注!
ネタバレ設定にはしていないですけど、ところどころ内容に触れているので。
気になる方は読まない方がいいかもしれません。
生きることに疎外されてきた……、というより、自らを生きることから疎外されていたと思い込んでいる……、ていうかーw、ずっと生きることから阻害されてきたと思うことで、自らの不甲斐ない日常を「社会が悪いんだから仕方がない」とやり過ごしてきたが故に、自分しか見えなくなってしまった主人公の一歩前進二歩後退的な成長物語。
……と言ったら、怒られるんだろうか?(^^ゞ
一歩前進二歩後退の成長だから、読んでいていろいろ苦い。
でも、そういうエピソードは、読んでいるて意外にわるくない。
というのは、苦いというより、狡っ辛いエピソードもあるからだ。
そういうエピソードは、「うげっ! イヤミス並w」と結構キツい(ーー;)
でも、生きるってぇーのは、誰しもそんなもんだ(爆)
日本も韓国も、どこの世界に行っても、それは死ぬまでずっと変わらない(^^)/
主人公は、そんな泣きたくなるようなこともある毎日を心のなかで毒づいてやり過ごしているけど、それは上司のユ・チーム長やキム(元w)部長も同じだ。
二人とも、おそらくは泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて……、さんざん泣いた人生経験の果てに自らの立ち位置を見つけた人なんだろう。
だから、二人とも主人公にキツく厳しくあたるようで、実は主人公の働きっぷりをちゃんと見ている。
だから、「人生、捨てたもんじゃねーじゃん!」って、主人公の肩を思いっきり引っ叩いてやりたくなる(爆)
映画には、「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」というお決まりのキャラクター造形があるらしいんだけど、ウィキペディアを見ると、「悩める男性の前に現れ、そのエキセントリックさで彼を翻弄しながらも、人生を楽しむことを教える“夢の女の子”」とある。
「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」は悩めるオトコの前に現れるわけだが、もちろん悩めるオンナの前に現れる「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」というキャラクターもあるらしい。
つまり、このお話の主人公ジヘの前に現れるのがソレ。
ギュオクという名前の「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」だ。
ただ、「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ/ガール」っていうのは、映画「エリザベスタウン」をを見た、(たぶんアメリカ人映画批評家)がこの言葉を発明したみたいなことがウィキペディアにあるだけに、アメリカ人が好む映画のストーリーにかかせないキャラクターという面が強いのかな?
ギュオクという「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」は、アメリカの映画に出てくるそれとはビミョーに何か違う。
もしかしたら、韓国風の「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」なのかもしれない(^^ゞ
というのも、ギュオクという「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」は、”悩める女性の前に現れ、そのエキセントリックさで彼女を翻弄”はするんだけど、“人生を楽しむことを教える”というよりは、彼女に自ら大人になる階段を上らせようとする、みたいなところがあるんだよね。
いや、あくまで、”大人になる階段”ね。“オトナになる階段”じゃないから。そこは間違えないように(^^ゞ
自分なりに振り返ってみると、20代から30代に変わるあの頃って、実は人生の中でも結構大きな転換点だったなぁーって思う。
例えば、第二次性徴の頃とか、学生から社会人になる時とか。
ま、その後も、結婚とか、子どもが生まれる等々、人生の転換点はいろいろあるんだけどさ。
20代から30代に変わる、あの時期って、それらの人生の転換点と比べて、目に見える変化はすごく地味だし、イベントっぽい出来事も特にないんだけどさ。
実は、あの時くらい、あらゆるものが変わっていく時期ってないんだよね。
社会的な立場が変わってくるし、家族の中の自分の立ち位置というのも変わる。
結婚や子どもが生まれたりすれば、もちろん大きく変わるわけだけど、そうじゃなくって。
学生の時の友だちが一人、二人、三人…、と結婚したり、子どもが生まれたりで、それまで通りのつき合いが出来なくなっていくという変化、実はあれがかなり大きかったりする。
男なんかだと、ハイティーンの頃から20代にかけてくらいの頃って、友だちがやたらと多いから。友だちづき合いが忙しくて、「寂しい」という感情を忘れている人が多いように思うんだけど。
友だちが次々と結婚したり、子どもが生まれたりすることで、今まで通りのつき合いが出来る友だちが1人、2人…といなくなっていくことで、生活の中にポカっと空間が出来る。
そんな、生活の中にポカっと空いた空間に、ふと気づいた時、「あ、オレ、今寂しいんだ…」みたいに、久しぶりに寂しいという感情を思い出すんだよね。
20代から30代に変わる時っていうのは、そういう心の変化があるわけだけど、実は体の変化が大きい時期でもある。
たいがいは、20代の時は全然平気だった徹夜仕事が、30代になって、20代の頃と同じ感覚でやったら、次の日全然使い物にならない自分を思い知らされることで、「20代の頃とは違うんだなぁー」って気づくわけだけど(^_^;)
(20代の頃と比べての)体の衰えは他にもあるし。
あと、性的な面での体と心の変化が、実はかなり大きい時期でもあったりする。
それらっていうのは、おそらくは人生の折り返し点に近づいているから、体や本能が年齢の変化に合わせたライフスタイルに変えることを求めているからなんだと思うんだけど。
その一方で、人というのは、基本的に「昨日の自分がずっと続く」と思い込んでいるようなところがある(^^ゞ
だから、30歳の時に「人生の折り返し点」なんて言われても、「10年以上先の話じゃねーか!」って、考えようともしない。
つまり、それはこのお話の主人公も同じ。
30歳の毎日を「昨日の自分」のまま生きている、というわけ。
そこに、ギュオクという「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」が現れることで物語が動き出す。
ハードカバーの本(単行本)って、著者や訳者のあとがきがないことが多いんだけど。
何気に後ろを見たらあったので、お話そのものを読む前に、まずそっちを読んでみた。
まず、著者のそれを読んでいて、印象に残ったのが以下。
“私は、自分に才能があると思っていた時期があった。
大した努力もせずに少しだけ、あちこちで認められていた時だ。
でも私が本当に行きたかったところまでは、決して到達できなかった。”
その後で著者は、自ら書いたものを頭ごなしに書き直しを指示され、できないならやめろという言葉が、著者が会うことのないところにいる誰かから降ってきたという、その頃の自らの状況を明かす。
“私は、彼らに同情することで自分を慰めた。
私のことを知らない、名も知らぬ批評者たちが、
世に出るはずだった貴重な何かを逃しているのだと、ハハハと、
偽善的なことを言って虚勢を張り、絶対認めないと必死になった。
強いて言えば、それが私なりの反撃だった。
しかし私が虚勢に満ちた同情を語ろうが疲れ果てて泣こうが、
世の中は私に全く関心がなかった。
だからむしろ良かったとも言える。
理想に到達するのは難しいもので、
何度も失敗するのは私だけではないということでもあったから。”と。
また、訳者あとがきには、この本が受賞した「済州4・3平和文学賞」の一人の審査評が紹介されている。
“(前略)彼らの抵抗は悲壮的でも英雄的でもなく、ゲームのように軽快に行われる。
そんな抵抗の行動を経験しながら、自分の従順な自我から抜け出して、
主体的な自我を取り戻していく主人公(後略)。”
…って、まるっきりネタバレだろーっ!(爆)
このお話では要所要所で、その場面にBGMが流れる。
もちろん、本だから音楽は自動的に流れない。聴くにはネット等で聴くしかない。←当たり前だ(^^ゞ
それらの曲が、ちょっと意外で。
まぁ著者の趣味なんだろうけど、全部昔のアメリカのジャズやポピュラーミュージックなのだ。
ベニー・グッドマンとか、ハリー・コニック.Jr、フランク・シナトラ等々。
それらは昔のアメリカのポピュラーミュージックだから、聴いてロマンチックと言うならロマンチックなんだろうけど、でも、それらは韓国人が好みそうなロマンチックさではない(ていうか、日本人だって、その手の音楽をロマンチックと感じるのはリアルタイムで聴いていた人たちだけなんじゃないだろうか?)。
いかにも昔のアメリカっぽいバタ臭さのある乾いたロマンチックさで、韓国人の好むウェットさがないのだ。
なのに、そのBGMで語られる物語は、まさに昔ながらの普通の韓国人なのだ(普通の東アジア人と言ってもいいかもしれない)。
(個人的には)そのチグハグさが面白かったんだよね。
「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」的な存在であるギュオクと、昔ながらの普通の韓国人である主人公の関係性を表しているようで。
物語の中で、主人公は「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」ならぬ、「ナイトメア・ウィッチ(?w)」的存在であるゴンユンという女性とも出遭うことになるんだけど、彼女は一種の西欧風の自己中心的な自由主義者(エゴイスト)だ。
その反面、(おそらくは)昔からの韓国社会の悪しき人間関係のドロドロを心の中に抱え込んでいる人間でもある(いや、こういう人は万国共通に存在して。決して韓国社会特有ってことではない)。
つまり、昔ながらの韓国の価値観を引きずる普通の韓国人である主人公と、従来の韓国にない西欧風の自由主義の価値観で生きる「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」のギュオク。
価値観の並びで言えば、その二人の間に位置するのが「ナイトメア・ウィッチ(?w)」であるゴンユンなのだ(^_^;)
そのゴンユン(名前からしておどろおどろしいw)の出現によって、主人公は中二病をさらにこじらせてイジけるw
とはいえ、これは「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」物だから(^^)/
主人公は、「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」の助けを借りつつも、自分の力で大人への階段を上っていく。
その、いわゆるアメリカ風の「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」物ではない、韓国風(?)の「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」物とも言える展開が清々しくていい。
確か、最後のシーンは夏だったと思ったけど、3月という季節のあの感じを思い出すのだ。
ちょっと寂しく、ちょっと怖くもあるんだけど。
自分が向かおうとしている新たな世界でどんなことに出逢えるんだろう?みたいに茫洋とした希望を感じつつ、まだ風が冷たい3月の空気に思わず背筋をシャンとさせる、あの感じ?w
ていうか、ここのBGMは、ナタリー・マーチャントの「7 years」だろー!(^^ゞ
ただ、その展開…、だから、訳者のあとがきで紹介されていた賞の審査評にあった、“主体的な自我を取り戻していく主人公”という展開って、いわゆる韓国の「恨」と相反することなわけじゃない?
「恨」というのは、自らが強いられた圧倒的な理不尽を自らがはね返せないことを「恨」として自らに溜め込むことだと思うのだ(いや、韓国人は韓国人だからこそ、それは絶対認めない。なぜなら、それを認めたらアイデンティティが崩壊してしまうからだ)。
つまり、「恨」というのは、強いられた理不尽という受動的なものを自らに取り込むことで、主体的な自我に変換することだ。
なのに、“主体的な自我を取り戻していく主人公”と賞で審査評されたということ、さらには、著者が主体的な自我を肯定する小説を書いたということは、現在の韓国社会には「恨」というものを自らの社会にネガティブな作用をもたらすものとして捉えている人が存在するということになる。
……みたいなことを書くと、韓国の人たちは「日本人に“恨”が理解出来るわけないじゃん。だから、それは間違いだ」と言うんだろうけどさw
でも、自分は韓国人だからこそ、自らにある「恨」というものを客観的に見ることが出来ていないように思えるんだよね。
「恨」というものの根本にあるのは感情だ。
感情というのは、その場その場瞬間風速的な状況によっていかようにも変わる。
また、人によっては相手の好嫌で無意識、あるいは意識的に感情の強弱を変えることだって出来る。
そういう感情であるものを「恨」という漠然とした概念で固定化することで、それをナルシシズム的な哀感に変換して。その「哀感を抱え続けるオレ/わたし」をロマンチックさに昇華させることで辛さを乗り越えるが「恨」なわけだよね?
でも、それは、お話の最後で主人公が見せた、自らが選んだ成長とは異なるものだし。
「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」のギュオクは、さらに違う。
もっとも、ギュオクはこれまでの韓国の価値観とは違う新たな価値観にこだわりすぎることで、それを「恨」にしてしまっている可能性もあるんだけどさ。
ま、それはそれとして(^^ゞ
現在の韓国で「恨」というものを自らの社会にネガティブな作用をもたらすものと捉えている人がいて。
さらに、(日本人である自分から見て)おそらくそういう人が増えているんじゃないか?という気がするのは、現在の韓国で様々な状況が良い方に変わってきたことで、韓国の人たちの中に「“恨”がない方が生きるのが楽だし、何より自由だ」と気づいたからなんじゃないだろうか?と思うのだ。
この本の前に読んだ韓国本である、『小説 韓国・フェミニズム・日本』の中の韓国人作家の小説とこの著者のお話がどこか違うように感じたのは、もしかしたらそこなのかもしれない。
その意味で言うなら、★は5つでもいいんだろうけどさ(^^ゞ
一つ減らしたのは、もう少しハッチャケた展開があってもいいかなぁーと思ったから。
いや、うん。
そのハッチャケないところが韓国風なんだよね? たぶん。
その辺りで言うなら、この小説も韓国の伝統を踏襲していると言えるんだろう。
でも、今の韓国は、もう今までの韓国じゃないんだから。
なら、ちゃんとハッチャケちゃった方がいいんじゃない?って思うのだ(^^)/
あと、これは個人的な感覚だけど。
このお話の中で主人公がやった「反撃」は犯罪なんかではないと思う。
もし、あれをユーモアとして読まない感覚が今の普通なんだとしたら、今の世の中は相当危ういところまで行っちゃっているような気がするかな?
以下は本の感想とは関係ない話。
去年くらいから「流域面積世界最大の川」の古本がやけに高くなったこともあり、最近は本屋で買うことが増えた。
e-honで買えば新品だし。カバーもかけてもらえる。
本屋受取りで買えば送料とられないし、地元の本屋に貢献も出来る(^^)/
…と、いいことだらけなんだけど、ただお財布にはキツい(爆)
「世の中インフレだし。古本屋さんも大変だろうから、仕方ないのかな?」とは思いつつ。
新品より100円くらいしか安くないのに、今まで通りに「見るからに古本!」って状態の物が送られてくると、ちょっとムカッとくる。
かと言って、★の評価を下げるのも、なぁ〜んかちょっと申し訳ないよーな。
古本の値段が急に上がったのはなぜなんだろ?
もしかして流域面積世界最大の川としては、もっとキンドルを普及させたいから、古本屋さんに値段を上げるよう要請してるのかな?、みたいなことも思ったりもするんだけど、どうなんだろうね┐(´д`)┌
ていうか、妥協してそれなりの価格で買った本を、再度流域面積世界最大の川で見てみるとずいぶんお手頃な価格に下がっていることも多くて。
あー、これは、人によって自動的に価格を高くしたり安くしたりしてるってことなのかな?なんて思ったりもして。
いっそ、以前のように「本は本屋で買うもの」としちゃえばいいんだろうけど、とはいえ、最近の本は馬鹿みたいに高い(゜o゜;
高くても、その価格に見合った面白さがあればいいんだけど、最近の本ときたらまぁ……
かくなる上は、嫌な世の中に反撃だ!(爆)