柳宗悦のレビュー一覧
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柳宗悦は西田幾多郎と井筒俊彦の間に居るということを本書『宗教とその真理』は強く感じさせる。若松英輔氏の『霊性の哲学』を読んで以来、どうしても柳宗悦の「哲学におけるテンペラメント」を読まなければならないと思っていた。もちろんその文章が本書のハイライトとも言えるものであることは間違いないのだが、本書を実際に読んでそこに至るまでの向上道とも言うべき論述に評者は意表を突かれた。白樺の運動の中で連載された論考を集めたものでありながら、本書は一冊の書物として類まれな柳宗悦の堂々たる主著であることを知らされるのである。
西田幾多郎の『善の研究』に内展involutionと外展evolutionという言葉がライプニッツに帰されて言及されている。その印象的な二語が本書において度々用いられていることに、柳が『善の研究』によって切り開かれた地平と同じ地平で物事を捉えようとしていることを感じさせられる。学習院時代の柳のドイツ語の先生だった西田との交流は、おそらく単なる語学の教授に留まらずそこに血の通った交流と敬意とがあったことを想わせるのである。
本書を紐解いてまず強烈に印象付けられたのは本書が近年の著作では類書のないキリスト教霊性史とも言うべき内容を蔵していることである。キリスト教霊性史をこのような律動と筆致で描いた書物を日本語で読んだことは今までなかった。現在のように個々の研究が進んでいるわけでもない時代に柳が如何にそれらを見出し得たのかが気になるところではあるが、柳が問いかけるものの一つひとつを自ら確かめることを強く促されるのである。『工藝の道』において展開される宗教哲学の素地が本書によって生き生きと展開されており、否定神学に始まり西洋の古典たる神秘家たちと老荘思想を読み解く柳の筆致は読者に感化を与えて止まないものであろう。そしてそれは、秀逸な宗教哲学入門でありながら類まれな宗教哲学論でもあるのである。
「哲学におけるテンペラメント」は若松英輔氏がたびたび井筒俊彦のアリストテレス読解として取り上げるオレクシスを思わせる。気質とも訳されるテンペラメントはそれぞれの人に固有の発露を掬い取ろうとする言葉であり、テンペラメントなくして哲学はあり得ない、そういったそれぞれの内なる衝迫とも言うべきものを表わしているのである。先に述べた壮大な宗教哲学入門を成す全体の論述はそれこそ井筒俊彦の『神秘哲学』における向上道を思わせる。
柳宗悦にとって書くとは自らが受け取った豊かな洞察を読者に余すことなく伝えることであったのだということを本書において感じる。キリスト教霊性史の精華とも言うべき内容を老子や中庸と突き合わせながら読み解き、その東洋的洞察をアーサー・ヒュー・クラークの詩を引き合いに出しながら見出していくのは圧巻である。柳の論考を通して読者に与えられるのはもちろん叙述の内容もさることながら、何をどう読むかということなのではないだろうか。私たち一人ひとりの古典を見出し私たち自身の生を見つめることを本書は促しているように思う。 -
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私は日本を知らない。
この本を読んで、心からそう思う。
「吾々は日本から生まれたものをもっと愛そう」
そう柳さんは語る。
今世の中を見渡すと、有形無形に関わらず、海外のものに溢れている。
海外のものが悪いのではない。
ただ、自分たちの生まれ住む国にある素晴らしいものを知らず、海外のものばかりを「安いから」「どこでも手に入るから」と使い続けて、日本固有のものが衰えていくのは悲しいことだ。
自分たちが住むこの日本の足元をもっと見つめて、掘り下げていけば、豊かに生きていけると思う。
「便利さを買い、美しいものを売ってしまった。それは幸福か?」
と柳さんは語る。
この本の初版が出たのは、昭和23年らしい。
その頃から更に失われてしまった民藝は全国各地にあるだろう。
でも、各地で復興を目指している人たちもいる。
そんな熱い志を持った人たちを応援し、日本固有のものを尊び、守っていくことは、日本のためになると言える。
改めて、日本のことを好きになれる一冊だった。
日本民藝館に行きたい。 -
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一緒に全国行脚して色んな工藝を巡ってる気分を味わえて、めちゃ楽しかった〜!烏山が美しい馬具を作るところだったなんて知らんかったぞ?今となっては検索しても出てこいものもけっこうあった一方、ちゃんと残ってるものが多数あって希望を感じた!
実用品の美しさとは何か。それは実際の生活での使用に耐えうる丈夫さや使いやすさをともなった「健康な美」。健康な美こそ一番美しい!なぜなら、背後に自然の法則が働いているから。法則に従順である、この「他力の美しさ」は人間の視点からすると「不自由」「束縛」という嘆きとも捉えられるが、自然の視点からすると一番当然な道を歩くということ。むしろ「他力に任せ切るとき、新たな自由の中に入る」。
芸術品と異なり、工藝品は作った人の名を記したものはない。職人たちは、名で残ろうとするのではなく品物で勝負している。たとえ作った人が学のない無名な人で、作るものが普通であったとしても、大きな伝統の力に支えられているということを忘れず、名もないものの美しさこそもっと評価すべきではないか。
伝統を尊ぶということは、ただ昔を繰り返すということではない。伝統は活きたものであって、そこに創造と発展がなければならない。伝統を尊ぶということはむしろ連なってきた樹木の根をを更に育てて名木にするためである。
もしも我々の生活が醜いもので囲まれているなら、その暮らしは程度の低いものに落ちてしまう。一国の文化はその国民の日々の暮らしに最もよく反映される。生活を深いものにするためには、どうしてもそれは美しさと結ばれねばならない。生活の中に交えることでかえって美が深まり、確実なものになる。それこそが実用の美、健康の美。
「我々は日本の固有のものをもっと尊ぶべきだが、それは他の国のものを謗るとか侮るとかいう意味を伴ってはならない。真に国民的な郷土的な性質を持つものは、お互いに形こそ違え、その内側には一つ触れ合うものがあり、お互いに近い兄弟ともいえる。世界は一つに結ばれているものだということを、かえって固有のものから学ぶ。」
柳さんも朝鮮の文化に触れて、かえって日本のさまざまな美、民衆が創造主体の美が見えてきたということで、外に触れて内を知るというのはどの時代にもあるんだな〜と感じた!いつか日本の手仕事令和ver.を刊行したいと思いました。 -
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【沖縄文化論の草分け論集】
明治政府による廃藩置県で琉球王国が滅亡し沖縄県とされたのは、1879年である。日本で沖縄文化研究の本格的な気運をつくったのは民俗学の創始者の柳田国男だった。柳田は南島こそ日本文化の源流と見ていたのだ。柳田の『海南小記』に刺激されて、折口信夫も沖縄を訪ね、『琉球の宗教』を書く。他方、民芸運動の主唱者柳宗悦は、沖縄における「民衆芸術」の営みを愛でた。
本書は、柳田、折口、柳をはじめとする沖縄文化論の草分けの論考が詳細な注記とともに読みやすい形で提供されている。返還50周年を機に、沖縄の文化を見つめ直すのに格好な本である。
柳田「日を経て南の風の吹く頃には、遙かなる常夏の国から、椰子の実が流れてくる」。折口「内地の古神道と近い琉球神道は、組織だった巫女教の姿を現に保っている」。柳「伝統的な純正な和語を最も多量に含有するのは東北の土語と沖縄語である」。「詩歌と音楽と舞踊とが、まだこの島では一体になっている」。
(本土に沖縄の米軍基地を引き取る福岡の会/門倉) -
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昭和15年ごろの日本列島の手仕事を紀行する。現在で言えば地域特産品である。日本の民芸品が紹介されることで、当時の手仕事の結実がわかる。機械は世界のものを共通にしてしまう。それは、粗末なものになりがちだという。手仕事にこそ個性が宿る。ドキュメンタリーのような手法で、日本の手仕事を紹介する。手によって生まれた日本人の暮らしに欠かせなかった生活道具の紹介。その見る目が民藝運動の創始者の視点が浮かび上がる。日本にこれだけの民芸品ができていることに、感動さえ覚える。日本は、素晴らしい手仕事の国つまり手の国という。
上手、下手、手堅い、手並みがよい、手柄を立てる、手本にする、手腕、読み手、書き手、聞き手、と手に関する言葉が多い。手がものを作らせたり、働きに悦びを与えたり、道徳を守らせたりする。日本にさまざまな品物ができるのは、自然、紀行風土であり、人間が開発した努力の跡としての歴史であり、自然と人間との交わりから生み出されてきた。品物を作ることは、自然の恵みを記録しているようなものである。伝統とは長い時代を通し、祖先たちが、さまざまな経験によって積み重ねてきたもの。そこには思想もあり、風習もあり、知恵もあり、技術もあり、言語もある。
手仕事の世界は人間の自由が保たれ、責任の道徳がよく働いている。柳宗悦は、正直な品物を褒める。
著者は、美しいとは、健康でなければならないという。美しいの中に、健康という概念を持ち込むことが素晴らしい。今まで、そのような健康と病気という視点で見たことはなかった。
柳宗悦はいう。「私たちは健康な文化を築かねばなりません。日本を健康な国にせねばなりません。それには国民の生活を健全にさせるような器物を産み育て、かかるものを日々用いるようにせねばなりません」表現は、戦争時代を迎えて、検閲に注意したとしても、いい言葉である。
その美しく健康な地域固有な品物が、手によって作られることで、心でつくり、心で受け入れられるのだという。
焼物、染物、織物、金物、塗り物、木や竹や皮や紙の細工、玩具をめぐる。
関東から始まり、江戸文化、そして江戸風な気質を見出そうとする。上野近くの田村屋のキセル、十三屋の櫛、道明の組紐。襟円の半襟。阿波屋の下駄。さるやの楊枝。榛原の和紙。永徳斎の人形。なごやの金物。平安堂の筆墨。と上げていく。ふーむ。まさに文化が手仕事で結実している。この中で残っているのは、どれくらいあるのだろうか。昭和15年頃なので、80年前のことだ。
こうやって、日本列島を北海道を除いて、東北、関東、中部、北陸、近畿、中国、四国、九州を駆け巡る。美への基準としたたかな目で探り当てていく。
機械で盛んに作られている品物に対して、惜しいかな、どこまでも営利の目的を外れないので、だんだん粗末になり、どう手を省くかについて知恵を働かしていることに嘆く。一方で、手でつむぎ、染めも正藍を用い、昔風の手機で織っている。このやり方が織物のよさをよく知り、道を守って仕事を崩さないという。そして、装飾めいたものに対しては、批判をする。もっとシンプルに生活に合うものを求める。その姿勢が、なんとも言えないなぁ。
ここで、上げていったらきりがないのでやめるが、その評価については、なるほどと思わせるものがある。柳宗悦が、今の時代に生きていたら、絶望を感じるかもしれない。時代は大きく変わり、職人は、どんどんと消え去り、長年の修行によって達成される手業が生み出されない日本が生まれているような気がする。日本の原風景が見えて、楽しい。しかし、語り口が実に爽やかなのに驚く。 -
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国立近代美術館で柳宗悦没後60年の「民藝の100年」という展示や、近所の日本民藝館に行ったことなどもあり、民藝に興味を持って手に取った。
柳宗悦は、ロダンを中心とする汎神論的な芸術の受容からキャリアをスタートしているが、彼の民藝評には汎神論的な感覚を感じる。なぜ民藝が美しいかと言えば、それは「用」の美。なにかに用いられるということを想定された美しさなのである。近代の美術において評価されてきた貴族的な品物と民藝と比較すると、前者が有想(想像を巡らせ、意匠を凝らすこと)であるのに対して、後者は無想であり、より清い境地にある。また、前者が意識なら、後者は無心、前者が主我ならば後者は忘我の境地であるとも言われる。こうした無想・無心・忘我になぜ美しさがあるかと言えば、この世の中の叡智とは、1人の人間が作り出さんとするものではなく、集合的無意識のような個人の枠組みを超えたところに現れるからである。このような柳の考え方は、個人がオーサーシップを持ち、自由であることを基盤する近代的な考え方への超克を目指すものであるとも受け取れる。民藝は、製造過程で多くの人がかかわっており、さらにその後も誰かに使用されて洗練されていく。民藝が目の前に存在しているというタイミングまでに無数の人の手を介しており、個人のオーサーシップを重視する近代美術とは一線を画する。こうした観点では先日、SOMPO美術館で見た川瀬巴水の版画の製造過程も、多くの人間がかかわっている。川瀬巴水は日本中を周遊し、絵画の着想を得るが、作品が完成する過程にはかならず優れた版の彫師が存在している。そうした作者の複数性と言う観点では、そこから日本的美術の美しさを見出すことができるのではないかと考えた。 -
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昭和17〜18年ごろに書かれた本。
民藝の美しさ、クオリティを手仕事に求め、商業主義との距離感がある方がいい伝統が守られるというスタンスに貫かれているように見える。
これを読むと、人の仕事というのは結局機械との競争を続けている産業革命以降の歴史ということが分かる。今の時代、AIやロボットに置き換わることで、果たして仕事の「美しさ」は失われるのだろうか? 我らサラリーマンに仕事上の「美しさ」は求められていないのかもしれないけど。
それでも、シンプルな生き方、歴史を受け継ぎ発展させようという姿勢、健康であること、など著者のメッセージは今の時代でも刺さると思う。 -
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1946年(昭和21年)?
民芸運動の提唱者・柳宗悦による、若年者のための民芸解説書。日本各地の手仕事(染物、陶器、文具、家具、衣服、郷土玩具など民衆の生活に密着したもの)が紹介されている。写真が添えられていないため文章から実物を思い描くのが難しいのが難点だが、芹沢銈介による小間絵がその欠点を補っている。また、柳の持論である「職人の功績」「用の美」「健康の美」等の概念も簡潔に説明されていて興味深い。「モノづくりの国・日本」の原点に回帰させてくれるような書物である。若年者向けということで極めて平易な文章で書かれているので、民芸入門として適していると思われる。