小澤身和子のレビュー一覧
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言葉が詩的で綺麗で、特にスキー場の表現がお気に入り。表現があまりにもリアルで、何度か手に力が入らないくらい怖くなる時があった。
序盤NYの部分は、友達の容姿、お洋服の質感からレストランのテーブルに置かれたネームカード、身に纏っている香水の匂いまで、とても綺麗に描写されていて読んでいて凄く好きだった。
NYでの熱い湯船についての話も、自分が言語化できなかった感覚が綺麗に言語化されていて、読んでいてsatisfyingだった、嬉しかった。
figtreeの部分も、she explains so well like 読むのが苦しかったくらい。訳者のあとがきでの言及も良かった。
白人主義、精神病外国人等々色々な差別、時代的背景が見えた。
お気に入りの小説かも。 -
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ネタバレ2021年に発売された本書であるが、年をまたいで読み始めることに。あっという間に読み終えてしまった。読み始めから「面白い作品に出合えたかも…」という期待を持たせたが、その予感は的中した。私個人としてはかなりハマって読めた。主人公のベスが非常に魅力的に映る(表紙のドラマ版の役者さんの印象もあるかもしれないが)。
単にチェスで無双しまくるかと思いきや、年齢が上がってくるにつけ、神童も人間関係やお酒におぼれて挫折を味わったりするさまを淡々とテンポよく描いていく。「淡々と」と書くとどうしても「あっさり」として物語に浸れないのかというとそうではなく、どうしてそうなるのかベスの心のうちがしっかりと描いているし、なんなら言葉以上に心のうちのベスは多弁なのである。それがまた主人公を魅力的に見せるゆえんである。
また、要所要所で出てくるベスを取り巻く友人やチェス仲間たちも単なるその場しのぎのキャラではなく、「ラスト」へ向かうための重要な役割を果たす。使い捨てのキャラクターが実は一人もおらず、「ベス」という人間を構成する重要なポジションにあるため、終盤はアツい!
きっと単に一人で無双するシーンの連発ではこうも物語には浸れなかったであろう。著者の構成力には恐れ入る。
本書は原版はかなり前に出されたのだが、チェスという「盤面」を創造させるためにかなり工夫が必要であったらしく、長らく邦訳されていなかったらしい。訳者の方もなんとか少しでも本書の世界観に浸れるように駒の動きなどを序盤に説明していたりと頑張っている。勿論、その努力は功を奏したと思うし、このように長らく未邦訳ながら「埋もれている」面白い本に出会えたという貴重な体験をさせていただいたことに感謝したい。 -
Posted by ブクログ
最初はすごく面白い、初めてやあこんな小説!と思って読み進んでいたが、中盤くらいからやや気持ちがダレてしまった。
とは言え、地球の1日24時間の間に地球の周りを16周廻る宇宙船での話はとても斬新だった。美しく詩的な言葉、6人の宇宙飛行士たちの心の動き、過酷な毎日の中での楽しみや哀しみ、果てしない宇宙。
そして何よりも生命が蠢く奇跡の地球の描写に、心を打ち抜かれる。
地球の外から見た地球は、国境も人種も欲望も見当たらない。ただ、雲と空と空気と風と陸地と海があるだけ。なぜ人はそれなのに争うのだろう。
人類の欲がこの地球の資源を枯渇させていってることが辛い。
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ネタバレ昔、自分が見て怖かった映画「エイリアン」のような流れでしたが、本作は怖いという感じはしませんでした。不思議系の話でした。
主人公はアメリカのフィラデルフィアに暮らす「アディーナ」という女性です。ただし、この女性は「コオロギ・ライス星」から地球に送り込まれ、地球人の母親から生まれてきます。純粋に地球人という人ではないです。「コオロギ・ライス星」の上官宛に逐一ファックスで地球上でのことを報告する、そういうストーリーでした。
4歳で自分のことを宇宙人と自覚して、主人公も地球で年月が経っても上官へのファックスは怠らない、地球から何十万光年離れた「コオロギ・ライス星」はやっぱり遠すぎると思いました。
面白かった小説でした。
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Posted by ブクログ
シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』を1950年代アメリカと現代日本の女性を取り巻く社会状況の比較という観点から読むと、この作品は単なる歴史的な女性差別の記録ではなく、現代日本社会に対してもなお有効な批評性を持つ作品であることがわかる。
1950年代アメリカにおいては、「女性は結婚し、妻や母として生きるべきである」という規範が比較的露骨な形で存在していた。主人公エスター・グリーンウッドは高い知性と才能を持ちながらも、作家として生きる可能性と、社会から期待される伝統的な女性役割との間で葛藤する。その苦しみは、女性が社会的に許容される生き方の狭さによって生み出されたものとして理解できる。
一方、現代日本では法制度上は男女平等が保障され、女性の高等教育や就業の機会も拡大している。そのため表面上は、女性は自由な人生を選択できるようになったように見える。しかし実際には、管理職や企業役員、理工系専門職などにおける男女比の偏り、男女間の賃金格差、女性に集中する非正規雇用、妊娠や出産によるキャリア中断など、多くの構造的な不平等が依然として存在している。また、経済的自立が容易ではない状況のなかで、結婚が女性にとって生活の安定や経済的保障を得るための重要な手段として機能している側面も残っている。
このような状況を踏まえると、『ベル・ジャー』は過去の作品でありながら、現代日本の女性たちの置かれた状況とも重なる部分を持っている。しかし文学批評としてさらに興味深いのは、エスターが生きた1950年代アメリカの方が、ある意味では「敵」が見えやすかったという点である。当時は女性に対する制約や期待が明確であり、「結婚しなさい」「家庭に入りなさい」という社会の要求が可視化されていた。これに対して現代日本では、「女性は自由に生きられる」「自由を選択できる」という理念が広く共有されている。その結果、女性が直面する困難は社会構造の問題ではなく、個人の努力や能力の不足として理解されやすくなっている。
そのため現代の女性は、「自由に選べるはずなのになぜうまくいくかないのか」という形で苦しみを内面化しやすい。賃金格差や昇進格差、出産後のキャリア形成の困難さなど、本来は社会構造に由来する問題が、個人の選択や責任の問題として処理されてしまうのである。この観点から見ると、『ベル・ジャー』の題名にもなっている「ベル・ジャー(ガラスの鐘)」とは、1950年代の性別役割そのものではなく、人々の閉じ込めながらもその存在が見えにくい社会構造の比喩として読むこともできる。
私はいったい何を求めているのか、何を求められているのか。私は、私は、私は…。
出版されるにあたっての副題である〈I am I am I am〉が溺れている最中の必死な息継ぎのようだ。