川田稔のレビュー一覧
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A戦犯で最年少で処刑された武藤章についての本。
と言っても、取り扱う時期は、日米戦争決定に向かうプロセスが中心で、武藤章を中心とした戦前の意思決定プロセスを解説するという感じか?
武藤章はなんとなくあまり深く考えない武闘派というイメージを持っていたのだが、この本によるとなかなかの戦略家のようで、日本が勝つ見込みのない対米戦争を避けるべく最後まで頑張っていたらしい。
その戦略の鍵は、日独伊の三国同盟にソ連を入れた四国同盟を作り、英米などと対応することで、勢力均衡をはかり、アメリカとの戦争を回避しつつ、南方の資源を獲得すること。
四国同盟はできなかったが、日ソ流立条約は締結することに成功し、アメリカにもある程度対抗することに成功するが、独ソ戦が始まってしまい、その戦略は崩壊する。
そうした中で、次なる戦略がな買った武藤は、対米戦争積極派の論陣を破ることができなくなり、現地に飛ばされる。
このあたりのダイナミズムは、やはり歴史の奥深さがあって、なんとなくのイメージで人を判断してはいけないと改めて思った。 -
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柳田國男の思想の全体像をえがき出している本です。
農政官僚であった柳田が、失脚を経験して民俗学への道へと方向転換することになったという見かたを著者はしりぞけ、柳田の農政論と後年の民俗学をつらぬく社会経済思想を明らかにしようとしています。自作農を創出することで、地域経済に根ざした社会的紐帯を生み出し発展させていくことをねらいとした柳田の立場が、大塚久雄の国民経済論に通じる発想を含んでいたと著者は考えており、その構想のひろがりを柳田のテクストから多くの引用をおこないながら示しています。
つづいて柳田民俗学については、ヨーロッパ滞在中に彼が摂取した文化人類学のあたらしい展開からの影響を受けていることが指摘されています。従来のフォークロアは、ことさら珍奇な習俗の蒐集に明け暮れていたのに対して、マリノフスキーらの文化人類学者は、現地調査をおこない対象地域の住民の生活文化全体を包括的に把握することをめざしました。著者は、こうした文化人類学の方法を、自国の民俗の研究に取り入れることで、柳田民俗学が成立したと論じています。
さらに著者は、柳田の氏神信仰にかんする研究をていねいに検討し、それが日本人の倫理的な心性の基礎を明らかにするというねらいをもっていたと主張します。ここで著者は、フレイザーとデュルケームの比較をおこない、呪術を倫理以前のものとみなしていたフレイザーではなく、トーテミズムなどの習俗のうちに倫理の基盤を見いだそうとしていたデュルケームに近い立場を柳田がとっていたとされています。さらに、そうした柳田の氏神信仰についての考察が、国家神道に対する根底からの批判としての意味をもっていたことが指摘されています。
新書としてはややヴォリュームのある本ですが、柳田民俗学の全体像について明確に把握するという著者のもくろみはじゅうぶんに果たされており、優れた入門書といってよいのではないかと思います。 -
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タイトルのとおり、戦前の陸軍を中心にしながら、どうして日本は対米開戦を決意するに至ったかを満州事変のあたりから説明する本。
その際に、陸軍の大きな戦略構想を担った永田鉄山、石原莞爾、東條英機、武藤章、田中新一などを中心に、その戦略思想の流れ、共通認識と対立点などを通史的に説明している。
この辺のながれは、すでにある程度理解していたつもりなのだが、あらためて陸軍にフォーカスして読んでみると、思想と思考の多様性がわかってくる。
また、これまで誤解していた点もいくつかわかった。
歴史に「もし」はないというが、日米開戦につながっていく必然性とともに、日米開戦が多くの偶然のなかにあり、いくつかの「もし」があったら、それは十分に避けれたものでもある気がしてくきた。 -
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天皇を「常侍輔弼」する内大臣を太平洋戦争期に務めた木戸幸一の要を得た評伝。重要なキーパーソンであった木戸を通して、太平洋戦争の開戦から敗戦に至る昭和戦前政治史についての理解が深まった。
なんとなくのイメージで木戸も西園寺公望などと同じく根はリベラルと思い込んでいたが、実際の木戸は元来政党政治に反感を持ち、外交でも対米英協調路線からの脱却を模索する陸軍の伴奏者的存在だったというのは目から鱗だった。木戸と近衛文麿とがずっと二人三脚で歩んできたということも改めて確認できた。
太平洋戦争の開戦から敗戦に至るまでに、独ソ戦など木戸等のアクターにとっての誤算が重なり、かつ、適切な判断ができずにずるずるといってしまったということが理解できた。 -
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副題に「内大臣の太平洋戦争」とあるように、本書は木戸幸一を通して見た満州事変から太平洋戦争開戦に至る過程を詳細に分析したものである。同著者の『昭和陸軍全史』(全三巻、講談社現代新書)も併せて読むことをお勧めしたい。
読者の問題関心は日本はどうしてあのような無謀な戦争に突入してしまったのかという点に集中するように思われる。満州事変や五・一五事件、二・二六事件、近衛内閣の成立と日中戦争の泥沼化、三国同盟締結、北進・南進政策をめぐっての意見対立、独ソ開戦、日米首脳会談挫折、東條英機内閣の成立、そして開戦してからはどのタイミングで戦争を止め得たのか……すべて昭和戦前・戦中期のターニングポイントであり、そのいずれも木戸幸一は天皇側近として重要な役割を担っていた。
最後の元老・西園寺の側近としてスタートし、西園寺亡き後は内大臣として首相選定の事実上最大有力者となった木戸の考え方は、近衛に非常に近く、議会主義、英米協調路線の否定という点で一致していた。陸軍の先手を打ち(近衛)、善導する(木戸)という方策は、結果として2人を陸軍の考え方に近いものとしていった。
結局のところ、近衛や木戸は独自の政治基盤を持たず、政党政治が崩壊する中で唯一国家戦略足りうるヴィジョンを持ち得た陸軍の同調者とならざるを得なかった。それは日本にとって非常に危うい選択肢しか残されていなかったということであった。それを念頭に置くと、やはり昭和恐慌という経済的危機の中での政党政治の行き詰まり感が重要なポイントであるように思う。実際には高橋財政の成功により経済は回復に向かうのだが、一般には(そして近衛や木戸にも)政党政治、英米協調主義ではもうダメだという意識を強めていったのであろう。
ところで木戸は経済官僚(農商務省から商工省)として自らのキャリアをスタートさせている。その際に欧米の産業合理化運動を9ヶ月半にわたって視察しているのだが、経済的自由主義から合理化運動(統制主義)への移行をどのように見ていたのだろうか。本書の大筋とは関係ないが気になった。 -
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良書だと思う。
多くの方が、指摘する繰り返し、時間軸逆行もそほど気にはならない。
人間の営みの本質の多くは変わってなく、やはり歴史を学ぶことの意義を感じさせる。
本書の流れを企業の内部抗争と見立てて読んでもまた、現代の先進国と開発途上国との軋轢と読んでも十分応用が可能であろう。
自らの主張をぶつけるだけで決定することの責任を徹底的に回避する大物たちの小物ぶり。裁定者不在(国家間であれば国を超越する機関の不在)か裁定できないシステム(閣議不一致→総辞職)に問題があっただろう。
以降人物別に思うこと
本書は永田を中心軸に語られるが、永田の分析にはそれなりのロジックを感じるが、そこから紡ぎだした永田の結論、行動は是なのか?
・長州閥の排除をしながら自身が派閥を作ることに
疑問を持たないのか??
・世界戦争を誘発されるの想定から国家総力戦遂行 のための準備は軍人の思想の範疇としても
短絡的では?
石原については多く語られていない。日中戦争泥沼化を予測しその反対の施策を打とうと考えながらある意味身を自ら?引いたのかの理由が不明?中央からの左遷後の石原の行動にも興味が沸く。
武藤と田中の対立はある意味近い「夢」を見ながらそこへたどり着く「道」の相違なのだろう。日中戦争泥沼化は石原が予測しとめにかかったが強硬な姿勢をとった武藤。そして対ソ戦では、田中に対し石原のロジックで否定は、、、やはり人は経験からしか学べないのか??
武藤は、東条に対し「万人が納得するまで手段を手段を尽くして戦争となれば国民も奮起する」と進言するが、自身は田中に対して自説を納得させる手段は尽くしたのか??
総力戦の予測からの資源確保、その手段として「満州国」「大東亜」という構想が誤った「解」であったのであろう、他の「解」を示した指導者はいなかったのか?そもそもそも他の「解」はあったのだろうか??
他の「解」を見出せないならまたどこかで、同じ不幸を目にする気がしてならない。 -
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陸軍長州閥と一夕会の派閥争いから発生した満州事変。其の後あの泥沼の日中戦争に突入したのはなぜか?本書でもその原因を陸軍内部の派閥争いと考えている。陸軍内部の主導権を握りつつあった一夕会内部に亀裂が入り、統制派と皇道派の対立が深まる。華北分離工作をめぐっての統制派の台頭、領袖永田鉄山の暗殺、二・二六事件以降の皇道派の衰退。盧溝橋事件の扱いを巡っての統制派内部の対立から、出口を無くした日中戦争に突入。そして太平洋戦争。
しかし、そもそも何故こんなにも内部の覇権争いが繰り返されていたのだろうか?中央の指示を派遣軍が従わないとか、挙句の果てには石原莞爾と武藤章の対立は同じ部局内での上司の決定を部下が従わないという構図だ。実際の情報収集→上申→総合判断というプロセスの鍵は、その都度決まっていたのだろうか?軍法会議などは機能していたのだろうか?読めば読むほど理解ができなくなる。 -
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2013.3記。
第一次世界大戦のさなか、のちの陸軍軍務局長永田鉄山は、在ドイツの駐在武官としてその災禍を目の当たりにし、いずれ再度の大戦は不可避であり、そうなれば資源小国の日本に勝機はないという強い危機感を抱いていた。本書の根幹は、「次の大戦に向けた『総力戦の備え』としての資源をどう確保するか(それは軍事的勢力圏の版図決定に他ならないのだが)」についての議論と言える。
最初は「満州の確保」から始まる。その後「満州+米英との貿易堅持」と、いやそれでは米英と組めなかったら終わってしまう、「満州+華北(中国の一部)」まで必要、との二軸が論争となる(1930年代の仮想敵国はソ連だった)。無数の不確定要素に囲まれながら、例えば戦車だけとっても「米国1,000両、ソ連500、日本わずか40」(1932年段階、P.73)という信じがたいほどの国力差の中、意思決定に当たって何を重視し何を考慮外としたのか、学ぶ点は多かった。
将棋の感想戦で決着のついた棋譜を追う時のように、我々はその時々の陸軍の判断が最終的に悲惨な結末に至ることを知っている。が、国際連盟が設立され、「あれほどの大戦はもうないだろう」と日本人の多くが思っていた1920年代に、「起きてからでは遅い」と備えの必要を説いたことまで丸ごと否定するのはフェアではない。かといって、もちろん「あのときはあのときなりに言い分があった」というだけで済まされることでもない・・・。 -
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現代日本に昭和陸軍性悪説というようなものが定着したのは、司馬遼太郎のような作家の影響なのだろうか。
昭和陸軍全史と銘打たれているが、三冊の新書を通して描かれるのは昭和陸軍の高級幕僚史である。石原莞爾と永田鉄山が理論的支柱となり立ち上げた一夕会が、やがて陸軍省と参謀本部を牛耳り、さらなる権力闘争を経て武藤章と田中新一に引き継がれる。この第三巻で描かれるのは、太平洋戦争に至るまでの彼らの暗闘である。
戦略眼と行動力を兼ね備えた彼らは、確かに当時の日本で突出した影響力を放っていた。しかし、この巻で描かれる様は、どこか空しい。それはおそらく、日本が最後のターニングポイントをまわってしまい、対米戦が不可避になっていたからだろう。
1940年にドイツがフランスを屈服させ、西欧諸国の東南アジア植民地攻略というプランが一気に現実味を増す。昭和の初めに石原や永田が思い描いたのは、中国大陸の資源を囲い込んで世界大戦に備える姿だったが、東南アジアには石油があり、自立自衛の経済圏を本当に実現することができる。しかし最後まで立ちはだかるのはアメリカ。英米不可分論、可分論と高級幕僚たちは議論を闘わせるが、大東亜共栄圏という言葉の魅力に引き寄せられ、何とかなるのではないか、という思いが立ち込めてくる。
武藤は対米交渉に望みを捨てず、田中は独伊提携継続か英米に付くべきか自問する。彼らはただ単に好戦的に戦争への道を進んだのではない。しかし、1941年6月、ヒトラーが独ソ戦に踏み切ってからはもはや選択の余地はなくなったように見える。その後南部仏印進駐を機にアメリカが石油全面禁輸に踏み切ったのも、きっかけを探していたようにしか見えない。
何の準備もなく臨んだ日中戦争が泥沼化したのとは対照的に、太平洋戦争の緒戦では陸軍も極めて短期間のうちに、成功裏に東南アジアを攻略する。しかし、やがて武藤と田中は陸軍中央を追われる。最後に権力を握ったのは東条で、彼は昭和戦前最長の政権を維持するが、その政権が終わった時点では、陸軍に思考力は残っていなかった。この時代の歴史を振り返って残念に思うとしたら、昭和17年以降の幕僚達から大胆な発想力が失われ、ただ単に戦死者を積み重ねていったことかもしれない。 -
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満州事変の石原完爾は、勝てる戦しかしない。しかし、石原の部下であった武藤は、日中戦争を敢えて拡大することで石原を追い落とし、権力の中枢に立とうとした。戦火が燃え広がろうとするタイミングでは、それを消そうとする者より、煽る者に支持が集まる。ましてや近衛のようなオポチュニストの下では尚更だろう。一般に戦争への道を主導したのは陸軍であるというが、トップの責任は重い。
それにしても、常備15個師団しか持たない日本が北京や南京を占領したとて、何ができるというのか。二年後からの第二次世界大戦では、ドイツ軍は戦車と飛行機で重武装し、欧州を席巻した。歩兵てわ勝る日本軍は一つ一つ都市を占領していくが、蒋介石も一つ一つの拠点で頑強に抵抗する。 -
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1928年3月1日、陸軍の少壮中央幕僚グループ木曜会の会合で、以下のように申し合わせた。
帝国自存のため、満蒙に完全なる政治的権力を確立するを要す。これがため国軍の戦争準備は対ロ戦争を主体とし、対支戦争準備は大なる顧慮を要せず。ただし、本戦争の場合において、米国の参加を顧慮し、守勢的準備を必要とする。p12
一般に、満州事変は、世界恐慌下(1930年代初頭)の困難を打開するため、石原莞爾ら関東軍によって計画・実行されたものとの見方が多い。だが、実は1929年末の世界恐慌開始より1年半前に、陸軍中央の幕僚のなかで、満州事変につながっていく満蒙領有方針が、すでに打ち出されていたのである。満洲事変の関東軍側首謀者として知られる石原莞爾も、第五回の会合には出席していなかったが、木曜会の会員であった。したがって、満洲事変は、その企図の核心部分においては、世界恐慌とはまた別の要因によるものだったといえよう。世界恐慌は、石原ら満洲事変を計画していた軍人たちにとって、かねてからの方針の実行着手に、絶好の機会を与えるものだったのである。p15
木曜会は中国重視の二葉会と合流して一夕会を形成する。その中心にいたのが永田鉄山であった。永田は、世界大戦に備える軍備の近代化、生産力向上とそのための満蒙進出と国政掌握、進出の障害となるワシントン体制の打破を掲げていた。一夕会は皇道派と統制派に分裂し、その中で永田は暗殺される。以後その直系である武藤章・田中新一らによって日中戦争、太平洋戦争と陸軍=政府は動かされ、崩壊へと向かって行く。
永田自身アメリカとの国力差を認識していたこともあり、武藤らもアメリカとの戦争を望んでいたわけではない。特に日中戦争拡大に走った武藤も日米開戦には反対であった。筆者は言う。
そもそも華北・内蒙古の資源は、武藤が強い影響を受けた永田鉄山が重視していたものだった。永田は次期大戦に備えるためには、中國資源の確保が必要であるとして、満洲事変ののち、華北分離耕作に乗り出した。永田暗殺後、石原莞爾らによって華北分離工作は中止されたが、武藤は永田の遺志を次ぐ継ぐかたちで、再び中國での資源確保のための勢力拡大を強力に押し進めた。それが日中戦争であった。
中国からの前面撤兵とそれにともなう特殊利権(資源開発など)の放棄は、これら永田以来の営為の結果が、すべて無に帰することを意味した。自らも所属していた一夕会結成以来の昭和陸軍の永い努力が、まったく無意味なものとなってしまうのである。
対米戦回避に力を尽くそうとした武藤といえども、容易には、そこまで踏み切れなかったといえよう。p313
タイトルの永田鉄山の構想も死後6年も経っては最早亡霊である。最終目標が来るべき大戦であるにしても、その準備が上手く行かなかないまま来るべき大戦が来てしまった時点で結果はお察しである。