倒されるにちがいない。精神生活の上での失業はこの点でなお一層大きな不幸である」
「未来においてより大きな自由を手に入れるために、現在の小さな自由を放棄し、覚悟の上で自らを不自由の中に拘束しておくというならば、そのような計画性と選択性には、やはり自由と主体性がひそんでいるといわなければならない」
「いきいきと、堂々と歩いていくためには、どうしてもひとは自己に忠実に“そのあるところのものになる”必要がある」
「本質的な自己を実現して行くには多くの努力と根気が必要とされる。その結果、この目標が少しでも達せられるならば、そこにはすべてを圧倒するようなよろこびが湧きあがるであろう」 p70
「人間の知覚というものは必ず“解釈”を伴っており、またその解釈には過去や未来まで内在していると考えられるからである」 p73
「ところがひとは自分の心の世界を超えるものについては、自分の世界での概念を使って説明や理解をこころみることしかできないので、そこからたくさんの心のくいちがいがおこる」
「ほんとうのところは自分が住むのに最もふさわしい世界、つまりそのなかで一ばんのびのびできる心の世界を作ろうと努力しているだけのことなのかも知れない」p84
「しかし何よりも苦しみの感情を概念化し、ことばの形にして表出するということが、苦悩と自己との間に距離をつくるからではなかろうか。
“いうにいわれぬ”苦しみをいいあらわそうとするとき、ひとは非常な努力によって無理にも苦しみを自分からひきはなし、これを対象として眺めようとしている。
その時、自分ひとりでなく、だれかほかのひとも一緒にそれを眺めてくれれば、それだけでその悩みの客体化の度合いは大きくなる。
悩みというものは少しでも実体がはっきりするほど、その圧倒的なところが減ってくるものらしい。
したがって、いいかげんな同情のことばよりも、ただ黙って悩みをきいてくれるひとが必要なのである」
p128
「〜に陥るひとびとを眺めてみると、そこにいくつかの共通点がある。そのなかで一ばん目立つのは我慢のなさと時間に対する不信の念である。
つまり、みな短気をおこしているのである。
どうせ自分なんかもうだめだ、と自分をみかぎり、事態もよくなることなどありえない、と世界と時間の可能性に対しても完全にみきりをつけてしまっている。そして、耐えがたい苦悩をたち切るため、まぎらすため、「短絡反応」に出るわけである。
生きがいを失ったひとが、もし新しい生きがいをみいだしたいとねがうならば、その探求はまず一切をみかぎってしまいたいこの心、このはやる心を抑えることから始まらなければならない」
p144 -
Posted by ブクログ
フランクルの「夜と霧」、エディスイーガーの「選択」と並び、自分の書棚に残しておきたい本が1冊増えました。テーマは「生きがい」です。
精神科医、神谷美恵子さんが、ハンセン病患者との交流を通じて本当の生きがいとは何なのか?7年かけて考察しています。
少し厚い本でしたが、心理学の本としては思ったよりも平易に読むことが出来ました。彼女がアカデミックな分析よりも、患者の発言や、作品など実体験を通じた考察を好んで引用しているためです。
初めてハンセン病患者の療養施設(愛生園)に収容されたとき、患者の多くはどれほど絶望したのか。その中で、どんな発見をしていったのか?
わたしたちが日頃大切だと「思い込んでいる」お金や、地位、名誉、物的な充足感がいかに皮相的なものなのか。
そんな誰にとっても大切な話を書斎だけで終わらせず、臨床の中で膨らませている。だからこそ、彼女の一言一言に重みがあります。
この本の副読本(100分DE名著)を読んで知ったのですが、書中で引用されている話のうち、いくつかは彼女自身の体験だそうです。
20歳のときに意中の人を結核で失ったこと。
自分自身も結核で死の淵をさまよったこと。
癌にかかり、期待していた人生を送れないかもしれないという恐怖。
生きがいを失うのはハンセン病患者に限った話ではなく、
生老病死から逃れられない、われわれ全員だと気づかせてくれるエピソードです。
こうした苦しみを通じて、ハンセン病患者と、神谷さん本人がどのような生きがいを見出したのか?
たくさんある中で1つ、わたしが手を止めた一節がありましたので、そこを引用して、レビューを締めます。いい本でした。
『人間が最もいきがい感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したときだと思われる』 -
Posted by ブクログ
神谷美恵子さん(1914-1979)は、津田塾大などで教授を務めた精神科医です。ハンセン病患者の方たちが暮らす「長島愛生園」で、精神科医として長く勤務されました。彼女の著書、『生きがいについて』『こころの旅』などは、多くの人の人生の指針として、今も読み継がれています。ハリール・ジブラーン(1883-1931)は、レバノンに生まれた詩人で、日本では、神谷さんの紹介によるまで、あまり知られていませんでしたが、その作品は、アラビア諸国だけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、南米、中国にまで親しまれているそうです。
私がジブラーンの詩を知ったのは、ブログの記事によってです。今までに味わったことのない壮大さ、直截(ちょくせつ)さ、そして、根源的なメッセージに、電撃のように打たれました。
詩集冒頭の「おお地球よ!」と読んでみてください。ここには、地球という偉大な生命へ畏敬と、「私」という存在への絶対的肯定があります。詩の一遍ごとに、神谷さんの愛情ある解説が添えられています。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2007年6月号掲載 -
Posted by ブクログ
これはとても良い本でした。
神谷美恵子さんのことはずっと気になりつつ未読で、昨年初めて「生きがいについて」を読んでみた。さすが名著の誉れ高いだけあって面白くて興味深くて読みごたえのある本で。で、この平凡社STANDARD BOOKSも手にとってみた。いいわーこれ。生きがいや自殺について、ハンセン病に取り組むなかで出会った患者さんについて、そのほか、自身の幼少期のこと、小学2年からスイスに住んだことが自分を形成したこと、子育てに苦労したこと、などについてもコンパクトにまとまっていて、神谷美恵子導入書として最適! こういう方だったんだなあ。
神谷美恵子さんの日記も角川文庫から出ているようなので読んでみたい。
平凡社のSTANDARD BOOKSシリーズ気に入りました。装幀が美しくてハンディなのもお気に入り。他の本も読みたい。南方熊楠さんとか気になっている。
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感銘を受けた文章を少し引用。
p130-131
美しいものに感動する心、目に見えぬものへの畏敬の思い、人びととむつみあうよろこび、未知のものへの好奇心とおどろきの念――こうした心のはたらきが幼いときからつちかわれていれば、どんな世の中になっても、どんなに貧しく苦しい思いをしても、人は心にゆたかさとよろこびをもって生きて行ける。こういう若い人たちが歴史を新しくしてくれることを、期待することも許されよう。
いい学校を出て、いい就職をして、などというきまりきった願いに向ってわが子をスタートさせようとしても、未来はまったくわからない。それよりも幼いときに、これからの一生を支えうるような大切な心のはたらきが育つことを期待しよう。親が邪魔さえしなければ、こうしたはたらきの眼は幼な子の心の中でぐんぐん伸びようとして、待ちかまえているにちがいない。(子どもに期待するもの)
P146-148
そもそも人間は社会に役立たなければ生きている意義がないのであろうか。「自立」や生きがいを感じること、他人から人間として認められること、が人間の生きる意義に絶対に欠かせない条件なのだろうか。もしそうならば、この基準からおちこぼれる人は老人に限らず、いくらもありそうだ。心身を病む人びと、持って生まれた性格や悪い環境のために生きている意味を自分も感じられず、他人も認めにくい人びとというものは少なからずあるものなのだ。それを精神科では知らされる。
しかし、どんな人間であろうとも自ら望んで生まれてきたわけではない。生まれさせられ、生かされて来たのだ。そこに人間を超えたものの配慮がはたらいていると考えられはしないだろうか。偶然とかまわりあわせとか言ってみても、それはただ視点のちがい、表現のちがいにすぎない。私たちが生まれおちたとき、たとえ順境のもとであっても自らすぐ生きがいを感じたわけではなく、まず両親が私たちの存在を喜んでくれたことであろう。そしてもし少しでもものを深く感じる両親であったならば、「この子をさずかった」ことを感謝することであろう。「さずかった」とはだれからの贈物であろうか。「子はさずかりもの」という昔からの日本の表現を大切にしたい。そこには日本人が本能的に一人の人間の誕生にひそむ神秘に対して抱いた畏れと感謝の心があらわされている。
自然科学がどんなに発達してもある特定の人間が生まれることの神秘を完全に説明しきれたわけではない。もし人間を超えたものの配剤によって私たちが生まれてきたとするならば、私たちの生の意義は何よりも人間以上の次元で認められたのではなかろうか。その意義が何であるかを一生かかって探求し、これを思われるものを実現しようと努めていくのが私たちの生きる意味の、少なくとも一部であると思う。
とは言え、人生のごく初期と最終期には、この探求と実現に必要な意識も力も与えられないことが多い。乳児の無心なほほえみが人を喜ばすことはあっても、老いの極まるとき、自他ともに苦しむ可能性のあることに目をつぶるわけにはいかない。しかし、悠久の時間の中で、人が生まれ、やがて死ぬまでの時間は一瞬にすぎないとも言える。ほんのわずかな時差で人間はみな老い、死に行く存在なのだ。意識がはっきりしているうちに、私たちを支える「人間を超えるもの」に思いをひそめ、信頼をもってすべての価値観を委ねたいものだ。(老人と、人生を生きる意味)
巻末に寄せられた、Titleの辻山良雄さんの文章がまた素晴らしい。
東京の荻窪で、Titleという新刊書店を営んでいる。住宅街の中にある二〇坪ほどの小さな店だが、開店以来神谷美恵子の著作を求めるかたはいつも一定数以上いて、絶えることがない。その間、特に大きな話題があった訳ではなく、何かの折に紹介されたという話も聞かないので不思議に思っていたのだが、そのうちあることに気がつくようになった。
本が売れなくなった、と言われるようになり久しい。若い読者が減った、他の娯楽に時間を奪われている等々、その理由はさまざまに言われている。しかしそこには本を供給する側の問題、すなわち読者が本に求めることに対して正面から向き合うような、誠実な本が減ってしまったということも、少なからずあるように思っている。
本は元々、書き手が自分の内面と向き合い、書かざるをえなかったことをかたちにしたものだ。しかしいま、新刊書店の店頭を埋め尽くしているのは、「楽をして得しよう」と勧めている本ばかり。そうした中では、真面目な語り口の本は、目立たないという理由で出版社や書店員などから敬遠されてしまう。そうなると、それまで本の良い読者であったかたが、読みたくなるような本と出合う機会も減り、次第に本から離れていくことも起こってしまう。
Titleでは、そのジャンルにかかわらず、人がその人自身になろうとする時に、支えになるような本を紹介している。それを探す人は、この時代でもしっかり存在しているからだ。そうした「切実な本」を求める心情と、神谷美恵子の著作とはよく響き合うようで、レジから見ていると、棚を見つめる人の視線が、『生きがいについて』『こころの旅』あたりの場所で、一瞬止まる。そして、棚からそれらの本を静かに抜き取り、ページをめくると、どこかに腑に落ちる一節が登場するのか、真剣なまなざしで手にした本を確かめはじめるのだ。
神谷の本のどこに、読者は心を動かされるのだろうか。それは文章の隅々にまで見ることの出来る倫理観や強さであったかもしれないし、一生をかけて人間の生きる道を考え抜いた、その人生にあるのかもしれない。そしてその手掛かりは、この本の中で神谷自身が書いている、ハンセン病療養所にて、患者をなぐさめようとする時の、逡巡を感じさせる言葉だ。
“十五年ちかく、こういう人たちの間で働いていて、強く感じさせられたことの一つは、まず自ら深く悩み、なぐさめられたことのある者でなければ他人をなぐさめられるものではない、という平凡な事実である。しかも他人に対するとき、何か出来合いの言葉で説教してはならないこと。説教は浅く人をゆさぶることがあっても、普遍的なもので心をいつまでも楽しませることはない。”(p138)
まったくのところ、自分の深い体験から得た強靭な言葉でしか、他人の心は動かすことは出来ない。そして神谷の文章を読んだ私たちもまた、その言葉の背後にある体験の大きさ、静かに語る声の確かさをすぐに感じ取っている。端正だが「出来合いではない」その言葉により、自らの精神を深くゆさぶされるのだ。
神谷美恵子の確かな声は、十五年近くにわたる長島愛生園での勤務体験と、ハンセン病患者との出会いが、その多くを作ったことには違いない。しかし家族や恩師の影響、たびたび患った「死に至りうる病」により、人生観やその思索が作られたことも見逃せない。特に若き日に結核療養の年月を過ごしたことは、神谷にとって図らずも、詩や生きがいという後年の人生における命題を、借り物ではなく、自らの生きた思想へと変えた体験となった。
“文明の進歩は、いいものをたくさんもたらしてくれはしたが、うっかりすると、だれにも与えられているはずの、大切な生命の働きを弱め、そこからくるよろこびを奪い去るおそれがある。”(p73)
現在、医療技術の発達により、人の寿命はかつてないほど延びた。しかし現代人にとって、その身体や死は自分の自由とはならず、病院により管理されるものになってしまったとも言える。
善き死と生は一体だ。満足いく死を迎えられる者の一生は、よろこびに満ちたものだったに違いない。瀬戸内の診療所から、人知を超える自然の雄大さから、神谷は人の生死を学んだが、そのことはいまを生きる私たちにも返ってくる。死が人間から密やかに遠ざけられている現代において、生きがいについて考え続けた神谷美恵子の言葉は、いま再び読まれるべきものだと思う。