太田浩一のレビュー一覧
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ネタバレアルヌー夫人に冷たくされてはロザネット(高級娼婦マレシャル)の方へ、ロザネットに愛想をつかしてはダンブルーズ夫人の方へと、フレデリックはまるで「1848年のピンボール」のようだ。
八方美人の高等遊民=フレデリックは二人の女を手玉に取って、いっぱしのドンファン気取りだ。/
【ある日、たまたまフレデリックが自宅にいると、女ふたりがほとんど同時に訪ねてきた。母親が来ることになっているからと言って、マレシャルを外にだし、ダンブルーズ夫人には隠れてもらった。
やがて、そうした嘘が愉しく思えてきた。いっぽうの女に誓ったばかりのことを、もういっぽうの女にくりかえす。双方におなじような花束を贈る。ふたりに同時に手紙を書く。で、ふたりの女をあれこれ比較してみる。─そうしたときでも、もうひとりの女性が脳裡から離れなかった。その女性を自分のものにできないことが、こうした不実な行為を正当化した。しかも、ふたりの女を交互にあざむいていることがいっそう快楽をかきたてる。どちらの女も、騙せば騙すほど、ますます自分を愛してくれる。あたかも、ふたりの女はたがいに愛を煽りたててはげしく張りあい、もういっぽうの女を恋人に忘れさせようとしているかのようだった。】(本書。【】内、以下同様。)/
あくまでも、フレデリックにとってはマレシャルやダンブルーズ夫人はふたりの「女」であり、「女性」と呼べるのは風に靡かぬ花、アルヌー夫人だけなのである。/
◯繰り返される「頭髪」と「塵埃」のモチーフ:
蓮實重彦が『『ボヴァリー夫人』論』で指摘していた「頭髪」と「塵埃」のモチーフが、なんと『感情教育』でも描かれていてびっくり!凄いな蓮實先生!
ひるがえって、映画ではこの「頭髪」と「塵埃」のモチーフがどのように描かれているのかを、がぜん確認してみたくなって来た。/
《ここでの「塵埃」と「頭髪」という主題が初期の習作から後期の傑作にいたるまで一貫して特権的な意味作用の磁場をかたちづくっており、作者も充分すぎるほど意識的にその語彙を選択しているという事態が存在するからである。さらにいうなら、(略)砂漠の隠者アントワーヌや『感情教育』の主人公にとどまらぬフローベールの多くの作中人物が、「塵埃」と「頭髪」という語彙とそれらが喚起するイメージに憑かれており、エンマやシャルルもそうした一人にほかならないからでもある。》(蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』上 Ⅵ 「塵埃と頭髪」 /ちくま学芸文庫/2026年)/
◯「塵埃」のモチーフ:
【たいてい、ふたりは屋外の階段のうえで語りあった。眼前には、秋のおとずれで黄色く色づいた木々の梢が、不揃いな突起となって蒼白い空のへりまでつづいている。並木道のはずれに離れ家があって、そこへいっしょに行くこともある。家具といえば灰色の布張りの長椅子が一脚あるばかり。鏡には点々と黒い斑点がつき、壁は黴くさかった。─ここで、ふたりは自分たちのことや他人のことを、そして、思いつくままにありとあらゆることを、時の経つのも忘れて語りあった。ときおり、鎧戸のすきまからさしこむ陽ざしが、さながら竪琴の弦のように天井から床の敷石にかけていく筋もの線をえがき、そうした光の縞のなかを埃がゆるやかに舞っている。夫人は手をのばし、その光の縞を切っておもしろがった。】/
このくだりから、「後光」を想起した。
・「後光」:
暗い環境、たとえば厩や納屋、森などで、木漏れ陽や戸の隙間から漏れ入る光などを背にした対象人物を、その人物と光の来る方向に向かって仰ぎ見れば、空気中に散乱する埃によるチンダル現象で、その人物に後光が出現するだろう。/
これに対して、『ボヴァリー夫人』の「塵埃」のモチーフを描いた文章は次のとおりである。
《エンマはまた腰をおろして縫い物をつづけた。白木綿の長靴下をつくろっているのだった。彼女はうつむいて針を運んだ。黙っていた。シャルルも黙っていた。ドアの下から吹き込む風が石畳の上にかすかなほこりを立てた。シャルルはそのほこりが床を走るのを見ていた。彼の耳には、こめかみが脈を打つ音と、遠くの庭先で卵を産む雌鶏の鳴き声しか聞こえなかった。エンマはときどき両方のてのひらを当てて頬を冷やし、それからこんどはそのてのひらを大きな薪掛けの鉄の頭で冷やすのだった。》(前出の蓮實『『ボヴァリー夫人』論』より。/フローベール『ボヴァリー夫人』(山田? 訳/河出文庫/2009年))/
◯「頭髪」のモチーフ:
【夫人は母親のようにフレデリックの額に接吻した。
それから、夫人はなにかを探しているようなそぶりを見せ、鋏を貸してほしいと言った。
櫛をはずすと、白い髪がばさりと垂れた。
夫人は荒あらしく鋏をいれ、長い髪のひと房を根もとから切りとった。】/
次に『ボヴァリー夫人』の「頭髪」のモチーフを描いた部分を引用しよう。
《翌日、シャルルは青葉棚の下のベンチへ行って腰をかけた。日の光が格子のあいだからふりそそぐ。ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素馨の花はかおり、空は青く、咲き乱れた百合のまわりに芫菁(はんみょう)が羽音をたてている。そしてシャルルは、そこはかとない恋の香に切ない胸をふくらませ、まるで青年のようにあえいだ。
七時にベルトが夕飯に呼びに来た。昼過ぎから父親の顔を見ていない。
父親はあおむけに頭を塀にもたせ、目を閉じ、口をあけて、長い黒髪のひと房を両手に持っていた。
「おとうさま、いらっしゃいな!」
そして父親がわざと聞こえないふりをしているのだと思って、ベルトはそっと突いた。
彼は地面に倒れた。死んでいた。》(同前)/
フレデリックはやっとのことでアルヌー夫人との逢引きの約束に漕ぎつけるも、
アルヌー夫人は訪れず、なんと革命が勃発してしまう。/
【突撃の太鼓が打ち鳴らされた。するどい叫びがあがり、勝利の歓声がわきおこる。群衆は波うつようにたえまなく揺れうごいている。びっしりとおし寄せる人の波にはさまれ、フレデリックは身動きできずにいたが、こうした光景にすっかり魅了され、われを忘れてうち興じていた。負傷して倒れる者がいても、死者がそこかしこに横たわっていても、ほんものの負傷者、ほんものの死者とは思えなかった。まるで芝居でも観ているような気がしていた。
─中略─
歩兵部隊は姿を消していて、衛兵隊だけで詰所をまもっている。向こうみずな連中が玄関まえの石段にどっとおし寄せた。これらの人びとが倒れると、たちまちべつの一団がやってくる。
─中略─
建物のいたるところから煙が噴きだした。(略)欄干の小柱のあいだから、するどい音をたてて大きな炎がたちのぼる。パレ=ロワイヤルの二階にはいまや国民衛兵があふれていた。広場に面した窓という窓から、銃が火を吹く。弾丸が空を切ってとびかい、壊れた噴水からながれだした水が血と入りまじって、地面に水たまりをつくっている。】/
なにせフランス革命という圧倒的なスペクタクルがあるので、たしかに面白さでは断然『感情教育』の方かもしれないが、僕の心にいつまでも刺さって抜けないのはシャルル・ボヴァリーの「痛み」の方なのだ。 -
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ネタバレ小説自体は読むのは三度目(新潮文庫の生島訳と河出文庫の山田訳は既読)。この翻訳はとても読みやすかった。
読み終えるのに1ヶ月ほどかかった。中盤の農業共進会までに5日くらい、その後しばらく放置してたまに少し読み、ロドルフと懇ろになって以降最後までを3日で。
集中すればもっと早く読めただろうが結果的にはこのペースでよかった気がする。エマの死後、シャルルの回想に現れる、まだ結婚する前のエマを彼と同じように懐かしむことができたのは時間が空いたからこそ得られた効果だったと思うから。
覚えているところと、すっかり忘れていたところがあった。
中盤まではよく覚えていた。ロドルフの逃走やレオンの尻込みは、忘れていたけれどまあそうなるよな、と予想の範囲内。
すっかり忘れていて度肝を抜かれたのが、服毒後のエマの様子。嘔吐、痙攣、せん妄。長々と続く苦悶の描写は鬼気迫る。軽くホラー入ってる。醜い盲人の歌を聞きながら事きれるのは残酷。エマと仲よくしていた女中が、死んだ彼女の衣装を盗んで男と駆け落ちするのにリアリズムを感じる。
シャルルは死に、両親を失った娘は生活のため工場勤めに出る。寒々しい終わり方。一方で、ボヴァリー家以外の人たちの生活はエマの死に何の影響も受けず淡々と続いていく。シャルルの落胆と比較してロドルフは平然としているし、登場しないレオンも結婚でもしてうまくやっているのだろう。
エマの死は悲劇だったけれど、世界に何の影響も及ぼさないし痕跡も残さない。彼女の死にも悲劇にも、意味なんてない。そういう冷徹さが、露悪的でなく、不快に転じず、現実的な説得力を持って描かれているところがこの小説のすごいところだと思う。 -
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読み終えるまで大分時間がかかったが、読み終えて読んで良かったと思える本だった。エマのシャルルに対する背信的な情事がいつ発覚し結末を迎えるのかと思いながら気の重さを感じながら読み進めるのだった。やはり読後はやるせない寂しさがどうしても残る。
しかし多彩な描写や豊富な語彙に引き寄せられ読書本来の楽しさや学び、恩恵を感じ取る事が出来た。
後書きで参考となる実話が存在した事を知り、この小説が発表された時、フランスの品位を貶めるのではないかと裁判沙汰になる程センセーショナルな存在になったと、それも理解出来そうである。
フランスにはフローベールという偉大なというか特異なというか作家がいて、その代表作を読んだという満足感や達成感みたいなものを感じた次第である。 -
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やっと、『ボヴァリー夫人』にたどり着いた!
これも、「『ボヴァリー夫人』のここが読みどころ! 訳者・太田浩一さんを迎えて」のイベントのおかげだ。/
だいぶ前にサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の一、二巻を読んだが、実はそのときはフローベールの作品を一作も読んでいなかった。
今思えば、なんてでたらめな読書をしていたのかと悔やまれるが、そんなわけで、今度『家の馬鹿息子』を最初から読み直すにあたっては、どうしても事前にフローベールの作品を読んでおきたかった。
以前、『三つの物語』だけは読んでいたのだが、やはりそれだけではなんだか足りないような気がしていた。
ちょうどそんなところへ、今回のイベントの情報を耳にしたので、渡りに船と飛び乗ったわけだ。/
この圧倒的な読み心地の良さはいったいどこから来るのだろう?
訳者:フローベールは、音読にたえるような文章を理想としたので、訳文もそれを心がけた。登場人物の性格を反映したセリフ。
これぞ、ミシェル•ビュトールが『レペルトワール』で言っていた「それぞれの声が聞こえて来る文章」だ。/
【シャルルとしては、なぜ自分がいそいそとレ・ベルトーへ通うのか、深く考えてもみなかった。
─中略─
エマ嬢はいつも玄関の階段のいちばん下の段まで見送ってくれた。馬がまだ用意されていないときには、その場に立って待っていた。別れの挨拶を交わしてしまうと、たがいに話すことはなかった。戸外の空気が彼女をつつんで、うなじのほつれ毛を乱したり、腰の上でエプロンのひもをなびかせ、吹流しのようによじれさせたりした。あるとき、ちょうど雪解けのころで、庭の木々の樹皮は水を滴らせ、屋根の雪はとけだしていた。エマ嬢は戸口に立っていたが、日傘をとってきてそれを開いた。玉虫色の絹の日傘に陽光がさし込んで、顔の白い肌がゆらめく反映で染まっていた。暖かい陽気に、傘の下で娘はほほえみを浮かべている。日傘の、ぴんと張ったきらめく絹地の上に、ぽつりぽつりと滴の落ちる音が聞こえていた。】(本書。【】内、以下同様。)/
◯ロシア・フォルマリズム の異化と恋愛:
《生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、》(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』)/
上に引用したのは、ロシア•フォルマリズムのシクロフスキーの「異化」の方法だが、日常生活を「異化」して生の感覚を蘇らせるもう一つの方法がある。恋愛である。/
【ロドルフは少し先にある小さな池のほとりにエマを連れていった。青浮草が池の面に緑の色をひろげていた。枯れた睡蓮が藺草のあいだにじっと動かずに浮いていた。(略)
「ああ、ロドルフ!‥‥‥」男の肩に身をもたせかけて、若い女はかろうじてそう言った。
ラシャのドレスが男のビロードの上着に絡まった。エマはため息を押しころして白い首筋を反らせた。そして意識が薄らぎ、泣きぬれて長ながと身を震わせながら、手で顔を覆って身をまかせた。
宵闇が迫ってきた。枝のあいだからもれる沈みかけた夕陽がエマの目にまぶしかった。(略)あたりは静まりかえっていた。(略)エマは心臓がふたたび鼓動しはじめ、血があたかも乳の流れのように体内をめぐるのを感じた。】/
エマはひたすら情人に愛を求め、着飾り、装飾品を買い集めては、ついに破滅に至り服毒する。
もちろん、すべてエマが悪いのだ。
だが、そんなことを言ってみたところでいったい何になるだろう?
エマはこのように生きてしまったのだ。
フローベールは、死にゆくエマの最後の瞬間を異様な熱心さで描写する。
まるで、彼はこう言っているかのようだ。/
《もちろん生涯はひとつの崩壊の過程である》(フィッツジェラルド「崩壊」/フィッツジェラルド作品集 (3)/渥美昭夫、井上謙治訳/荒地出版社/1981年)/
【シャルルが入ってきたが、ふたりは目をさまさなかった。妻に最後の別れを告げにやって来たのだった。
─中略─
月の光のように白い繻子のドレスの上で、きらめく波紋が震えていた。エマの姿はその下に隠れていた。シャルルには、エマが自身の外へ拡散していくように思われた。そして、周囲をとりまく事物のなかに、夜のしじまのなかに、吹きすぎる風のなかに、たちのぼるしっとりとした香気のなかに紛れ込んでいくような気がした。
やがて、ふいにエマの姿が目に浮かんだ。トストの家の庭の、茨の生垣のそばのベンチに腰をおろしている。かと思うと、ルーアンの街なかに、いまの家の戸口に、レ・ベルトーの庭にその姿があった。(略)
こうしてシャルルは、長いあいだ、過ぎ去ったすべての幸福を、エマのおりおりの物腰、しぐさ、声音を思いうかべていた。悲痛な思いは、あたかもおし寄せる上げ潮のように、次から次へと際限もなく胸につきあげた。】/
おかしい。何か変だ。
普通の恋愛小説なら、ヒロインの悲劇的な死で物語は終わるはずだ。
フローベールは、なぜエマの死後のシャルルや人々の後日譚にページを割いたのだろうか?
物語は、シャルルの死を待ってようやく終わりを告げる。/
ゴキブリ亭主としては、悲劇のヒロイン:エマよりも、エマに裏切られても、そんなこととはつゆ知らずエマを愛し続けるシャルル•ボヴァリーの姿に、どうしても身につまされてしまうのだ。
「シャルル•ボヴァリーは私だ」。/
ここに至って、シャルル•ボヴァリーの姿は、奥様の娘ヴィルジニーを愛し、甥っ子のヴィクトールを愛し、おうむのルルを愛して死んでいった『三つの物語』の「純な心」の女中フェリシテの相貌に酷似してくる。/
これでようやく、サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』を読む資格を得たような気がする。 -
Posted by ブクログ
モーパッサン傑作選の三冊目であーる
うん、ほんとに傑作ぞろいでしかもめちゃくちゃバラエティ
光文社仕事できすぎやしないか?
いや違うな訳者であり選者でもある太田浩一さんか偉いんだな
訳文もめちゃくちゃに読みやすいし
あ、でもやっぱりそんな太田浩一さんを選んだ光文社が凄いんだな
と言うわけで光文社の手先としての仕事を存分に果たしたところで、モーパッサンであーる
あのヒゲのおっさんであーる
ほんとにねどの短編も面白かったのよ
んでやっぱりモーパッサン頭おかしいわと思ったね
で、モーパッサンはほんとに精神疾患を患い自殺未遂とかもしてるんで、軽々しく扱えないんだけども
やっぱりなんていうかこういう脆さというか危うさを抱えた人だからこそ、人間の卑しさとか愚かしさみたいなところに焦点をあてた物語が書けたのかななんて思っちゃうよね
さぁ次は『女の一生』を再読するかな?
それともフランスが産んだもうひとりの自然主義の巨匠エミール・ゾラでも行ってみる?
あるいはガラッと変えてロマン主義の文豪アレクサンドル・デュマもいいかな?
フランス文学、面白いわ〜
追記)今、宮部みゆきさんの『火車』を読み始めたのだが、冒頭で『椿姫』が出てきました
凄い偶然Σ(゚Д゚)
というわけで次のフランス文学はアレクサンドル・デュマ(息子のほう)に決定や!
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・翻訳がすばらしい。とても読みやすい&わかりやすい。
・「オリーヴ園」がとくによかった。
・ハイライト:
いまだって、わたしの横でやきもちをやいていらっしゃるのではありませんか。それはわたしを自分のものにしたいからではなく――そうならば、こちらも拒んだりはしなかった――わたしをぶざまな姿にしたいからなのです。
まあ、この劇場を見てみたまえ。ここには、われわれが創りだした人間世界がある。永遠の運命をつかさどる神が知りもせず、予想もしなかったものだ。われわれの精神だけが理解しうる世界だ。この、しゃれた、官能的で知的な娯楽は、不満と不安をもつ小動物である人間だけのために、人間だけによって発明されたのさ。
世紀にもわたって蓄積されてきた、あらゆる人間の複雑きわまりない願望が生みだした、風変わりで不可解な存在なのだ。われわれの願望は、神のさだめた当初の目的から逸脱し、おぼろげに見えはしても捉えることのできない、神秘的な美をめざしてさまよってきた。だからこそ、もっぱらわれわれの夢想のために開花する女たちがいるのだろう。観念的なぜいたく品である詩情、媚態、美的魅力といった、文明からあたえられたそうしたものをことごとく身につけた女性たちがいるのだろう。女性というこの生身の彫像は、われわれの官能的な情熱からだけではなく、われわれの精神的な欲望から生まれたものでもある。 -
Posted by ブクログ
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
Σ(゚Д゚)
なんだ…モーパッサンか…
奥さんに怒られてるのかと思った
「もう!父さん!」
はい、コツコツ光文社古典新訳文庫のお時間です
今回はモーパッサンの『脂肪の塊』です
おフランス文学ざます
ボンジュールマドモアゼール
シャトーブリアーン
フランクシナトラ―ン
ざます
実はこの『脂肪の塊』は先日読んだ月村了衛さんの『半暮刻』に登場する一冊なんです
主人公のひとりが過去に犯した罪と向き合い更生への道を歩み始めるきっかけとなった、物語の中で非常に重要な位置を占める一冊なんですね
ほんまかいな?
まぁまぁ酷いことやってます
刑務所にも入ってます
最終的には暴力団員です
それがこのモーパッサンの中編読んだだけでぐわわわ―んてなる?
ほんまかいな?
と思ったら自分で読む!
まずは読む!読んでみるざます!
こういうところよね
ひまわりめろんさんの凄いところは
すぐ読むもの
ほんと見習ってほしい
全日本国民に見習ってほしい
で読んだ結果
ある!
これはワンチャンあるで!
ぐわわわーんなるで!
そのぐらいのパワーをもった作品でした
もうなんかふつふつと湧いてくる感じ?(仏国とかかってます)
血がたぎる感じよ!ムガー!
これは読んでみてほしい
『半暮刻』に★5付けた人は特に読んでみるべきざますよ!
わかった?
ウィー!ムッーシュ!(声を揃えて) -
Posted by ブクログ
ついに…読み終えてしまった…!めちゃくちゃにおもしろくて、素晴らしい作品…
①ダンブルーズ氏の葬式における描写。
・フローベールの死に対するあっけない滑稽な描きかた。『ボヴァリー夫人』でも死人の扱いはさっぱり、淡々と扱う。死にゆくまでの肉体的な苦しみは丁寧に描くものの、死そのものに対する厳かな目線はない。
「小石まじりの土がかけられた。これでもう、だれひとりとしてこの男のことなど気にかけないのだろう。」
という文章に見られるように、死んでしまえばおわり、という達観した死生観がみられる。⇔だからこそ、生きている間の滑稽なまでの生にしがみつく動き、がおもしろい
・葬式の「形式」を批判。参列した人はみな葬式のことなんてこれっぽっちもわかっておらず、口ぐちに俗物てきな話ばかりしている。
②フレデリックのアルヌー氏化
フレデリックはアルヌー夫人に恋をし、はじめはそんなアルヌー夫人を妻としてもちながら外で遊び歩いているアルヌー氏を軽蔑している。しかし物語がすすみ、アルヌー夫人と思い通りの関係になれないと、むしゃくしゃして他の女性に手をだしてしまう。
まずフレデリックが手を出すのが、ロザネットだ。ロザネットは、もともとアルヌー氏の愛人だった。フレデリックはアルヌー氏への当てつけの意味もあり、ロザネットと関係を持つ。
その後も故郷のルイーズや、上流階級のダンブルーズ夫人など、さまざまにタイプのちがう女性にあっちへこっちへ気がおもむくままに手を出す。結局、四人の女性の間で身動きが取れなくなるが、フレデリックが最後に出会い、最後まで想いを寄せていた相手はアルヌー夫人であった。これはアルヌー氏も同じである。
しかし決して、フローベールはそんなフレデリックやアルヌー氏を非難しているとは思えない。
「どれほど心を開いたうちあけ話でも、相手にたいする気がね、思いやり、憐憫の情などから、かならず口にだせないことがあるものだ。相手の、もしくは自分の心のなかに懸崖や泥沼を見いだして、それ以上さきへ進むことができなくなる。話したところでとうてい理解してはもらえまいという気持ちになる。どのようなことであれ、それを的確に言いあらわすのは至難のわざだ。人と人との理想的な結びつきがめったに見られないのも、そのためである。」
から見られるように、人と人が一対一で完璧につながり合うことなど不可能であるのだ。フレデリックも、アルヌー夫人に寄せた恋心は本物であるが、相手が既婚者なため理想的な関係にはなれない。ほかの女性でも、ここはよくてもあそこは欠点だというように、完璧に好きになることができない。それが人間関係の当たり前のことだと、フローベールは理解していたのだろう。
それでも、最後にはアルヌー夫人と再度恋心を確認し合う、しかしその時にはアルヌー夫人の白髪をみて、フレデリックは一瞬幻滅してしまう。恋というもののもろさを暴き出し、そして最後にはデローリエとふたり、まだ恋というものを知らなかった、夢見ていたころ、友情こそが第一だったときを思い出して「あのときがいちばんよかった」と語り合うのだった。 -
Posted by ブクログ
9月9日に日仏会館で開催されるイベント「日仏の翻訳者を囲んで」 (講師:太田浩一)に参加するために読んだ。
また、サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』を読む準備としての意味もある。
この物語はフランスの二月革命(1848年)頃を時代背景としているので、その時代の予備知識を補うために『クロニック世界全史』を読んだ。
以前からフランス革命には興味があったので、当時の世相の一端を知ることができるこの物語は、まさに一粒で二度美味しい作品だ。/
大学入学資格試験(バカロレア)に合格したばかりの青年フレデリックは、美術商アルヌーと知り合い、その夫人に心惹かれる。/
◯「人間の欲望は他者の欲望である」(ジャック・ラカン):
だとすれば、アルヌー夫人への欲望の前には、必ずやアルヌー本人への憧れがなければならないだろう。
あった!あった!
【男は共和政の支持者だった。各地を旅行したことがあり、劇場、レストラン、新聞社の内情につうじていた。著名な芸術家のことごとくと知り合いで、かれらを気やすくファーストネームで呼んだりもする。フレデリックが将来の計画をうちあけると、男は激励のことばをかけてくれた。
─中略─
フレデリックはある種の尊敬の念をおぼえ、どうしても男の名を知りたくなった。男はひと息に答えた。
「ジャック・アルヌー。モンマルトル大通りで〈工芸美術〉という店をやっています」
─中略─
〈工芸美術〉は絵を売買する店で、絵画新聞も発行していた。フレデリックはその店の名を地元の書店でなんどか目にしたことがある。かなり大判のパンフレットに、ジャック・アルヌーの名前が麗々しく記されていた。】(本書。【】内以下同様。)/
【一瞬、まぼろしがたち現れたのかと思った。
その女性はベンチの中央にひとり腰をおろしていた。というより、その人の投げかける視線がまぶしくて、ほかの人の姿が目に入らなかったのだ。前を通りすぎようとしたとき、女性は顔をあげた。フレデリックは思わず身をすくめた。少し先まで行き、ようやくその女性を横から見ることができた。
大きな麦わら帽をかぶり、帽子につけられたピンクのリボンが風にあおられ、ひらひらと背後にはためいていた。まんなかで分けた黒い髪は、長い眉の端をふちどり、ずっと下のほうまで流れるようにつづいて、卵形の顔をやさしく包みこんでいるかのようだ。小さな水玉模様の入ったあかるいモスリンのドレスが、多くのプリーツを見せながら裾をひろげている。なにか刺繍をしているところだった。まっすぐのびた鼻すじ、顎、そして全身が、青い空を背景にくっきりと浮かびあがって見えた。】/
この辺りの展開は、以前読んだレイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会
』とそっくりだ。
あそこでも、主人公のフランソワは、まずドルジェル伯と親しくなり、しかるのちに夫人に恋をする。
まさに、ルネ・ジラールの「三角(形)的欲望論」※そのままだ。/
※ ルネ・ジラールの「三角(形)的欲望論」:
《ジラールの模倣(ミメーシス)的欲望論は,(略),人間の欲望が他者の模倣であるという仮定から始められる。そして,その根幹には,三角形的欲望という概念が存在する。
ー中略ー
欲望とは自分自身の心の奥底から自発的に引き出してくるものではなく,他者から借用してくる ものである。つまり,他者が主体に対して模倣する欲望を媒介するのだという。 そして,その関係性は,欲望する主体と欲望を引き出す媒介,そして欲望の対象という三角形の図式となる。これをジラールは「三角形的欲望」と表現する 》(松 平 功「ルネ・ジラールにおける模倣(ミメーシス)的欲望論とキリスト教」より。)/
◯『ボヴァリー夫人』と『感情教育』:
読んでいると、どうしても先日読んだ『ボヴァリー夫人』と比べたくなってしまう。
・生活、風俗:
『ボヴァリー夫人』が田舎の生活や風俗を描いているのに対して、『感情教育』ではパリという大都会の生活・風俗が描かれる。
娯楽に乏しい地方の生活と打って変わって、パリの生活は高級レストランや競馬、はたまた高級娼婦などとあくまでも享楽的である。
また、地方の免許医にすぎないボヴァリー氏と伯父の遺産が転がりこんだフレデリックとの経済力の格差もあり、ボヴァリー夫人が家産を傾けたような散財も、フレデリックにとってはほしいままにする贅沢にすぎない。/
・恋愛:
ボヴァリー夫人の生涯を賭けた悲壮感漂う恋愛に対して、フレデリックのアルヌー夫人への思慕は高級娼婦マレシャルや資産家ロック氏の娘などの他の選択肢を温存しつつ、続いて行く。(僕が想起したのは、オペラ『フィガロの結婚』などのような貴族や大金持ちの浮気やアヴァンチュールだ。)/
・作品の印象:
『ボヴァリー夫人』が悲劇的であり、運命の歯車に抗えずに破滅へと押し流されて行く「重い」物語であるのに対して、『感情教育』のほうは喜劇的であり、ブルジョワの乱痴気騒ぎのような表層的な「軽さ」が感じられる。
たぶん、フレデリックはアルヌー夫人との恋を失ったからといって、自殺したりはしないのではないか?この物語には自殺はそぐわないのだ。
もしかすると、僕が共感したボヴァリー氏の「痛み」のような切実な感情には、この物語では出会えないのではないだろうか? -
Posted by ブクログ
コツコツ光文社古典新訳文庫シリーズでござい
今回はモーパッサンの中・短編集
あー、レビューを書き始めるまではフランス文学などにはこの先も縁がないであろう輩たちのために、一番長い中編の『遺産』のあらすじやらなにやら書こうと思っていたのだが、いざ書き始めたらやはりめんどくさいのでやめる、笑う
なんていうかね、人間の愚かしさみたいなんが内包されていたような気がしないでもない
そして、当時のパリで流行ってたんかい!ってくらいハッキリとした結末を書かずに終わる作品が多い
どっちにも取れる
後はお任せしますスタイル
この後主人公は幸せになったのかそれとも不幸せになったのか?おい、筋肉どっちなんだい?
それはなかやまきんに君スタイル
そして国木田独歩が読みたくなる
もちろん独歩はムズいので気のせいということにして読まない -
Posted by ブクログ
1877年から1884年にかけての作品を収めた短編集。
なるほど、この「新訳」はとても読みやすい。新潮文庫のモーパッサン訳はやはりもう古びてしまっているのか・・・。日本語の世界がどんどん「簡単な」方向に推移してきたのだということを再確認した。
中編「脂肪の塊」は遥か昔読んだものだが、中身を全く覚えていないので面白く読んだ。ここでの人びとの娼婦に対する酷薄さは、集団心理に由来するものだろう。
エミール・ゾラは常に「破滅」への執拗な意志を持っているが、モーパッサンはそれほどでもない。同じように世間に対してペシミスティックな思いを抱いていたかもしれないが、モーパッサンには人情への肯定的な部分もときどき顕れるから、作品は多彩に感じられる。
日本で言えば明治10年代に活躍したモーパッサンを少し遅れながらもほぼリアルタイムに摂取吸収してきた日本文学との相互連関についても、いろいろ考えてみるのも楽しい。 -
Posted by ブクログ
モーパッサンによる、約150年前の短編、中編小説集。どれもとても興味深く読めたが、特に「遺産」と「パラン氏」がよかった。遺産は、夫婦と、それを取り巻く人間たちがめまくるしく変わっていくところに楽しさを感じ、落とし所がとても気になって一気に読んでしまう。一方、パラン氏の方は大きな変化はないがやはり結末がとても気になる展開。主人公の丁寧な心理描写によりより主観的に読めるからかもしれない。短編だが「難破船」も心惹かれる。手紙を受け取るところからの始まり方もいいですね。
古い小説に共通するが、本書もその時代をあじわうことが出来て良い読書時間を過ごせました。