小松和彦のレビュー一覧
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人はどのようにして神になるのか。私の住んでいる東京にも多くの神社が存在する。その一つ一つに何らか神様が祀られていて、そして人々が願いを上述させる為にそこを訪れて祈る。都内だけでなく勿論日本全国に神社仏閣はあるので、幼い頃から何のけなしに足を運んでいた人も多いだろう。また、私が幼い頃住んでいた場所も住所が近所のお寺その名のまんまの住所だった(○○寺)。今はもう土地区画整理事業が終わって、幼い頃慣れ親しんだ住所は無くなってしまったが、自分の住んでいる住所が、その様な神社やお寺と紐づいてる方も多いと思う。日本人なら産まれた時から身近に神社仏閣があり、とりわけ意識せずとも生活の中に溶け込んでると言える
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日本の「村」に伝わってきたモノ、
それもいつごろからのものかもわからず、
とにかくずっと昔から、それも大昔から、
とにかく大事で大切なものだから、
といわれるモノ、コトに物凄く興味が惹かれる
前近代的という言葉では一蹴できない
大切な「心」がそこにはある
ここに紹介されるのは
「目に見える」藁で作られた「神様」
秋田地方で伝えられている
藁で編まれた巨大な人形道祖神さまたち
仇や思い付きだけで
「見物」に行ってみたものではなく
きちんと丁寧な「取材」を重ねて
その土地で その風俗文化を継承しておられる
方々にリスペクトの心を持って
歩いて、見て、聞いて、
一緒に 寄り添って
その「お祭り」 -
購入済み
小松さんの他の著作も何冊か読んでいますが、それらへの理解が深まるようなまさに基礎知識と呼べる本だと思います。それだけでなく本書の中でも取り上げられている水木しげるや京極夏彦の作品を楽しむ一助にもなるのではないでしょうか。
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ネタバレ日本の宗教はシャーマニズムに分類される、という言説をみて、なんだろう?と思い購入。どうも日本の呪い信仰はあまり知られていないようだ。日本の三大宗教は、儒教・仏教・神道。しかし本書を読んでみると、呪い信仰が古代日本から近代まで信じられていたことが分かる。古代に伝来した仏教は、ほとんど呪術の文脈で受け止められていた。邪悪なものが存在する「外部」(=ケガレ)を、より強い呪力で攻撃する「調伏法」や逆にたたえることで鎮める「祀り上げ」によって祓っていた。これらは国家レベルだけでなく民衆にも浸透しており、これらは現代にまで影響していると著者は語る。「ケガレ」を祓う儀礼の特徴は、いかにして目に見えない「ケガ
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近年妖怪への関心が高まっている。
本文では、憑き物、妖怪、河童、鬼、天狗と山姥、幽霊、異人・生贄、境界、などの妖怪文化を通して、日本人の生活や心境を考察している。
”妖怪”とはもともと学術用語。民俗語録としての「化物・百鬼夜行」などと同類の言葉。
日本の妖怪の認識は、学術としては井上円了や柳田国男が研究してきた。
近年は、水木しげるや京極夏彦により現在認識されている妖怪になった。
妖怪とは、要するに怪しい物や怪しい事柄。人が何を恐れるか、何を敬うか。
・現象の妖怪
⇒「誰もいない場所で音がする」などの不思議な出来事に対し、恐怖や神秘から「小豆洗い」「天狗倒し」などの名付けが行われた。
・存在 -
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おびただしい数の怨霊が発生し、それにおびえ、
またそれとの戦いを繰り返してきた都市――
それが京都であった。(p.72)
物の怪が跋扈し、恨みを抱いて死んだ者の怨念に
人々が怯えた平安時代の痕跡を辿る、
妖怪論の大家でもある民俗学者によるガイドブック。
京都を洛中(中央部=一章)、洛北(北部=二章)、
洛東(東部=三章)、洛外(洛西・洛南=四章)、
宇治・大津(京都外縁=五章)に分けて、
それぞれの歴史・曰くのある、
俗な言い方をすればパワースポットを紹介した、
京都新聞連載記事に加筆・修正した一冊。
この本を携えて、新たな視点で改めて京都を旅してみたい。
ところで、洛外「帷子の辻」の項で -
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・妖怪の学といつたら小松である。その小松和彦「妖怪学新考 妖怪から見る日本人の心」(講談社学術文庫)を読んだ。おもしろい。当然、この書での、つまり小松和彦の妖怪の定義がまづ問題になる。それは例へばかうある、「『神』とは人々によって祀られた『超自然的存在』であり、『妖怪』とは人々に祀られていない『超自然的存在』なのである。」(201頁)神と妖怪が紙一重といふのは容易に想像がつく。それは祀られてゐるか祀られてゐないかの違ひだといふのである。確かに河童神社や豆腐小僧神社、付喪神神社などといふのはなささうである。しかし、これらも祀られれ ば神になる。祀られない限りは妖怪のままである。悪さをしようがしま
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当代一の民俗学者小松先生が昔書いた文章に加筆・修正した本。
個人的に高知県物部村における「いざなぎ流」の呪詛の事例が興味深い。
科学趨勢の現代で、村の「ケガレ」(例えば病気とか災害)を「ハラウ」ために呪詛「すそ」儀礼を在村の「太夫」(呪術者)に依頼して行っていることに驚く。
主な内容は、「祓い」の視点から見たら「呪い」は人の心性に関わる「穢れ」の一種と捉えられている。
要は誰もが「呪う心」を生み出し、その心を浄化するために「呪詛」を行ったりしていたとされる。
(「呪うパフォーマンス」=心の浄化作用)
『古事談』みたいな三次史料を歴史的考察に活用してるなど若干の問題もあるが、
史料や