高井ゆと里のレビュー一覧
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本書はハイデガーの『存在と時間』への入門書である。多くの書は『存在と時間』「について」の入門書である中、その読み解きの具体性において群を抜いているがゆえに『存在と時間』「への」入門書であるとあえて書きたい。『存在と時間』という著作の成立とその思想的背景に関しては轟孝夫氏の『ハイデガー「存在と時間」入門』が本書でも決定版と言われているように現在手にし得る最も詳しい本であると思われるが、本書はハイデガーに初めて触れる読者もそれなりに読んできた読者をも、ハイデガーが『存在と時間』において取り組んだ問いへとダイレクトに招く本である。
ハイデガーに関する本を幾つか読んでいくと時折指摘されるように「ハイデガー語」と呼ばれるような独特な言い回しに出くわす。そうしたことの一つひとつを剥いでいく作業が近年の研究の特徴であるとも言えるのだが、その中で本書は群を抜いてハイデガー語を感じさせることなく直接に読者をその問題へと招く本であるように思う。副題にもあるように本書はハイデガーの『存在と時間』における世界内存在をめぐる分析がなされていくのだが、訳者による他書にはないダイレクトな訳文を通してハイデガーの問いそのものが多数の引用とともに明らかにされていく。その問いかけの深みを確かめるためにいくつかの訳文を比較検討することを通して読者は自然とハイデガーのテクストへとも導かれていくのである。
私たち一人ひとりが固有の生を生きるにはどうするべきか、いかに生きるべきかという問いが『存在と時間』を貫いている。世界内存在として現存在である私たちはどのような世界に生き、どのような生を享けているのか。本書はその具体的な問いかけの積み重ねを通して生き生きとハイデガーの思考へと読者を導いてくれる。中でも印象的なのは社会の中で私たちが与えられてきた性の役割への問いかけでクィアの話題が取り上げられたことである。今までのハイデガー本でこれほどまでに直接的に私たちの生の諸相に分け入り、本来性そのものを問いかけ、新たな地平をひらこうとする本はなかったのではないだろうか。それほどに本書は強烈な印象を残した。
ここまで書くと今までの読解を無視した本であるとの印象を持たせてしまうかもしれないが、そうではない。むしろ凝縮された叙述は著者のハイデガー研究の積み重ねへの敬意を感じさせるものであり、なおかつそれらの不十分なところを補い、そのうえで直接にハイデガーのテクストそのものと向き合うことを読者に呼びかけているのである。 -
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性同一性障害ということばは誤り。「障害」ではない。
ジェンダーアイデンティと性自認と性同一性は同義。
そもそもこのことからしてわかっていない「知識人」が
多数いるのではないか。日本に。
「知識人」としたのは、政治家に対する皮肉だ。
特に自民党の一部。
この新書は、トランスジェンダーにとって、
この日本がいかに生きづらい国であるかを綴っている。
トランスジェンダーは人口の1%もいない、という。
出生時に割り当てられた性と、ジェンダーアイデンティティが異なる人。
従来はこれらの人々は「いないもの」にされていた。
それこそ「障害」「異常」とされていた。
しかし時代は変わり、少数派を尊重することが当たり前の世の中になってきた。
考えてみれば、以前は、そして今も、左利き、すら差別されてきた。
それは道具に代表されよう。
はさみ、スープをすくうお玉、自動改札機、、、
10%いる左利きですら不便な世の中。
様々な技術でようやく改善されつつある、まだその途上。
ましてや1%もいないトランスジェンダー。
「効率化」からすれば無視したくなる、というのも理解できなくもない。
しかし、
トランスジェンダーを認めないときの事例はいつも
「トイレはどうする」
「銭湯はどうする」
ばかり。
既に欧米では男女トイレを区別しない国も出ているという。
銭湯は、、今日日銭湯を日常的に利用する日本人がどれだけいるというのか。
問題のすりかえ。
些細なことを咎め、本質的なトランスジェンダーの生きづらさに向き合わない。
なんて偉そうなことを言うが、私もつい最近まで、
LGBTのうちT、トランスジェンダーは理解できない、と言っていた。
なぜ性転換手術(このことばもいまや使わないそうだ)をしてまで姓を換えるのか、と。
今はそれが誤った考えだとわかる。
中には好んで体にメスを入れる人もいるかもしれないが、
大半の人は、生きづらさから逃れるためにやむを得ずに手術を選んでいるのだ。
そもそも法律がそれを強いている。
生殖能力が無くならなければ戸籍上の性別を変えてはいけないと。
それは「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」
名称だけでもアウト。2003年成立時点ではやむを得ないとしても速やかに変更すべき。
内容もだ。
要件は
一 十八歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺せんがないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
この四が憲法違反であると最高裁の判決が2023/10に出た。
世の中は確実に変わってきている。
変わらないのは自民党の一部。
いや、もっといえば日本の官僚制度だろう。
明治維新で作られた薩長政権の考えは敗戦を経ても変わっていない。
戸籍がその最たるもの。たかだか150年の歴史、変えればいいのだ。
廃止すればいいのだ。そのためならマイナンバー義務化も理解されよう。
・・・そもそもカードじゃないけどね、今の時代。
色々絡まる。
キックバックの安倍派を干すことで自民が割れれば、今の官僚制度も変わるのか?
トランスジェンダーなどマイノリティに目を向けた国になるのか。
いずれにしても多数派が少数派を切り捨て、効率化を求める時代ではないのだ。
それが通用しないことはこの30年で誰しもわかっているはず。
変えねば。変わらねば。
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LGBTQについて、いかに自分が性的マイノリティ、特にトランスジェンダーについて無知であったか分かった。本書はトランスジェンダーについての分かりやすい入門書であり、彼らが、どのような社会的状況に置かれ、特に日本で彼らを取り巻く状況は世界の中でも最も遅れている状況であるかもわかった。国際的にも人権意識が遅れている我が国であるので、特に驚きはしないが。法的な問題については、明治以来の戸籍の問題がネックになっていること、またフェミニズムや男性学との関係、ノンバイナリーについて、分かりやすく整理されて書かれている。本書を通読して思うのは、世界の人権意識や差別問題は進歩している中、わが国だけが逆流している印象を受ける。トランスジェンダーの問題は、トランスジェンダーだけの問題だけではなく、すべての人にとっての問題あることが理解できた。すべての人が生きやすい世の中にしていくには共に運動をしていくことが重要であることが示唆された。
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Posted by ブクログ
生まれた時に性別が「割り当てられる」という感覚への違和感や、LGBとTの違い、ノンバイナリーやAセクシャルの存在など、知らなかったことや理解不足がたくさんあった。性別は生きる上で大きな固定概念であり、縛りになってるんだなぁ。
「女性らしさ/男性らしさ」というこの「らしさ」に苦しめられる人が多いように、性別の問題に拘らず固定概念は厄介。いろんな物事の捉え方があるということを知るために、またさらに自由な生き方を促進し多様性を受け入れるためにも、本書は早い段階で教育現場に導入されてほしい。
誰もが自分を大切に、相手の自由も尊重した生きやすい世界になるといいなぁ。 -
Posted by ブクログ
ネット言論でのパニックめいたトランスヘイトに左右されないため、まずはトランスジェンダーの人々がどのような状況にあるかを知るべきだろう。英国の事例が中心ではあるが、解説や訳者解題まで読むことで、日本の状況についてもある程度の理解を得られる。右派のトラスフォビアは今に始まったことではないが、驚くべきはマイノリティ側から社会変革を求める左派にもトランス排除の言説に取り込まれる層がいるということだ。そこにあるのは、かつて白人フェミニズムが犯してきたような権利獲得の力学であり、つまるところ更なる弱者を維持しようとするシステムである。ある程度 フェミニズムを理解したと考えている層にこそ、次なる連帯のために読んでほしい一冊。訳者である高井ゆと里氏の注釈も細かいところまで目が行き届いており、安心して読むことができる。丁寧な仕事に感謝したい。
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Posted by ブクログ
自分がいまだに通読したことのない『存在と時間』についての読みをこの一冊で包括的に提供してくれた、(単行本ではあるが)新書的アプローチの本。注釈を中心に国内外の最新のハイデガー研究の成果が書かれており、読者としては信用がおける。
要約の仕方については論争的な部分もあることも含めて著者自身が丁寧に紹介しているが、素人目にはあまりその点はわからない。とはいえ木田元の「未完問題」アプローチがあることは知っており、それゆえ「未完のものをどう論ずるのか」という先入見が自分にも多少残存していたので、その懸念をかなり早い段階で棄却してくれた点は読み進める上でありがたかった。
ハイデガー哲学に必ずしも「(健常な)身体」概念を要請する必要はないこと、哲学における「自己物語」の話が現存在の同一性を認定する上で重要であることなど、20世紀哲学のあれこれを読みながらハイデガーをつまみ食いする上でしばしば引っかかっていたことをしっかり説明してくれたのも、よかった。
もしかして、このハイデガー本において示される自己論は、キルケゴールの実存主義哲学やメルロ=ポンティの身体コミの現象学より、プラグマティズム思想家兼社会心理学者であるジョージ・ハーバート・ミードの『行為の哲学』や、その後(主にイギリスの)質的社会心理学で展開された言説心理学(Discursive Psychology)のとる立場に近しいものとして読み直せるのではないか。そういう気づきを得させてもらった。それは著者が「ノンバイナリに気づく一人の男性」の事例について述べた時、ジェンダー論における哲学的アプローチとしてハイデガー哲学を参照したことで、より鮮明になったように思われる。