あらすじ
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ──ローマ皇帝でストア派の哲人マルクス・アウレーリウス(121-180)。多端な公務に東奔西走しつつ、透徹した目で自らを内省した記録は、古来、数知れぬ人々の心の糧となってきた。神谷美恵子の清冽な訳文に、新たな補注を加えた。(改版)
...続きを読む感情タグBEST3
匿名
「ミステリと言う勿れ」から
「ミステリと言う勿れ」で作品内の暗号を解くのに本書が使われていて、興味を持ち購入しました。
内容はとても示唆にとみ、現代でも十分通じる言葉が記されており、自戒のために手元に置いておきたい一冊です。
*注意点として
自省録の内容自体は満足しておりますが、私と同じように「ミステリと言う勿れ」の暗号を解く目的での購入は控えた方がいいかと。
「ミステリと言う勿れ」の暗号は最初に自省録のページ数が書かれておりますが、電子書籍だとフォントの大きさでページ数が変わる為かページ数が記載されておりません。つまり暗号は解けません。
Posted by ブクログ
善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。(第10巻 16)
もっとも高貴な人生を生きるに必要な力は魂の中にそなわっている。ただしそれはどうでもいい事柄にたいして無関心であることを条件とする。(第11巻16)
最初悲劇というものは、人生途上の出来事を人に思い出させるために演ぜられたものであった。またこういう出来事は自然にこういうふうに起るものであることを示し、舞台の上で演ぜられることが諸君を魅了する以上、同じ事柄がもっと大きな舞台の上で起ったとしても、これを苦にしてはならない、ということを考えさせるためであった。
なぜならば、舞台で見るところによれば、こういう出来事はこういうふうに起らねばならぬことであり、「ああキタイローンよ!」と叫ぶ者といえどもやはりこれを耐え忍ばねばならないのである。(第11巻6 ※「オイディプス王」について言及している)
Posted by ブクログ
ミステリと言う勿れで初めて知りました。翻訳の神谷美恵子も初めて知りました。
2000年前の為政者とは思えない内容で座右に置きたい1冊だと思います。
Posted by ブクログ
1900年近く昔の本だが、そこに書かれたことは全く古びては感じなかった。
読む前に身構えていたほど読みにくい文章ではなかった。
読み進めているとモヤモヤしていた思考が落ち着きを取り戻し、整理されていくのを感じた。
現代のビジネス本を読むより遥かに学びが多く、得るものの多い読書体験となった。
Posted by ブクログ
自らに向けた訓戒集として、こうありたい姿を再確認している様子が浮かぶ
現代人でもわかる……という心構えも多々あるが、特に子供の生命の儚さについては一入と思われる
必ずしも書いたことを実現しているわけではなく、むしろできないことをできるよう努力していた証ととれる
Posted by ブクログ
そんなに強く生きていけないけれど、たくさん励ましてくれたね。全て全体の一部にも満たない単なるわたしに織り込まれた運命で、日常茶飯事で、もう何十年となくわたしは全てにかえってゆくというのに、いったいいつまで自分の正しさと愛以外のものに心揺さぶっているつもりなのか?
私の好きなドラマで登場していて気になったため購入しました笑年代が違くても人間の悩みは変わらないなと思いました。これで私も暗号で会話できるかな?笑
Posted by ブクログ
五賢帝の1人マルクスアウレリウスが夜な夜な書き綴った自分を省み、戒める為のノート、自省録。
伴侶が死んだ、子供が死んだ、仲間が死んだ、明日は自分かもしれない。
仲が良かった家臣が裏切った、忠実な家臣のふりをしているがもう宮廷に自分の味方はいないかもしれない。
能力を買われて皇帝に選ばれた、だけど本当は哲学を専攻する学者になりたかった。戦いの日々で机に座る暇はもう自分の人生には残されていない。
人生の中で多くの恐怖や不安に苛まれてきたアウレリウスがそれでもストア哲学と不動心に救いを求め、自分を律し邁進していく姿が文章から想起されて胸が熱くなった。
Posted by ブクログ
マルクス・アウレーリウスの『自省録』はローマの哲人皇帝が自身に問いかけた内省の記録であり、ストア派哲学の精神が詰まった書である。善く生きるとは何か、人生の意味とは何かを探るその言葉は時代を超えて現代にも響く。
難解さを避けつつ深い洞察を示す本書は分かりやすく優れた翻訳であるがゆえに思索に自然と誘われる。理性を重んじる姿勢は混迷する現代の拠り所となる。だがそれこそが自己との対話であり哲学の醍醐味だ。
Posted by ブクログ
人生に悩みは尽きないが、あらゆる悩みは主観に依存している。宇宙の歴史に比べれば人間の一生など儚い。万物は移り変わるという事実を受け入れ、怒らず恨まず、自己の本分を全うしよう。
Posted by ブクログ
この本は、自分の強いところにフォーカスを当てて「自分は自分でいいんだ」と確信を持たせてくれる。私にはそんな本だった。
他人の悪口で盛り上がる、同じ職場の人たち。輪に入れない私に問題があるのだと思ってた。でも違うわ。他者を悪く言う話に加わる必要ない。私は私でいい。たぶん私のことも悪く言われてるんだと思うけど、言わせておこう。
ってくらい、自分の道を歩むのに自信が持てた。
2000年も前から、人の悩みって一緒なんだな。
Posted by ブクログ
この本は、生きる・心の糧になる本です。
マルクスさん、ほんとうにありがとう
見ているのは、常に自分の内側や状態の観察
・内省
・自分自身
・自分の影響の輪の中
・時代を超える不変の考え方が学べる
・公開するつもりはない
だからこそ、内容がリアル
◯日記をつけよう
自分の状態を観察する日記を
良い状態で過ごすために内側の観察を
Posted by ブクログ
思想はエピクテトスの影響を受けていると言われている通り、自由意志を以って悪徳を排除せよという主張が繰り返される。本書では指導理性という用語が頻繁に使われている。エピクテトスのような冗長な表現は少なく大変読みやすい。
皇帝としては内政・外政ともに超多忙で、ストレスも相当なものだったはず。エピクロス派であれば避けるべきと言われる状況だっただろう。しかし彼はストア派の徒であり、公への奉仕が善という価値観で生きている。皇帝ゆえ受けるストレス、お追従への自惚れ、平穏な暮らしへの憧れ等を振り払うべく、内省が繰り返される。
また宇宙から見れば人間なんてどれほど小さい存在か、と言う視点も繰り返される。人間の一生は短く、死んでしまえば皆同じ。死は当然のこととして受け入れ、現在にフォーカスして生きること。
現代人が読んでもハッとさせられる主張や表現に満ちている名著だと思う。
マルクス・アウレリウス帝
・マルクス・アウレリウス帝(ローマ帝国最後の五賢帝)のパルティア戦役→勝利→
帰還兵たちが新感染症(天然痘か麻疹と言われている)をローマに持ち込んだ=『アントニヌスの疫病』→
6000万人のローマ帝国で、1000万人の人が死亡→急激な人口減少→ローマの経済力の減退→
国家の安全保障に揺らぎ→ゲルマン民族がドナウ川口境を脅かすようになっていく。
・マルクス・アウレリウス帝「まもなく土は我々全てを覆い隠してしまうだろう。
次に土自身も変化し、更には次から次へと無限に変化して行く。
この変化と変形の波の動きと、その速さを考えて見る者は、諸々の死すべきものを軽蔑するに至るであろう。
全て君の見ているものは、まもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身も、
まもなく消滅してしまう。極めて高齢に達して死ぬ者も、結局は夭逝した者と同じことになってしまうであろう」
・マルクス・アウレリウス帝の死→ローマ帝国衰亡の始まり→
かつては享楽的で世俗的であったローマ帝国→三世紀にはキリスト教的(禁欲的で来世的)な雰囲気に変わった→
「神々はローマを見放した」「それならキリスト教だ」→
キリスト教「肉体の死を恐れてはならない」「魂を滅ぼすことのできる方、即ち神を恐れなさい」
「疫病による死は現世からの解放であり、キリスト教徒を天国での新たなる生へと導くものである」
→キリスト教徒は死や感染を恐れず病人を看護し、病院の経営も行った→
キリスト教の勝利→ローマの滅亡→中世の時代へ。
Posted by ブクログ
ーもし社会が損なわれたなら、社会を損なう者に対して腹を立てるべきではない。「彼はなにを見あやまったのだろう」と問うべきである。
ー生きることが可能なところにおいては善く生きることも可能である。
ー最もよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。
ーしかし私は、自分に起ったことを悪いことと考えさえしなければ、まだなんら損害を受けていないのだ。そう考えない自由は私にあるのだ。
Posted by ブクログ
哲学書だった。
自分なりの理解として、カラダは、いつかなくなる。
自分の今思っていることも、今だけのこと。
いずれは、宇宙に返す。
今、感じたことを大切に。
大きなことをしようとせず。ただ、与えられたカラダを大切にすること。
Posted by ブクログ
正の感情も負の感情も全て私の内で湧き出るものであって、それを相手や物事の評価に繋げるような傲慢さを捨てられたら良いなと思った。
そして捨てられるかどうかも自分次第で、捨てたいと思ったのなら捨てればいいんだってことも思い知った。
Posted by ブクログ
この書物のいくつかの言葉が、私の人生の教訓となりました。二千年近く前の、遥か遠くの地の、思考も習慣も違うローマ皇帝から、そのようなものを授かるというのは、非常に感慨深いことです。
Posted by ブクログ
マルクス・アウレリウス帝が従軍中などに独り自分のために書き綴った「自省録」。短い文章や警句のようなものがひたすら並んでいるが、内容は生死や他人の行い、苦痛・怒りや悲しみなどの感情への執着を捨てること、理性=自然にしたがって生きることなどストア派らしい似通ったところが多く、そんなに読みづらくはなかった。というか、今まで読んできたストア派のセネカやエピクテトスより読みやすく感じたし、一番良かった。訳も良いが、訳者神谷美恵子の書くとおり、彼自身が思想を実践するためにもがき苦しんでいる姿があるからこそ、生きた思想の躍動感が生まれているからなのだろう。神谷氏はストア派の思想が現代において倫理学以外は力を失っているし、倫理学も忍耐を養うにはよいが、人生をつくりかえるような大きな力がないということを指摘したうえでこのように言うのである。
「しかしこのストア思想も、一度マルクスの魂に乗り移ると、なんという魅力と生命とを帯びることであろう。それは彼がこの思想を身をもって生きたからである。生かしたからである」
実際に自省録を読んで、本当にその通りだと思わされた。読んでいると自然に自分も襟を正すような気分になる。
先に読んだ「『自省録』のローマ帝国」ではマルクス・アウレリウスの哲学は政治に影響なく、マルクス帝の個人的な思想の範囲にとどまっていたという話があったが、その個人的な部分がいかに大きいことか(他人への寛容や公共への奉仕を繰り返し書いていたあたり政治に影響がないとも思われないが)。解説本を読んでいた時とは、実際に自省録を読んだことで大きく印象が変わった。また読みたいと思う。
Posted by ブクログ
ローマ皇帝であり、ストア哲学最後の代表者による、内省的メモ
とても力強く、理知的で、冷静にさせられるような言葉がちらほら。
内面的な自己制御と平穏の追求、宇宙の秩序と因果律、無常感など、少しだけしか学んでないが、初期仏教やインド哲学と似ているように感じた。
Posted by ブクログ
初めての哲学書。2000年前の人が書いたとは思えないほど、現代にも当てはまることばかり。自分なりに印象に残ったことは大きく二つ、「人生は有限、今を全力で生きること」、「草木も動物も全て変化する、変化を嫌うことはない」。
Posted by ブクログ
ギリシアの哲学者による本…
現代にも通じるものがある、と勧められて読んでみたがかなり難しく、本文と注釈を行ったり来たりしながら読み進めるも理解できず…挫折してしまった…
解説本や参考書と併せて読むのがよかったかもしれない…
Posted by ブクログ
旧家を巡る。そこには、昔描いた絵やネックが曲がってしまったギターなどが、ダンボールに敷き詰められた書籍と一緒に眠る。日記はない。一時書かされ、一時創作活動のように書いたものは、人目に晒される気恥ずかしさから自ら処分した。
小学校低学年のそれは「すごいと思った。うれしかった。かわいそうだと思った」という、周囲の空気を肌で感じたそのままを、大まかな感情表現で大別する。神の存在を必要とせず、集団の価値観を感じながら、喜怒哀楽を身につける。
自省とは、その「うれしかった」を真のものかと追求し、真ならば、その事自体を自らのモデルとして、その言動や思索を振り返ること。
マルクス・アウレリウスは、ローマ帝国の第16代皇帝であり、「五賢帝」の最後の一人とされる。哲学者でもあり、政治的指導者でもあった彼は、特にストア派哲学の実践者として、帝国の統治、そ家族の問題や疫病・戦争といった困難を抱えながら、正しい生き方を模索した。
それがこの自省録であり、誰に読まされるものでもない、彼自身の思索、心の日記である。
ストア派哲学では「人は理性によって自然に従って生きるべきだ」という禁欲的な理想を掲げ、世界は理性(ロゴス)によって秩序づけられており、人間はその一部として生きるべきとした。名声も財産も肉体もすべて移ろうもので、執着は無意味。人は社会的動物であり、全体のために生きる義務がある。自分の判断と行動は制御せよ。
いつの時代も変わらず、良き生き方を求めるのは、その社会との照合作業であるはず。社会が道徳を放棄して差別を助長するようではならない。
昔の思い出の品、それを敷き詰めた空間にいると頭がボーっとする。誰に読ませるでもない、社会と切り離した価値の孤絶に、愉楽を感じるのかも知れない。これは、性的な恍惚感ですらある。
Posted by ブクログ
●現代でも通用する人生訓。「君の不幸は、何が不幸であるかについて判断を下す君の能力にある。ゆえにその能力をして判断を控えさしめよ、しからばすべてがよくなるであろう」や「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である」など心に留めたい言葉がある。
Posted by ブクログ
ちびちび断片的に読んだ。
自分を律して生きるための指南書
第3巻四の"人は自身の内面を常に把握し、他人から問われた際には即座に答えられるように"は色々と響いた。
Posted by ブクログ
世界史で名前が長くて覚えにくいランキング堂々の1のローマ皇帝による哲学思想呟き雑記。
全体を通じて、理性こそ人間を人間たらしめるという考えが強調されており、現代の人間観とは異なっているように感じた。マルクスの主張には、自分の身体や精神の欲にただ身を任せるのは、「動物的」であるというものがある。これは、欲も理性もまるっきり含めて受け入れた現代の人間観とは大きく異なる。そのため、数千年前の常識はいまの非常識であり、改めて新鮮な考え方を受け取ったようにも感じ、目から鱗が落ちる思いであった。「自分は動物なのかもしれない...!」と恒例の反省タイムもとった。
⚠️この本はあくまでも雑記であり、思想の解説書ではないことに注意されたい。マルクスの思想はストア派哲学が源流にあるため、本を読む際にはそれらへの理解も多少は必要になる。
そのため、あとがきでマルクスの思想やバックボーンにあるストア派哲学について概要を掴んだのちに、原文に触れると一番効率良く理解が進むと思う。
Posted by ブクログ
自省録とあるだけに、著者が考えたこと感じたことをメモのように綴ったものであり、他人に向けたものというよりかは自分に向けたものという印象だった。彼の禁欲的で寡黙そうな性格が見て取れて面白かった。
もし自分が著者だったらこういった自分の思想を書き留めたメモを世にさらされたら恥ずかしくてたまらないと思う笑
内容としては、いわゆるストア派の思想をさまざまな比喩でもって書き記している。
ストア派の思想についてよく知らず、当初は、人の運命は全て最初から決まっている、といった後ろ向きなものであまり好かないなと思っていたが、共感できる、心に響く内容がそれなりにあり、現代の自分達にとっても役に立ちそうであった。
全ては宇宙の法則に従っており、宇宙がより良くなるために万物は動く。それゆえに人間のなすことや、この世界で起こるあらゆることに悪いものはない。だから人のなすことにいちいち腹を立てたり、死を恐れたり、悲劇に悲しむのはナンセンスだ。それに他人の言動や世の中で起こることは変えられないが、それに対する自分の心の反応は変えることができる。自分の考え方次第で世界をどうにでも変えられるのだ。
上記のような嫌なことをとるに足らぬものと考えるためには、そのような物事を細かく構成要素に分解し、それぞれ分析することで、それが大したことでないと実感することである。
例えば嫌な人がいればその人と話し、その人の思想、考えを知ることである。またそこで自分の考えに相手を引き込むのもよい。
Posted by ブクログ
皇帝かつ哲学者という歴史上(解説によれば唯一)非常に稀有な人、マルクス・アウレーリウスが折に触れて書いた手記なのだそうだ。誰かの目に触れることを念頭に置いていないので、つらつら「他人のことなんかに嘴を挟まず、自分が、今、善く生きることに集中しとけ」的なことが書いてあるかと思えば、急にキャッチコピーのような一文が書かれていることもある。「宇宙即変化。人生即主観」は諸行無常、色即是空みたいで面白い。
何度も似たようなことが書いてあると、「この人は本当は、他人からとやかく言われたくないんだろうな」「つまらないことで大騒ぎしたり、見栄を張ったり、怒ったりする人たちが周りにいてうんざりしちゃったりして、あーまたつまんない事で今日も腹を立てちゃったよ、とか思ったんだろうな」とか、凡人の私は、ついつい邪推してしまう。多分、違うだろうけど。きっと、立派な人だったんだろうけど。でも本当に自分の身についている生き方なら、こんなに何度も似たようなことを繰り返し書くだろうか。こんなふうに本当は生きたいのにな……という心の表れだとしたら。
一番好きな部分は第10巻の16
「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」
確かに、口や頭だけ動かしてないで、行動にしないと意味ないな、と笑ってしまった。行動が伴う生き方をしたい。
Posted by ブクログ
人に読ませるために書かれたものではないので、日記状で箇条書きのような形なのが
細切れで流れのある書物ではない為読みづらく感じるところはある。
逆に比較的さくっと読めるという利点でもある。
以下抜粋メモ(多少の簡略化あり)
公益を目的とするのでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。
君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。
手など体の一部を切り取られて、残りの肢体から少し離れたところに横たわっている。起ってくる事柄をいやがったり、他の人たちから別になったり、非社会的な行動を取ったりする者は、それと同じようなことを自分にたいしてするわけである。君は自然による統一の外へ放り出されてしまったのだ。君は生まれつきその一部分だった。ところが現在は自分で自分を切り離してしまったのだ。ただし君は再び自分を全体の統一にもどすことが許されている。
不正は不敬虔である。なぜならば宇宙の自然は理性的動物を相互のためにこしらえ、彼らがそれぞれの価値に応じて互いに益し合うようにしたのであって、決して互いに害し合うようにはこしらえなかったのである。嘘つきもまた同じ神にたいする不敬虔である。