水村美苗のレビュー一覧
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非常に読み応えのある作品だった。
主人公津田はいつまでも自分の人生を正面からぶつかろうとしない態度、
素直な感情の発露よりそれと同時に現れる下らない理性による体面ばかりを気にする態度によりどうしようもない人間となってしまう。
津田の妻であるお延も初めはそんな主人を無理やり信じながら(心のどこかで疑っていたが)生きてきたが、津田の元恋人の存在に気づき、
半狂乱におちいる。しかしながら、最後には生きていく決意を見出す。
漱石は女性を描くことに関してはあまり評判は良くなかったが、水村氏はとても肌理細かく女性の揺れる心を表現したと思う。
漱石の『明暗』のあとを引き継ぐ名作であった。 -
Posted by ブクログ
読みたかった物語がここにはある。久々に恋愛で胸がぐっと来る。冒頭作者は偶然聞いた「小説のような話」が天からの啓示のように日本語で書かれた「近代小説」を書きはじめたとある。そしてそれに続く「本格小説の始まる前の長い話」で物語の主人公となる男東太郎との出会いと12歳で渡米して以来半生を送ったニューヨークで聞く彼の話が作家の私小説的な物語の中で書かれている。そして後の物語への伏線となっている。カルフォルニアの大学で働く彼女の元に一人の若い男加藤祐介が尋ねてくる。「東太郎」の話がしたいと。そして彼から聞いた「本当の話」こそ真の小説のような話であり、日本近代文学の元となった嵐が丘のような作り話という「本格小説」を書こうとして作家には「真実の話」は作り物めいてくると書いている。この話のどこまでが真実でどこからが作り話なのか、作家はここで読み手を翻弄しようとしている。加藤祐介は偶然軽井沢の古ぼけた山荘で東太郎と「わたしは女中です」という初老の女土屋冨美子に出会う。土屋冨美子によって東太郎とその恋人よう子の話が語られる。戦後まもなく女中として働くことになった宇田川家、その奥様の実家三枝家、その隣の重光家、といったお金持ち。宇田川家の持つ借家に住む極貧の家族の中で虐げられていた少年東太郎。華やかな三枝家の3姉妹の意地悪い仕打ち。幼なじみの少年と少女は秘かに二人だけの世界を育んでいく。やがて訪れる別離、引き離されても思いあう二人が起こした事件、その結果互いに深い傷を負い東太郎はアメリカへと去っていく。残されたよう子は王子様のような重光家の息子と結婚する。仲睦まじく暮らすよう子達のもとにアメリカンドリームのように成功した東太郎が現れる。お金持ちのお屋敷、軽井沢、令嬢と貧乏人、それは遠い昔家にあった「女学生の友」とか堀辰雄とかの小説のようであり、最近流行の昼メロの様でもある。懐かしいような気分と共に思わずのめり込んでしまう魅力的な世界が広がる。帰ってきた東太郎に対する冨美子の冷たい言葉、何故こうまで彼は冷たくされるのか、孤独な彼の凱旋に涙が出る。でもそれは私が恋愛偏差値が低いせい、そこには悲しい別の思いがあったから。それが最後まで読んで漸くわかるのだから完全に鈍いのだろう。途中何枚もある軽井沢の風景は物語を彩ると共に、もしかしたら今もあの重光家と三枝家の別荘は旧軽井沢に残っているのではないか、この風景の中に本当にあるのではないかと想像させる。また、「本格小説が始まる前の長い話」もアメリカで計らずも生きることになった姉妹の物語として、東太郎の成功と対照的な家族の結末は皮肉に感じる。
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NHKの朝ドラみたいな物語で、とてもよかった。朝ドラを見たことないのでなんとなくのイメージだが。
内容としては日本の階級社会とイエの盛衰を背景に、身分違いの恋愛と悲劇を描いたもので、大衆的な通俗小説の物語ではある。が、水村の卓越した文章や構成、明晰すぎる小説の形式性などでただの通俗小説とは思えない読後感がある。
のだが、問題は上巻に書かれた長い前書きである。
これは文学的かつ批評的な仕掛けで、多くの読者を獲得するには邪魔だろう。せっかく物語だけで充分におもしろいのに、なぜこのような仕掛けを施してしまうのか…と思えるが、これが水村の自意識なのである。ベタに物語を記すだけではなく、どうしても批評的な視座が介入してしまう。
そのような意味でいえば、水村は優秀な作家ではないと思う。優れた純文学作家は、ベタにも読めるが批評的にも読める物語を書く。
しかし水村は、「批評的にも読める」部分を物語の外側に別に置いてしまう。だからわかりやすいといえばわかりやすいのだが、おそらく水村の資質は物語作家としての才能のほうに突出しているので、すこし残念な選択といえば選択である。 -
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「上」に書きましたが、こちらは本当に惹きつけられました。
「日本には宗教がない。その代わりに日本文化というものがある」
アメリカ人のケヴィンが「失われた日本を求めて」プロジェクトを立ち上げたように、「日本文化」の良さを理解している人、なくならないように願っているのは、日本人よりむしろ外国人(あるいは外国に暮らす日本人)なのではないかと思います。
「もし日本に戻るとすれば、ついに戻るべき故郷に戻った…昼は日本のお日さまに優しく暖められ、夜は日本のお月さまに静かに慰められ、日本の山に囲まれ、日本の風に吹かれ、日本の小川の瀬音を聞き、もうこのまま死ぬまで日本を絶対に離れない、そして死んだときには自分の身体は白い煙となって日本の空に昇り、骨も徐々に朽ちて日本の土に還る。何千年前、あるいは何万年前から日本列島の住民の骨が徐々に朽ちて日本の土に還ったように、自分の骨も日本の土に還る―と、はっきりと実感できるときに戻りたい」
ブラジルで生まれ、「ちゃんとした日本人に育ててほしい」という実の父親の気持ちを託された夫婦により育てられた貴子の気持ちを思うと、胸を締めつけられる思いがしました。
私が日本語を教えた日系ブラジル人の女の子は、もうブラジルに戻りたくない、と言っていましたが、一度は訪れてみたくなりました。
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Posted by ブクログ
『続明暗』を著すというプロジェクトを遂行した水村美苗さんあっぱれだな。しかし読者としては『続々明暗』もほしくなる。それほど、人物たちが生々しく、その後の人生が気になる。
「津田は何時まで経っても女がそんな風に手前勝手に遣れるという事実に馴染めなかった。」
→男女がどうというより、津田は、自分自身も手前勝手に遣れると思ってない人なんじゃなかろうか。自分は女に対しては遣れる、小林に対しても遣れる、でも吉川夫人や父など、対すると自由に遣れない相手、自然となされるがままになってしまう相手がいて、さらに複雑なことに、それでも自分は一人の自立した男だから自由に遣っていると、そう思っているんじゃないか。人は自分では何も決められないという原理があると無自覚に思っていて、あるときにはそれに甘え、あるときにはそれを嘆きして生きているのではないか。
清子もお延も、津田に対して抱いている「お前なんやねん」ポイントは結局同じであったと思う、「本気じゃないんじゃん」と。そして漱石の描いたのよりいささか英雄的になっていた小林が津田に言ったことも、「お前さん真剣になったほうがいいよ」ということだった。津田って人は、見方によっては真面目だし正直だし親切とも言えるのに、「勤め人」「兄」「夫」といったラベルを剥いで丸裸にして全方向から光を当てたらその正反対になり、さらにその核に確たる悪意すらないというつまらない人だ。私はそれが自分のことのようにわかるのでそこばかり見ちゃうけど、下記に引用した“津田による清子評”のように、ちゃんとそこを超越できている人が読んだら、くっだらねえやつの一言で済むのだろうか。
「津田から見た清子という女は、男子さえ超越する事の出来ないあるものを津田の前へ現れたその日から超越していた。或いは始めから超越すべき墻も壁も有たなかった。始めから囚われる所の少ない女だった。従って彼女は日々の生活の中では世間の道徳を踏み外すことはなくとも、それを自分の信条として重んずるところもなかった。」