小松和彦のレビュー一覧
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古代の御霊信仰から、現代にもつづいている「丑の刻参り」など、日本文化における「呪い」の諸相を解説している本です。
著者はこれまでも一般の読者向けの本を多く刊行していますが、本書も光文社「カッパ・ブックス」の一冊として出版されたもので、民俗学や歴史学のなかから呪いにまつわる興味深いエピソードなどをわかりやすく紹介しており、おもしろく読むことができました。
「呪い」と「祓い」のシステムが、さまざまなかたちをとりながら古代から現代にいたるまで日本文化の構造の一部を担ってきたという本書の中心的な枠組みは、『憑霊信仰論』(講談社学術文庫)以来、構造人類学的な見かたを民俗学の世界にとりいれてきた著者ならではの視点だといえるように思います。 -
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異界論のすすめ
序章 異界をめぐる想像力
第1章 反魂の秘術ー『長谷雄草紙絵巻』
第2章 源頼光と酒呑童子ー『大江山絵詞』
第3章 妖狐の陰謀ー『玉藻前草紙絵巻』
第4章 龍宮からの贈り物ー『俵藤太絵巻』
第5章 龍宮の逆説ー『浦嶋明神縁起絵巻』
第6章 天界への通路ー『天稚彦草子絵巻』
第7章 義経の「虎の巻」-『御曹子島渡』
第8章 天狗と護法童子ー『是害房絵詞』
第9章 狐の「浄土」と異類婚姻ー『狐草子絵巻』
第10章 百鬼夜行のパレードー『付喪神絵巻』
第11章 幽霊の近世ー『死霊解脱物語聞書』
終章 異界観の変容と妖怪文化の娯楽化
あとがき
文庫版あとがき -
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ネタバレ・鬼は私の関心事である。だから、小松和彦「鬼と日本人」(角川文庫)を読んだ。例の如く鬼の定義を示す。「怪力・無慈悲・残虐という属性はほとんど変化していない。鬼は、なによりもまず怖ろしいものの象徴なのである。」(6頁)かう書いたうへで、怖くない鬼がゐることを述べて、「だが、そうした鬼は、怖ろしい鬼がいるからこそ生み出された変則的な鬼であり、そこに鬼の本質を見いだすことはできない。」(同前)と言ふ。あくまでも鬼は怖いものだといふのである。本書の諸論文はこの線でまとまつてゐる。鬼は怖いものだと言ひ続ける。「留意したいのは、異形の者、無慈悲な者、人間より大きく強靱な者等々の属性が鬼に与へられるということから、それを敷衍して、さまざまなもの属性に対しても鬼という語が冠せられることがあるだろう。」(12頁)オニヤンマとか鬼監督の類である。どこまでも、鬼は怖いものなのである。だから、目次を見ると、百鬼夜行絵巻や茨木童子、酒呑童子を初めとして、怖い鬼のさまざまな生態が並ぶ。だから、「あとがき」で、「『鬼』は大昔から日本人が特定の現象や存在に対して用いた民俗語彙・民族概念なのである。」(265頁)とあるのは納得できる。ちなみに、「『妖怪』は研究者が用い出した学術用語・分析操作概念であ」(同前)るとか。つまり妖怪といふ語は新しく作られた語であるらしい。とまれ、鬼は昔から鬼であつて怖いものだつたのである。
・以上、本書を読んで納得できる人もゐるに違ひない。さういふ人の周囲には、おとぎばなしや昔ばなしの鬼がゐるだけで、それ以外の鬼がゐないのであらうと思ふ。しかし、世の中、広いのだと言つたところで、私が言ふのではなかなか納得してはいただけないであらう。しかし、それ以外の鬼がゐるのである。例へば東三河地方平野部の春祭り、ここに鬼が出る。何か所で出てゐるのか。数へたことがないので分からない。20か所ぐらゐであらうか。もつとゐるかもしれな い。これらの鬼はいづれも怖い鬼と言へるかどうか。それこそまだ何も分からない乳児はその鬼を見て泣く。怖がる。正に怖い鬼である。ところがこの鬼、ひとしきり泣かせておいてから乳児に飴やタンキリを与へる。かういふことが何年か続くと、鬼は怖くないと分かつていくのである。さう、東三河のおまつりの鬼は怖くない。例の如き鬼の風貌で、例の如く怖さうにはするが、その実、決して怖くはない。少なくとも、物心着いた人間にはあの鬼は怖くないのであると思ふ。 これは筆者の鬼に合はない。鬼には「異形の者、無慈悲な者、人間より大きく強靱な者等々の属性」があるといふ。少なくとも、その「無慈悲な者」といふ属性には合はない。形は異形であつても、東三河の鬼は無慈悲ではない。東三河の鬼が安久美神戸神明社の鬼祭の鬼から来てゐるのであれば、あるいは、からかひの最後に天狗に負けて逃げ出す時にタンキリを撒く、ここが出発点かもしれない。それが石巻神社等から広がつていつたのかもしれない。タンキリを撒き、飴を撒 く、さういふのが鬼なのである。これは、敷衍すれば幸せをもたらす鬼といふことになる。筆者はかういふ鬼について書いてない。知らないとは思へない。まだそこまで考へが至らないのであると思ふ。鬼は幸せをもたらす存在であるといふ考へは昔からあるはずである。それについて是非書いてほしかつたと思ふ。鬼が怖いものであるのは良い。それがなぜ幸せをもたらすのか。打出の小槌で大きくなれた一寸法師、その小槌は鬼の残したものである。かういふところに幸せをも たらす鬼がゐるのかどうか。あくまで本筋から外れた鬼だといふのであらうか。 -
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小学生の頃、学校から帰宅するとランドセルを放り出してすぐに
外へ遊びに行っていた。え?宿題?そんなものは知りません。
やってなくてもどうにかるという、いい加減な子供だった。
「行って来ま~す」と玄関を出る私の背に、亡き祖母は決まってこう
言った。「日の沈む前に帰っておいで。暗くなったら神隠しにあうよ」。
真剣には聞いていなかった。でも、ある日、小さな神社で友達数人
と遊んでいるうちに時間を忘れた。あたりが暗くなって来るのと同時に、
何故か怖くなって来た。
遊び場所が神社だったからかもしれない。祖母の言う「神隠し」にあって、
家に帰れなくなったどうしよう。こうなるともう遊んでなんかいられない。
普段の運動神経の鈍さはどこへやら。全速力で家に駆け戻り、半べそを
かきながら祖母に抱きついたのを覚えている。
神隠し。ある時、突然、生活圏から人が姿を消す。現代では失踪とか
家出、誘拐などの言葉に置き換えられるようになったが、昭和のある
時期までは人々はそれを「神隠し」と読んだ。
本書は民族学者が採取した各地に残る神隠し現象をひも解いた民俗学
の入門書…になるのかな。
現代ではほとんど使われなくなった言葉「神隠し」だけれど、きっと人が
忽然と姿を消す原因は昔も今もあまり変わらないだろうと思う。
ただ「神隠し」というベールに包んでしまえば、そこからは生々しさは
減少される。姿を消した原因が、間引きや蒸発であったとしてもだ。
自分たちの住む「こちら側の世界」と、神に攫われた「あちら側の世界」。
異界を設けることで辻褄を合わせていたのではないだろうか。
自殺も、誘拐も、失踪も、間引きも、「神隠し」としてしまえたのは日常の
すぐ隣に「闇」があったからかもしれない。
今ではよぼどの山間部に行かなければ闇に出会わないものな。人家の
少ないところでも、ぽつんと自動販売機があってほんのりと灯がある。
闇のなかには異界があり、時々、人を隠す。現実から目を逸らす手段
として神隠しは存在したのかな。 -
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説話や縁起絵巻等から、題材となるイメージをいくつかに分類し、それぞれの時代やモチーフから日本人の異界感を分類分析してある。
説話や昔話が好きで、軽い気持ちで読み出したので難解でした。
近代に従って、物や動物が変化した存在などの妖怪が人がそのままの幽霊になり、異界に行く話が憑依された人が語る話になったり、異形との距離がだんだん遠くなっていくのが寂しいような。
引用)このような娯楽としての妖怪文化は 、双六や玩具 、絵本などの遊びの道具やタバコ入れや印籠の根付けの装飾としても浸透していった 。それは妖怪文化の商品化ということでもあった。
江戸時代からジバニャンかな -
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内田樹さんの『呪いの時代』を読んで以来、この、現在の日本を覆う「呪詛の念」とは何なのか、ずっと気になっていた。そこで手に取ってみた本書は、妙なテーマでばかり書いている民俗学者による一冊だ。
奈良、平安といった時代に脈打った「呪い」の歴史は興味深く、マンガ家などにとってもこういう本は参考になるのだろうなと思ったが、「呪い」そのものについての著者の分析的考察は少々ステレオタイプで浅いものだった。
「呪い」は日本固有のものどころか、世界各地の未開社会に見られる。そうした「呪い」が、民の宇宙観・歴史観・宗教といかなる関係をもち、コスモスを形成するのか。デュルケームの『宗教生活の基本形態』も、話が呪術に及ぶとすぐに、これは宗教の問題ではないとして中断してしまった。そして本書も、「呪い」が社会にとって果たす機能の根源的・哲学的意味を解明してはくれなかった。
日本の場合は「公」と「私」の領域を完全に隔離してきた民族性があるので、その「私」におけるどうしようもない孤独感が、社会や他者への呪詛の念を生成するのだろうととりあえずは推測している。本書の著者は「呪うことは、人間の本性からしてどうしても避けがたい」といったおおざっぱな解釈を繰り返すばかりなのだが、その情動の炎がもはや手が付けられないほどネットを中心にはびこっている現在を、どう生きたらいいのかは依然としてわからない。 -
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今時は呪いを信じる人はいないと思いたいところだが、そうでも無く昔ながらの丑の刻詣りに似たパフォーマンスをする人がいるのである。
著者は呪うという行為が呪いをかける側の心証だけでも成立する行為だという。そして、呪う側と呪われる側の一方的な断絶した関係は、現代社会のさまざまな人間関係においても見られるものとする。
こうした現代の状況を踏まえつつ日本文化史に置いて「呪い」とはどういうものであったのか、それは現代に生きる私たちの心性にいかに継承され、投影されているのか、さらには呪いを生み出す人間の心性とは どういうものなのかなどといった問題について探っていくとするのが本書の趣旨である。
まずは、高知県に残るいざなぎ流という民間信仰での「呪い」のパフォーマンスを詳しく紹介し、日本史の中での呪いについて考察する。
その中で、日本で支配者とは、社会手段の秩序を脅かすあらゆる「ケガレ」を浄化する能力の持ち主でなければならないとする。確かにこのことで理解できる事象はたくさんある。
現代の日本でも穢れた議員さんは禊ぎを受けるのである。また、禊ぎをうけるとケガレが祓われるのである。
また、ケガレを祓うためにエスケープゴートを必要とすることもある。心が「ハレ」ないのはなになにさんのケガレのせいだからこれはなかったことにしなくては等
呪術的な発想で読み解くことができる事象も日本にはたくさんあるような気もする。
あとがきで書き残している著者の言葉も気になるところである。曰く
カタルシスのための文化が衰退するにつれて、個人の体内に溜まった「呪い心」が暴走し出しているのではないか。とすれば、日本の伝統的な呪詛法に身を任せることで、少しでも心の「しこり」を解消できるかもしれない。
存外日本では「呪い」はしぶとく生き残るのかもしれない。 -
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隣に人殺しがいても、バレなければ神隠しとして解釈され社会は存続できる。隣近所を疑いながら限界状況で生きることを防ぐ人類の知恵。
神格的な理由を付与して社会を持続させる方便、それは魔女狩りであり、サキュバスであり、狐憑きであり、気ぐるいである。
最近、陰陽屋というドラマで、問題を無理やり狐のせいにして調和を目指す話を見ましたが、まさにこれ。神話をなくした現代人はこのスケープゴートがない。それは非常につらいが、いい面もあるので一概には是非の判断はつかない。
ただ、人の想像力というものは根本的に、常に自分や、自分の延長線上の社会を守り持続させるために存在すると思った。 -
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序で神話学や歴史、文化史などの観点から「神話」をとらえ、また1~5章の内容を先取りして触れているので、読み終わった後に又序を読み返したくなる。
1章では能登の旧柳田村に伝わる猿鬼伝説を扱う。猿鬼を退治した神々の変遷を通じて「誰が」「いつ」「どのような視点で」猿鬼や諸神の物語を伝えたのか、また現代に置いてもどのように猿神伝説が伝えられ・創作されているのかを見る。
2章では御伽草子・いざなぎ流祭文それぞれで描かれる「天竺」観を探る。本朝・唐と並び称される天竺であるが、唐とどのように差別化されていたのか、仏教的要素が消えてしまっているいざなぎ流祭文ではどのように語られているのか、について論じる。
3章では戸隠奥社の燈明役が毎日行う御供について、歴史資料を引きながら探る。
4章では琵琶にまつわる怪異・伝承について、今昔物語集や文机談などから逸話。琵琶法師など民衆と琵琶との接点がなかったわけではないが(→耳なし芳一等)、貴族の楽器に留まっていたため一種の「エリート・ロア」として琵琶の怪異が語られていたのではないか、と論。
5章では異界・異人および天皇に付いて。猿鬼伝説・いざなぎ流祭文などにおける雨乞いおよびそれに伴う人身御供に注目し、異人を生贄に捧げる→異人が生贄制度を破壊し新たな位置を占める経過を描く。さらに天皇制と地域の信仰との関係(→ex.猿鬼伝説の変遷)から、「天皇という異人」また「天皇に対する異人」を考察。 -
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1992年に小学館から出版された同名ハードカバー本の文庫版。「酒呑童子」・「玉藻前」・「是害坊天狗」など、日本の妖怪伝説における著名な妖怪をを紹介し、その背景にあるものを考察する。文庫化に当たっては、ハードカバー版にあった語句の解説がカットされているほか、掲載されている図版が一部差し替えられている。
元々中・高校生向け雑誌の連載であった為、文章は平易で読みやすい。内容も比較的深い点を掘り下げていて(酒呑童子の誕生譚や、是害坊天狗・鬼女紅葉伝説の元ネタなど)、初学者が妖怪伝説を知るにはうってつけである。後半の「鈴鹿山の大嶽丸」・「宇治の橋姫」が(雑誌掲載時の都合もあってか)ほぼ伝説の紹介で終始してしまったことや、参考文献が載っていないなどの不満点はあったが、兼ね楽しめる一冊であった。 -
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歴史とは権力者=勝利者から見たものである。なぜなら権力に屈した者や排除されてきた者=敗者は歴史を残すことができないからだ。そのような敗者は歴史の中で「鬼」と呼ばれてきた。本書では,民俗学者と写真家のふたりが対談を通じて,そのような「鬼」たちこそが実は日本の文化を生み出し歴史を築き上げてきたのだと論じている。
本書では幾つかの側面から鬼について語られている。鬼とは何なのか,そして鬼は社会の中でどのような役割を果たしてきたのか。権力者に敵対し敗れた者たちは社会の周辺に排除され,やがて鬼と呼ばれるようになる。主流をはずれた彼らは独自のネットワークを築き,商工業などで力を蓄えていく。一方で権力者たちは,鬼のネットワークを利用すべく彼らとさまざまにかかわってもいく。
本書では,著者のふたりが上述のような議論を進めていく中で多くのエピソードを紹介しているのだが,それらは(今までにあまり知らなかったせいもあって)非常に興味深かった。また,本文の対談だけでなく,カラーページに収められた写真を眺めるのも面白い。ワラ人形や写真に五寸釘が打たれている写真を見たときには多少なりともゾクっとした。
しかしながら,対談集という性質上,内容にあまりまとまりがない感じがあるのは否めない。話の脱線などによって本筋が分りにくくなっている箇所や,説明が不十分に感じられる箇所も多々ある。本書の内容に関心を持った読者は,本書が扱う風俗や歴史をもう少し体系的に解説してある本へと読み進めるのが良いのかもしれない。その意味では(著者の著作目録ではなく)参考文献などが上がっていれば良かったように思う。