阿古真理のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
明治から昭和、平成と、家事と仕事の両立を目指してきた女性たちの歴史について書かれた本。
歴史が進む中で、目まぐるしく社会の仕組みや価値観が変わっている。家事の手本となるのは自分の親だけど、親の真似をしても社会の仕組みと合わないような…。そんな歴史。
今、当たり前と思っている家事や家族の形って本当に当たり前なのかな、と思ったり。
以下メモ
・母性愛という考え方が日本で出てきたのは、1918~1919年に与謝野晶子と平塚らいてうが中心となって最も盛り上がった母性保護論争がきっかけ。(この時代、お見合い結婚から恋愛結婚に変化)夫婦の間に恋愛感情があることが前提の近代家族では、目には見えない愛情を示す必要がある。(家族社会学者、山田昌弘)典型的には、「夫が給料を持ち帰ることが、愛情の証であり、妻が家事労働を引き受けることが愛情の証となる。」
・1985年以降、少なくとも2000年代初頭までは、育児の主体は母親から赤ちゃんに移り、母親は24時間子どもに奉仕せざるを得ないよう、(母子手帳の記述による)指導が転換していたのである。
・1980年代になると、既製服の文化が浸透し、手縫いの衣類はすたれていく。すると、必要なモノを必要に応じて作る手仕事の延長で、家事の趣味かが始まる。仕事を持つ主婦が増え始める中、専業主婦を続ける女性たちが、自らの存在価値を手をかける家事に求めたかのようにも見える。
そうした時代にっ育った世代が、平成になって子育てを始める。その時手本にしたのが、昭和の後半に家事に手をかけていた母親たちだった。
・性別役割分担が機能していた期間は、実は20年ほどでしかない。まず、女性たちが主婦業に虚しさを感じるようになる。1982年に、アルコール依存症になる主婦などをルポした「妻たちの思秋期」がベストセラーになり社会問題化するが、主役になる場を持てない人生にむなしさを覚える人は多い。
・しかし便利になればなるほど、ちょっとした不具合、相性の悪さでイライラする。お任せに慣れれば慣れるほど、考える力や手先の器用さが磨かれなくなり、ちょっとした手間が煩わしくなる。わからないことが増えると、自己評価も下がってしまう。ひと手間が面倒に思えるのは、実はラクになったからかもしれない。
・「モモ」
時間に余裕がなくなると人生がつまらなくなるのは、「時間とはすなわち生活だからです。そうして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。」と、同書は明快に記している。時間泥棒が奪ったのは、その人の生活なのである。
・現実世界に、時間泥棒と戦っているモモはいないから、私たちは自分で暮らしを、人生を取り戻していくことが必要だ。そのためには、ケアを組み込んだ社会のシステムが不可欠である。消費でストレスを発散させるのではなく、暮らしや仕事を充実させるために必要なモノを買う、あるいはつくる、シェアする。家族や友人と過ごす時間を確保し、仕事仲間がどんな人知って、お互いに力を合わせて仕事をする。 -
Posted by ブクログ
カジュアルなタイトルと見た目に反して、イラストの一切ない文字だけの300ページ超の大作。
内容は家事のノウハウやコツを伝えるような、よくある家事本では全くない。
むしろ「家事の社会学」というようなタイトルの方が適切じゃないかと思える。
家事の歴史的、社会的、政治的背景を紐解きながら、家事の偏在する大きな負担の理由を説明し、そのよりよい在り方を検討している。
対象読者は、日々家事に追われている人、その中でも家族があり、ケア(育児や介護)も家事の一つである方と想定している。現在の日本では大多数が女性でしょう。
女性が会社や社会などの公的エリアから家庭に追いやられ、家事を1人で抱えこまされ、男性が家事に関与しないのはなぜか。それはそれぞれの個人的な要因というよりは、家事がそういうものだとしてきた親、会社、社会、制度の関与がある。それぞれが長い時間の中で複雑に絡み合っているので根が深い。
具体的に家事負担の軽減として目指す方向は、家事の総量を減らすことと、それをほかの家族とシェアすることだ。シンプルだが重要であり、その具体例もまとまってはいないがいくつも紹介されている。制度や考え方も徐々によい方向に変化してきており、これからもきっと変わっていけるだろうという著者の姿勢も嬉しい。
女性が日々家事に苦しめられ、悩んでいることに対して、労いたい、共感したい、肩の荷をおろしてあげたい、助けたい、と思う著者の温かいケアの気持ちが真っ直ぐに伝わってくる本である。
そんな大変な思いをしている女性はもちろん、家事の大変さに気づいていない男性(夫、会社の管理職の方、官僚、政治家)の皆さんも、読んで頂きたい本です。 -
Posted by ブクログ
ニューヨークタイムズのデジタルのサブスクリプションはクロスワードパズルとクッキングレシピから始まったという話を聞いたことがあります。今日も日本の各新聞には毎日小さなスペースながらも料理のレシピが載っています。もちろん本屋でも料理本のコーナーは百花繚乱な存在感を示していますし、個人的にも隙間時間でついついクックパッド開いたりしています。性欲、睡眠欲と並んで人類三大欲求を成す食欲の受け皿としてのレシピの市場のなんと広大で盤石なことか!たとえ中食市場が2020年には10億市場になる予測があったとしても家で「ごはん」を作ることは不変の営みにも見えます。しかしレシピは世に連れ、世はレシピに連れ、時代が求めるレシピは変化し続けています。そしてレシピのクリエイターである料理研究家も変化し続けています。その流れを社会学的に分析した久保明昇「家庭料理という戦場」に引用されていたので本書にたどり着きました。タイトルでは小林カツ代と栗原はるみをフューチャーしていますが飯田深雪、江上トミから始まる料理研究家スーパースター列伝です。「家庭料理のいう戦場」の分析からすると単なる紹介にも終わっている気もして「おなかいっぱい」にはなりませんでしたが、小林カツ代をアーティスト、栗原はるみをアイドルとする見立てはさすがだと感心しました。料理研究家という存在がビジネスだとしたら、そこにはマーケティングがあることは自明です。ここに書かれている数々の料理スターが、フィリップ・コトラーいうところの製品中心のマーケティング1.0、顧客重視のマーケティング2.0、ソーシャルなマーケティング3.0、そして自己実現のマーケティング4.0に至る流れとシンクロしているように思えます。ビーフシチューという同一のレシピに各料理研究家のコアの進化を見出そうとする試みには興奮しました。そういう意味では今、料理研究家ではなく料理家という自称が増えていること、前述したクックパッドのようなコンシューマージェネレイテッドなアプリの隆盛は、料理も自己実現の世界に突入しているということなのでしょう。きっと。