あらすじ
「民藝」とは、民衆が日常に使う工藝品である。民家、民具、民画を総称して「民藝」と呼ぶ。「民藝品たること」と「美しく作りたること」には、固い結縁があり、質素こそが慕わしい徳である。このように清貧の美を説いた筆者の理念とは? 昭和の初頭に創始され、現在にまで受けつがれる「民藝運動」の精髄を知るための格好の入門書。(講談社学術文庫)
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民藝の美の特質。
①実用性。美と用が結合していること。用と結びつくことで健康的な美を体現している。
②大量につくられること。進んで安くたくさんつくることで、ますます美を生み出す道を見出す。
③平常性。極端なものに美を見出すのではなく、日常、飾らない美。
④健康性。上等な美術品はどこか病的である。
⑤単純性。
⑥協力性。
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柳宗理を先に知って、彼のエッセイ読んだ後で彼の父である柳宗悦のこの本を読んだんだけど、もうあれね。父ちゃん圧勝!
柳宗理もすごいけど、それとは比較にならないくらいの柳宗悦の思想の真剣さ、熱さよ。郷ひろみも真っ青の、アーチーチーアーチー具合。
民藝とは関係はないですが、美術が何かわからないという理由で美術芸術を敬遠している方、読んでみてください。きっとあなたを励ましてくれるはずです(私は励まされた)。
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実際に日本民藝館にも訪れてみたが、日々使われて用をなすことで価値が生まれる民藝品を通じて、「なくてはならぬもの」という存在から美とは何だったのか考えさせられる。
今の自分の生活の中で日常に溶け込んでいるあらゆるものを見直したい。
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アートとサイエンス、人間と機械、定性と定量、be or have、よく語られる最近の二分に共通する、民藝と貴族的工藝。この視点で読むととてもわかりやすい。
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かなり哲学的というか思想色が強い内容だった。疑問は、現代には民藝の思想は残っていても「民藝」は残りえないのではないか、ということ。希少性はなく量産するものである、という特徴は、民藝品をつくることがとても少なくなった今、民藝品の物理的数にそもそも希少性がでてきてしまっているのではないかと思ってそれは民藝と言えるのかなあと。現代における民藝品の位置付けを知りたい!!
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国立近代美術館で柳宗悦没後60年の「民藝の100年」という展示や、近所の日本民藝館に行ったことなどもあり、民藝に興味を持って手に取った。
柳宗悦は、ロダンを中心とする汎神論的な芸術の受容からキャリアをスタートしているが、彼の民藝評には汎神論的な感覚を感じる。なぜ民藝が美しいかと言えば、それは「用」の美。なにかに用いられるということを想定された美しさなのである。近代の美術において評価されてきた貴族的な品物と民藝と比較すると、前者が有想(想像を巡らせ、意匠を凝らすこと)であるのに対して、後者は無想であり、より清い境地にある。また、前者が意識なら、後者は無心、前者が主我ならば後者は忘我の境地であるとも言われる。こうした無想・無心・忘我になぜ美しさがあるかと言えば、この世の中の叡智とは、1人の人間が作り出さんとするものではなく、集合的無意識のような個人の枠組みを超えたところに現れるからである。このような柳の考え方は、個人がオーサーシップを持ち、自由であることを基盤する近代的な考え方への超克を目指すものであるとも受け取れる。民藝は、製造過程で多くの人がかかわっており、さらにその後も誰かに使用されて洗練されていく。民藝が目の前に存在しているというタイミングまでに無数の人の手を介しており、個人のオーサーシップを重視する近代美術とは一線を画する。こうした観点では先日、SOMPO美術館で見た川瀬巴水の版画の製造過程も、多くの人間がかかわっている。川瀬巴水は日本中を周遊し、絵画の着想を得るが、作品が完成する過程にはかならず優れた版の彫師が存在している。そうした作者の複数性と言う観点では、そこから日本的美術の美しさを見出すことができるのではないかと考えた。
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名もない人が、生活のために拵えたもの。
過剰さも、個性もいらない。無駄なものがないからこそ、美しい。
わたしは、芸術なんて無駄なもの、ないならないで過ごせるもの、個性的で唯一無二のもの、でもなかったら、寂しくて自分の心が求めるもの。という風に思っている節がありまして、
その対極にあるものが、民藝なのだろうと。
わたしは今、そのような民藝にとても強く心を惹かれています。
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柳宗悦の考える『美』について書かれています。
彼曰く、
・華美な装飾や高級なだけの工芸美術品は美しくない
・無駄を省いた実用性のある民芸品が美しい
そんなことを言っています。
本書を読んだ時は、工芸品と民芸品の定義がうまく飲み込めず、混乱しました。
DIYで作ったものは?こけしや赤べこなどの置物は?振袖は?無印良品・ユニクロは?国宝が作ったもの・クリエイターが作ったものは?
どれなら良くて、どれなら悪いのか、よくわからなかったのでマトリクスを作って思いつく限りのクラフト品をあげてみました。
そうすることで、柳宗悦が高価なクラフトや装飾の見事な着物などを全て否定しているわけではないということがなんとなくわかってきました。
柳宗悦の他の本も読んでもう少し理解を深めたいのと、加えてアーツ・アンド・クラフツ運動なども勉強してみようかと意欲が湧いてきました。
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民藝とは何か、なぜ民衆的工藝を顧みるべきなのかが、とてもよくわかる。
宗教学者の見地から、キリスト教や仏教と関連付けながら、民衆的工藝がなぜ美しいものであるのか、と説明する箇所は論理的で理解しやすいのだが、感情的な筆致も相まって肝心なところで筆者の主観の域を出ない書き振りのところがあったところは否めない。またそうした感覚的な論旨を補強するためか、力技的に同じような話をさまざまな角度から何度もくどくど書き連ねている印象も多々受けた。
それを考慮に入れても、意義深い書籍であることには変わらないとも感じられた。
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そもそも高価な貴族的な品物の、ほとんどすべてに見られる通有の欠点は、一つに意識の超過により、一つに自我の跳梁によるのです。一言で言えば工夫作為の弊なのです。
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日本の民藝についての第一人者である柳宗悦による美の論説。本書で語られる柳の主張は、一切の反論の余地も与えないようなものでは確かにない。例えば創意工夫が美を損ずるとか、僅少で高価であることはそれ自体が不完全であるとか、絶対にそうとは言えないのでは、とその論理づけにおいて指摘したくなる部分は少なからずあった。
しかし柳の功績は貴族趣味的なものばかりがやたら有り難がられて、日用品が工芸品として評価されていなかった風潮に待ったをかけて、用の美というキーフレーズでいわゆるクラフトの価値を土俵に上がるところまでに押し上げたところにあると思う。現に日本のクラフトデザインの歴史を柳抜きに語ることはできないであろう。有銘の作と無銘の作とに対する目線に、当時の社会としてあまりに極端なアンバランスがあったとすれば、本書の柳の論調もそのカウンターパンチ的な意味があったのではないかとも思う。
絶対的な肯定ができないように思われる部分もままあるなかで、個人的に全くその通りだなと思ったのが、美と道徳の関係について言及されていた箇所である。道徳の欠けたものに美が見出せないのは美学的にも裏付けられるところだと思うし、独りよがりの表現よりも、公の観点で多くのものを救い出そうとする視点を美しいとすることに何の異論があろうかと思う。そういう意味で、最近公衆に蔓延る表現に美しいものが少ないなと思うのは、まさに時代が下って美意識がどんどん欠落している現実だなと思った。
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まさに「民藝」の入門書として、提唱者の柳宗悦より平易な表現で、分かり易く解説されている。
「民藝」は、明治近代化の中でしばしば登場する概念であり、その影響力から、言葉としては認識していたが、体系的に理解できたことは収穫。
このように原則論を読んでいると、時代を超えた普遍性があり、現代においても意識すべき概念ではないかと思う。
以下抜粋~
・用が生命であるため、用を果たす時、器は一層美しくなってきます。作り立ての器より、使い古したものはさらに美しいのではありませんか。
・廉価であるということが、実に美を増す大きな基礎なのです。安いものであるから、強いて美を盛ろうとは工夫していません。
・無銘の作に心が惹かれるのは、そこに一個性よりさらに大きな衆生の美があるからです。
・民藝品が特に注意されねばならない大事な理由の一つは民族性や国民性が一番素直にこの領域に現れてくるからです。
民藝こそは国民生活の一番偽りなき反映なのです。
・ご承知の通り産業革命以来、工藝は二分野に分かれ、機械製品と手工藝とが対立するに至りました。
前者はある意味では進歩した道ではありますが、不幸にも貪欲な商業主義と深く結合したため、品物を粗悪にしました。
・民藝の美の特質
1実用性
2常に多量に作られることと、廉価であること
3平常性
4健康性
5単純性
6協力性
・かくして私は民藝品の最後のまた最も重要な特色について語る場合に来ました。
それは国民性ということです。
民藝は直ちにその国民の生活を反映するものですから、ここに国民性が最も鮮やかに示されてくるのです。
地方的工藝の存在は重大な意義を有ってくるのです。
地方こそは特殊な材料の所有者であり、また独特な伝統の保持者なのです。国民的伝統の上にこそ、強固な国民的美が発露されるのです。
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駒場にある日本民藝館を訪問し、何冊か購入した中の一冊。
民藝が好きで、民藝運動を興した柳宗悦さんやバーナード・リーチ先生らが好きで色々な作品を見たり読んだりしてるけど、そもそも民藝とは、という事を柳宗悦先生より直接教えていただいている様な感じがして楽しかった。
民藝の価値をここまで高めた功績は偉大だ、と感激します。
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読んでおかないとという本。同じ主張がずっと繰り返される。用と美と利。用を追求すれば美に至る。組合的な組織で、無心に、数多く作るのが大事。国の文化が豊かになる。利を追求した大量生産は画一的、効率的で美をうまない。
美術品と工芸品の対比は正直よくわからない。どちらも美しいと感じるものはあると思う。
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民藝とは、運動である。
民の協働としての運動である。
とても面白い視点を与えてくれた、と思う。
芸術というものが権力を志向するのに対して、民藝は協働を呼ぶ。現代のシェアリングエコノミーにも通じる、何かがここにはある。
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しばらく前に日本民藝館の展示を見に行った際、館内の売店で見つけた本。
本書は、民藝運動の創始者である、柳宗悦(やなぎむねよし)による、民藝論の入門書です。
著者自身が民藝学概論、と位置づける表題の小編と、やはり民藝の概念や良さについて、簡潔に語った随筆がいくつかおさめられています。
原本は1941年に刊行されていますが、現代仮名づかいに改められ、文字の大きさや組み方も新しく、読みやすい仕上がりが有り難い。
本書における著者の主張は終始一貫していて、民藝品は、大衆が用いる工藝品として、大量に、廉価に、簡単な手法で、実用的であるために不要な装飾を省き作られたことで、無心の健康的な美がやどっている、それはいにしえの茶人達が愛した美であるーーとしています。
そして、「ここに用というのは、単に物への用のみではないのです。それは同時に心への用ともならねばなりません。」という言葉に、東京帝国大学哲学科を卒業した宗教哲学者でもある著者の人となりが、象徴されているように感じました。
展示を見た後、たまたま売店で1つ700円くらいの湯呑みが気に入ったので買って帰ったのですが、帰宅後いつものマグカップでなくそれでお茶を飲んでみると、これまたいつものティーバッグの番茶が、自分比で3倍くらい美味しい。
「私!いま!お茶を飲んでるーー!」という気分が腹の底から湧いてくるというか。
「心への用」って、ひょっとするとこういう気分なのかな。
本書が執筆されてから、80年近くが経過した現代には、無印良品も100円ショップもあり、民藝品が、廉価の、無名の品々であるとは、一概には言えません。
でも、湯呑みで番茶を飲むことが、単に水分を補給するためだけでなく、ひと息つく時間になったり。
団扇であおぐことが、ただ汗をひかせるためだけでなく、炎天下を歩いてきた自分への労いになったり。
民藝の品々を見ていると、日々は単なる通過点ではなく、今を感じながら生きる喜びこそが大切なのだと、語りかけられている気がします。
どれだけ経済、社会、生活が変化しても変わらないことは何か、本書の言葉が伝えてくれているように思いました。
Posted by ブクログ
この名文にやられた。ただ、「真の美」という発想がいかにも時代を感じる。私の世代の人間には、逆に民藝もまた骨董の一種と化しているように見えるから。それに、他の本で見るようなゴテゴテと色んな民芸品を所狭しと並べている人は、正直言って悪趣味にしか思えない。ただ、河井寛次郎記念館や日本民芸館のように、客への心遣いを感じる装飾としての民芸品はさほど嫌みはない。何事も中庸を良しとするのだろうか。その意味で、「なぜ柳氏は茶道の世界を批判したのだろう?」というのが自分の中では疑問として湧いた。茶道のデフォルメはもはや用の美を忘れたと言いたいのか。それとも、千利休を称揚し、その美的感覚がスタンダードとなる中、流れに竿を指したかったのか。もうちょっと勉強すれば、実際の柳さんの歩みから答えが出そうな気がする。
Posted by ブクログ
『民藝とは何か』、『日本民藝館について』、『民藝の性質』いずれも似たようなことを言っていると感じた(おそらく多くの人が同意してくれると思う)。
だから、読み進むうちにだんだんと読むスピードが増していった。
そして、はたと立ち止まって、「これってホントに読書なのかな。やっていることは速読と似たようなもんで、いつの間にか『早く読み終わらせる』ことそれ自体が目的になってないかな。俺はそんな読書がしたいわけじゃない。」と思った。
しかし、その一方で速く読むことそれ自体はそれほど非難されるべきものでもないという考えもある。
高橋源一郎は「『明治の文章』は明治人の音読の速度で読まないと味わえないのではないか」という仮説を立てたという(『態度が悪くてすみません』所収の「速度と祝福 God speed you」)。
これが書かれたのが1940年前後。
ならば、リズミカルに読んでも問題ないのではないかというわけだ(昔の人は今より早口だったみたいだから。それに文章もリズミカルな漢語調だし)。
ああ、全然内容に触れてなかった(まあ、僕がやってるのはレビューという名の日記なので)。
言ってることは至極全うなことだと思う。
錯雑とした意識に捉われない、日々の健康的な生活の中から生まれる実用的な民藝品にこそ真の「美」が存在するのだと(多分こんな感じ)。
でも時々横槍を入れたくなることもありました。
僕にとって象徴的なのが、人々が在銘の品を求めるのは、「それは『銘』を愛し、『人』を愛し、『極め』を愛しているのであって、美そのものを見つめているのではない」(p.64)という部分。
これはブランドの概念にもつながってきそうな部分ですね。
宗悦さんの言っている「美」にはだいたいにおいて賛同しますが、僕はそれがいつの間にか「健康的で実用的であるといった諸々の要素さえクリアできればそれは無条件に素晴らしいものである」ということになってしまうのではないかと恐れます。
それでは在銘の品(いわゆるブランド)を盲目的に求める大衆と全く同じことではないかと思うのです。
宗悦さんがこのような反論を想定していたのかは分かりませんが、宗悦さんはそうした諸要素の拠って立つところとして、さらに「直観」というものに説明を求めました。
「直観」で諸要素を、また美を感じるのだから、そこに自身の独断の入る隙はない。「もし見誤るなら(それは)充分に直観が働いていないからです」(p.93)と。
僕は人が皆(偏見などを取っ払って)「直観」で物事を見れる、またそこで同じことを感じるであろうということを信じていない人間ですから、ここらへんの記述(この文章の核な気もしますが)には多少の違和感を感じました。
まあそんなことはどうでもいいか。
今度日本民藝館に行ってみたいと思います。
(2007年09月16日)
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芸術作品の見方を考えさせる本。有名性からくる「良さそうなもの」を認識するのではなく、無名性でかつ実用的なものにこそ美があると言っている。確かに有名なものや、ブランド品はそれだけでよく見える。美しさとはなにかを考えるな。
Posted by ブクログ
柳宗理のお父さんの柳壮悦。民藝運動を興した人。駒場にある日本民藝館はこの人の活動の中心地。
フォークアートとアートというふうに二つに分かれちゃって美はアートの方にあるってことになってるけど本当?みたいな話がずっと繰り返される。いろいろなところに書いてある文書をとりあえずまとめて本にした感じなので繰り返しだらけなんだけどおもしろい。
無名性
シンプリシティ
廉価性
生活への密着
ローカリティ
みたいなのがカギだと。そして、美しさの本質になってるのは絵師が、大量に同じものを生産する中でのディシプリンによって生まれるのではないか?みたいなこと。同じ絵を大量に書くことでその絵の本質に達するみたいなこと。大量に行われることで効率化が行われ、その事物の本質に達するということ。
勃興期の茶道の大名物とかも全部民藝じゃん。作家性のあるやつとかだめじゃんなんかわざとらしくて。
スマホに当てはめるとどうなんだろう。朝鮮からわたってきた民藝品が本当の美であるということなんだよね。でもs5のバンドエイドは違うだろうなという気はするが。
あと、壮悦さん、分析のなかで、
コミュニティとか、宗教とか、ちょっと時代的にインターナショナルな感じに行きます。そういう時代だったんだね。
Posted by ブクログ
柳宗悦の民藝に対する考え方には感心するところはとても多い。
ただ、読み物としてですね、同じような文章の繰り返しなので、結構読むのがしんどいです。。。