つげ義春のレビュー一覧
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巻頭に昭和45年当時の鄙びた山村、漁村、温泉宿の写真が載せられるが、もはや探しても見られなくなった絶滅風景か。ここ写る子どもたちは、そうか、ちょうど自分と同じくらいの年齢なわけだ。かつて、未舗装路に並ぶ掘っ立ては我がまちにもあったが、ここまで寂れて侘しい風景は記憶にあるような、ないような。わずかばかりの我が深山幽谷の旅では、著者の望む趣きもないのだけれど、仲間と泊した九州の安宿、がっかり民宿ほど想い出深く語りぐさになっている。旅人は訪れた地域の風情や風習をけがしてはならず、寄らせていただく気分が大切だが、迎える側も外貨稼ぎで俗化したサービスに努め、旅人が観光客と呼ばれ、お客様気分になった時点で、ここに載せられる旅は失われたんだろう。
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ネタバレアックスの特集でコメントを書くように20年ぶりくらいで読み返した。『ねじ式』は改めてとても変でめちゃくちゃなのだが、めちゃくちゃなりに筋が通っていて、凄みがあり、何より絵にも凄みがみなぎっている。蒸気機関車の見開きがすごい。黒で描いた後にホワイトでヒッチングをしていて面倒な車輪のシャフトまで丁寧に書き込まれている。暗闇を走っているようだが、明暗が変で昼か夜かも分らない。どんな気合でこの絵を描いたのだろう。最後のモーターボートに乗って腕をかざしている堂々たる感じもかっこいい。そのコマの海原の波の書き込みもすごい。わずか22ページで世界をひっくり返してやろうとしているかのようだった。
他の漫画も面白かった。旅情あふれる漫画と金属加工工場の話が多かった。絵の傾向が3パターンくらいあった。実体験がネタになっていそうだった。セックスがレイプ気味なのが多い。 -
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初めて読んだときは、ねじ式の世界に何か意味があるのだろうと思って何度も読み返した。単に不安で不快にさせるための描写だとは思えなかった。そして、不自然に出てくる多くの看板や海に浮かぶ軍艦など意味を求めて細部を読み返した。
でも、ようやく最近になってそれらには特に意味がないのだろうと気が付いた。男はメメクラゲに触れて、血管をやられ、医者を探して(眼医者ばかりで)手術してもらって、ボートで帰る。ねじ式の世界ではこのストーリーは合理的に完結しているようだが、読者にとっては何一つ理解の点で解決していない。
そして、今の自分がねじ式を通して抱く感情は日常における異世界の近さだ。日常におけるボタンの掛け違えや、触れてはいけない個所をめくってしまうことによる異世界へのリンク。こんなところに異世界があったのだという存在への驚きを予感させる。 -
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久々に読み反してみた。
今、様々なコトが上手くいっていないのかな?少しだけ、現実と距離を置きたい時期なのかな?
たぶん、「ユトリ世代」が読んでも、特に何も感じないのでは(?)と思う。
行きつけの喫茶店でコーヒーのツケが出来たり、近所の米屋の支払いが滞っても何とかなった時代の話。
やらなきゃならないコト、やるべきコトは解っているのに、他人、特に奥さんや、知人といった、近親者に言われると天の邪鬼になってしまう。
学生時代、テスト前に
「勉強しなくてイイの?」
「今しようと思ったんだよ」
しかし、机に向かって、漫画を読む。
結果、テストの成績は……。
コレと同じコト。
つげ義春作品は「芸術漫画」などといった括りがなされているが、そんな敷居を高くする必要などないのでは。
言うなれば、ちょっと、文学チックなトコロがある、昭和エロス漂う、マイナー良質漫画でしょう。
などと言う自分、アフターつげ世代、『ガロ』誌は最後期数年の読者だったりする。 -
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全編、何ともまったりとした侘びしさ。いや、でも暗くはないのだ。
それは著者が、自分で自分を面白がってしまうようなユーモア性を隠し持ち、淡々としながらもどこか魅力的な文章を書くせいなのかもしれない。
知る人ぞ知る山奥の鉱泉で出会う不便で粗末な作りの宿屋や、陰々滅々として絶望的な景色の中にこそ、著者は心の底から幸福感を得るようだ。
大自然を目の前にして、自分自身がケシつぶのようなちっぽけな存在であることを実感する旅。自由とは自分からの自由にほかならない。
つげ義春の旅は、まさに”自分なくしの旅”なのだろう。
また奥さんや子供と一緒に、所謂名所や観光地などにも出かけている。(鎌倉随歩)
中でも、鎌倉の長谷寺で十一面観音に会った時の文章に激しく共感する。
── 薄暗い本堂の正面には、そこだけライトに照らされて、金色に輝く巨大な観音像が立っていた。私は子どもと冗談を云ったりしながらそこへ入っていきなり出会って虚(きょ)を衝(つ)かれ、思わず息をのんだ。その観音像が生身の生きた仏像がそこにいるのかと錯覚を起こしそうになったのだった。ふつう神や仏は目に見えないもので、だからそんなものは存在しないと頭から否定したり、半信半疑だったりするわけだが、そこにある高さ九メートルの見上げるばかりの彫像は、物凄いリアリティで仏の存在をしめしているかのようであった。私は何故かしらうろたえてしまった。 ──
ありがとう。こんな紀行文に出会えて、よかったです。