土井善晴のレビュー一覧
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先日読んで素晴らしかった「一汁一菜で良いという提案」の後に書かれた、そこに至るまでの料理家・土井善晴さんの経験や哲学をつづった本。本書も同様に良かった。
有名な料理家の土井勝さんの息子で、子どものころから料理を志すのが当然と考えて育った。フランス料理を学ぶためにスイスやフランスへ修行に行き、帰国し日本料理の道に進む。そこでは繊細な調和のとれた美しさや旬より早い食材が良いとされた。
テレビの料理番組に出演し、父の料理学校の後を継ぎ、町おこしレストランのコンセプトづくりやレシピ書き、調理指導など、さまざまな仕事をして感性を磨いてきた。その中で気づいたことが印象的である。例えば、
「食事とは、自分で判断し、他社との関係を健全に維持することで、人品をはかられ自身の生きていく力を育てる場になる。つまり、食事は、そもそも自立していなければ実現できないのです。」「調理場や道具をきれいに手入れしておけば、不思議なことに、仕事に追い込まれたときに道具が味方してくれ、自分(の仕事)を守ってくれていると感じるのです」などである。
一汁一菜とは、家庭料理の簡潔なかたちであり、そこが原点でもあるいっぽうで、一汁一菜さえ整えれば何とかなるという著者の考えである。本当にそうだと思うし、家で誰かが作ってくれる料理には、その人の愛情が詰まっているのだ。それを食べることの幸せをかみしめていきたい。 -
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これほどパンチ力のある本はない。これが感想だった。
ニューヨークにいて、ここまで食料を無駄にし、捨てている国はないだろう。夜仕事から帰る道すがら、凄まじい量の残飯とホームレスを見る。残飯を減らすという努力は、経済合理性の中でしか正当化されない。誰もが、寄付すればいい、お金を出せばいい、という方向性で考える。これは悪いことではなく、むしろ日本を大きく凌駕して経済発展した所以でもある。6年滞在した中国でも多めに頼んで残す文化はあるが、食材を余すところなく食べる食習慣や、チャーハンのように残り物を美味しく調理する手法もある。
さて、本書の凄さは、もちろん連載という型にハマっているため、いまいちピンとこないものもいっぱいあるが、例えば北海道の昆布は、1番最初の項目として相応しい内容だ。昆布を子供達が栄養価の高いものとして摂取し、出汁だけでなくフライで食べることで美味しく、2度も使える。家で、美味しいかおりと、音が聞こえてくるようだ。日本の食文化を作ったのは大阪で、そこに昆布が北海道から届いていたことにも触れている。英語版出したら売れるんじゃないかと思うくらい、外国人から本当に頻繁に日本食の質問をされる、なんでこんなに美味いのか、そして安いのか、丁寧なのか、美しいのか。ニューヨークの雑な日本食との違いはなんなのか。そうだ、ここにあるんだよ、と叫びたくなった。
長寿こそ勝ち残りの源、と言った家康。味噌を好み、美食は月に2度という節制、質素な思考が、天下を取らせたと言える。加賀の食事、器、その文化そのものを、鈴木大拙、スティーブ・ジョブスの禅の思考、そしてジェームズタレルの部屋まで続いてく。シンプルなものほど、その深さを感じることができる。これは日本人だけ、ということではない。むしろ、人間ならばどこかで持っているが、成長の過程で身につけない、感覚さえない人が多い。ということは、そこがストロングポイントになるんだろう。加賀百万石の文化のバックドロップは、食と自然(筆者の土井さんは、それを地球と表現されていますが)を大切にしてきたからこその美にある。
地方の美味しい食材も日本の特徴、日生の牡蠣も美味しそう。カキオコ、牡蠣を豚の代わりに入れたお好み焼き、これは美味そうだ。どこに行ってもステーキとハンバーガーとフレンチフライの国にいると、本当に素晴らしいと思います。素敵な土井さんの笑顔が美味しさを物語っている。すごく美味しそう。
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土井先生の本、好きだあ。なんてぜいたくな旅。素敵すぎる。取材なのだからスケジュールがとんでもなかったりしたのかもしれませんが、いいなあ!と思ってしまう旅先ばかり。山菜そばおいしそう。山椒やっぱり憧れだ。赤福!本葛もすごい。国産レモンありがたい。うちのレモンもたくさん実がなるといいな。お茶ゆっくり味わいたい。鰹節は職人技の結晶なのだな。長崎また行きたい。本当に、おいしいもんには理由があるのですね。末永く繋いでゆかれますように。いい本なのに、誤植というのかそういうのが多いのが残念。土井先生の本になんてことを。1583年は天保11年ではなくて天正11年だし、他にも気になったとこがあったような…でもカバーがすごい。付けても取ってもすごい。開くと楽しい。おしゃれな装丁だなあ。
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料理がつらいと常々思っていた。
家族の好物に合わせれば、自分の胃腸の調子が悪くなり、腹が張り、屁が臭くなり、便秘になり、私の機嫌が悪くなる。
逆に自分の胃腸に合わせれば、家族の箸が止まる。
なんで食べてくれないの〜!と、そっちはそっちで私の気分が悪くなる。
自分で調味料を混ぜた麻婆豆腐より、レトルト方が喜ばれるし、ちゃんとしてない気がして達成感がない。
旦那は、平日のなんもない日にステーキを食おうとする。
外食に行くと、食べたいものよりコスパを考えるようになってしまった。
なんか、料理を作る、料理を食べることについて、色々モヤモヤしてたのだ。
この本を読み、ケハレの考え方を知り、ちょっと心が楽になったし、
我が家の厨房と、私の腸内環境を操るのは私しかできないのだと気付かされた。
今後は「今日の献立地味ー」と言われても、「今日はケの日なの!」と言いきろうと思う。
以下は備忘
・とはいえ、著者提案の一汁一菜だと流石に家族にブーブー言われそうなので、左に茶碗、右に汁椀。家族の好みのおかずを一品。あとは果物を毎食1つ。
・土日にまとめて月、火までのおかずを作り、水、木のおかずは冷凍する。一品は外食などのおかずで力を抜く。冷凍や既製品をちゃんとしてないと思わない。力を抜いてるだけです!!!
・とはいっても目の間の家族が美味しそうに食べる姿をみたいので、それだけで米や酒が進むようなうまい汁を7種類作れるようになる。(2023年の目標)
・ハレの日を楽しむ。映えとか、コスパとか、栄養は気にせず、四季や風土をを楽しむ献立にする。
土井さんの真意を相当自己流に読んでしまった感がすごいが、一読目の感想は以上です。また読もう。
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料理研究家の著者の生い立ち、料理との向き合い、フランスでの料理修業、日本の「味吉兆」で学んだこと、家庭料理への向き合い方など、料理研究家土井善晴氏のエッセイ。
一言で料理と言っても、民族、生活環境などにより、食材も違えば、調理方法や盛り付け、食器、調理道具も違う。調理する側と食す側の両面から、多様な提案をされるのが、押しつけでなくスーッと心に入ってきます。
レストランや料亭で食べる料理と家庭料理は違う。時間に手間、食材など枚挙に暇がない。しかし、家庭では家族の要望や暗黙知があり肩肘張って、家庭料理は「~ねばならない」と暗黙の同僚圧力に押し潰されていないか。一汁一菜に「愛と栄養」を注ぎ込めば、出汁いらずでも食材からしっかり出汁が出ることに気づく。早速、化学調味料や過分な出汁で味を誤魔化してきた調理を反省し、楽しくおいしい料理を心がけよう。
閑話休題①家庭料理と料理屋
魯山人は「料理芝居」という随筆に、「家庭料理は料理というものにおける真実の人生であり、料理屋の料理は見せかけだけの芝居だということである」として、その違いを明らかにしています。
閑話休題②味噌汁
土井善晴氏は、味噌汁はもっと自由であって良いと提案される。唐揚げの味噌汁もあり。「料理教室の生徒から毎度『○○を入れてもいいんですか』と確認されます。味噌汁に入れたくないものはあっても、味噌汁に入れていけないものなんてありません。それが味噌汁の凄さです。著者も日々、味噌や味噌汁の万能には驚いています。」となんて自由な発想。
結婚するまで料理をすることのなかった私は、パートナーや子供たちの食事を作る必要に迫られて様々食材を使った味噌汁に挑戦したが、食材の組み合わせがイマイチの事も数多く経験し、結局いくつかのパターンに落ちつくことになった。大根と南関あげ、豆腐とわかめと南関あげ、じゃが芋と玉葱と南関あげ、などなど。必需品なのは「南関あげ」、これ一つで風味がよくなるので、我が家の必需品である。逆に、万能ネギを使わないのも我が家流なのだろう。パートナーは、専ら豚肉とほうれん草の味噌汁がお気に入り。また、私が味噌汁を作る場合が多く、中華スープや溶き卵スープなど、調理のバリエーションを変えてくれて、二人で分担することでレパートリーは2~3倍になったことだろう。
10数年前に、子供たちが小学校の授業で味噌汁を作ってきたと話していた。先生によると、「あげと長ネギの細切りが味噌汁の基本」と教えられたと言っていた。その刹那、ものすごい違和感を憶えたが、担任の先生の手前、批判もせず飲み込んだが、我が家では学校で教えられた基本と違う味噌汁が日々提供されていることで、子どもなりに感じたこともあったのではないだろうか。
閑話休題③米
「国を挙げての国民の栄養向上政策の努力は実り、昭和50年(1975)年ごろには、ごはんを中心とした日本型食生活が完成したと喜ぶようになりました。しかし、その束の間、外食の楽しみを知ると、一気に肉食が進み、油脂(エネルギー)の取り過ぎに偏り、生活習慣病、さらにメタボが表れ、現代に至ります。」とまとめます。コロナ禍が追い打ちをかけるように宅配料理が跋扈(ばっこ)し、地域の食堂は衰退し、テイクアウトによるジャンクフードが軒並み業績を伸ばしているのを見るにつけ、コロナ禍で食生活を送ったZ世代の将来の健康状態や病気が気になるのは私だけだろうか。一方で、学校の休校で、唯一の栄養源であった給食が途絶えた子供たちもいて、体重減少の著しい子供たちが一定の割合でいることも気になる。貧困と格差が食事・栄養、教育に表れることを警鐘事例として捉えておくことが必要だろう。どこかの国の首相が「子ども食堂」に行ったことをさも自慢げに誇っていたが、「子ども食堂」が重要なのではなく、子供たちを生み・育てる親や保護者の所得増が必要だとは認識していないようだ。
もう一つ、佐藤洋一郎さんが中公新書で著した「米の日本史―稲作伝来、軍事物資から和食文化まで(2022年2月18日発売)」の中でも、やはり1970年代に入って日本人はやっとお腹いっぱいご飯(米)を食べることができたと指摘しており、日本人と米のかかわりを再認識できた。同時にロシアのウクライナ侵攻で、小麦が高騰し、パンや麺類が軒並み値上がりする中で、日本国民は生活防衛の観点から米への原点回帰が起きていることにも注意が必要なのだろう。かつて第1次世界大戦の帝国海軍は、兵隊に米中心の食事を提供したが、深刻な脚気・栄養障害に悩まされ、戦意・戦力が大いに低下した。あらためて米の炭水化物だけでは栄養素を賄えないことを認識したわけで、米への原点回帰が栄養の偏りより、脚気が再流行しないか心配しているのは、過剰反応であろうか? -
Posted by ブクログ
土井善晴先生とお嬢さんの光さんの共著。お味噌汁のアイディアがたくさんで参考になる。季節の味噌汁、味噌料理、スペシャルな味噌汁、どれもおいしそう。全部作ってみたい。機会があれば挑戦したいなあ。写真もいい。でも土井先生もたまには「やりすぎました。」みたいなお味噌汁があったりで、微笑ましいです。
味噌ラーメンのところの誤植というか脱字というのか、もったいない〜。私のは第5刷だけど修正されなかったのですね。版が新しくならないと無理なのでしょうか。ぜひ直していただきたいです、出版社さん。
最後の「自分で作って食べることがすべての始まり」です。が、とても好き。先生はお料理する私たちをいつも応援してくれている。最強の味方。
光さんのあとがきもすごく素敵。お味噌を誇りに思って生きてゆく。今日もお味噌汁を作る。 -
Posted by ブクログ
土井先生の優しさが沁みる。料理に失敗なんて、ない。私の作る料理にも失敗なんてない。だから今日もごはんを作る。味噌汁には何を入れてもいい。背中を押してもらいました。ズッキーニ入れたら変かな?とか気にしません。入れました。おいしかった。コーンもいい。何を入れてもおいしい。お味噌汁すごい。
土井先生の修行時代のお話がおもしろかった。ドラ息子時代もいい。小布施での挑戦のところもよかった。そしてたくさん本を読んで、美術館や博物館にも行って、たくさん学んでこられたんだなあ。師匠がたくさんいて、皆さんを尊敬している。素敵だなあ。
おかずのクッキングや、きょうの料理の話もあってなんだか嬉しい。後藤アナのこともちらっと出てきて。また土井先生と後藤アナのコンビでやってほしいな。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ肩肘張らず、かしこまらずに読める土井先生の料理本。序盤は日本の食文化の概略、日本に入ってきた諸外国の食文化の分類、ケとハレの概念から見る料理など、いわゆる「日本料理総論」みたいな内容。後半は、前半の内容を踏まえてどのように「料理や食事を整えるか」という、和食の精神性に話が及ぶ。
人はなぜ料理を作るのか。なぜ、家族に料理を出すのか。どうやったら、美味しい料理を楽しく整えることができるのか。
具体的なレシピは何一つ出てこないが、料理を作る楽しさや面白さ、料理をすることが人が生きる中でどれほど大切なのか、ということが、煮物に味を染み込ませるように、ゆっくりと丁寧に書かれている。
土井先生は、いろいろな場所で「食事は、丁寧に整えられていれば一汁一菜でいい」と繰り返しており、この本の最終章でもそれは触れられている。
忙しい時には、この本を読んでふっと肩の力を抜けばいい。そして、ご飯と味噌汁と漬物をきちんと膳に並べて食事を取れれば、日本人ならそれで充分なんだと思う。
料理をすることにプレッシャーを感じている人や、食事の支度をすることに疲れてしまった人には、特に響く本なのだろうと思う。 -
Posted by ブクログ
料理を負担にしてはいけない。でも力は抜いても手は抜くな、というメッセージを受け取って、早速一汁一菜を試してみた。
これまでおかずを3~5種類出していたが、メインディッシュはもちろん他のおかずも作らないというのは意外と勇気が必要だった。これまで品数を多く用意するのに手一杯で、器の選び方、盛り付け方などあまり意識できていなかったと気がついた。
ご飯と味噌汁とお漬物しかないと、もう少しきちんとご飯を炊いてみたいと思うようになった。
土鍋を買って炊いてみようかな。
◉ハレの日の料理はお祝いの日を前にしてみんなが集まり一緒に準備したものである。手間と時間をかけて料理することに意味があり、そこに喜びを感じていた。 -
Posted by ブクログ
【感想】
レシピ本を買うときはどんなときだろうか。
普通の目玉焼きを作るためにわざわざレシピを確認しようという人は少ない。おそらくだが、レシピ本を手に取る人の多くは、「今の自分では作れない、もっとおいしい料理を作りたい」という気持ちがあるのではないだろうか。
その「よりおいしい食事を」に待ったをかけたのが土井善晴氏だ。
料理とはもともと、生きるために「食べられないものを食べられるように変える」行動であったという。古来の文脈において語られる料理とは、栄養素を過不足なく摂取するためのサバイバル術であり、味や風味などは二の次だった。食糧が慢性的に不足していた時代では腹を満たすことが先決であり、「どう料理するか」は、飢餓への備えとしていかに調理法を工夫するか、と同義であった。
対して、「おいしい」が強調され目的になったのは、食べ物が飽和し始めた近年のことである。それに伴い、料理はたいへんだと思われるようになったのだ。現代では、忙しくて余裕もないのに、料理をする人は「おいしい」という結果を求められている。
土井氏はこの「おいしい食事を」「凝った食事を」というスタンスを捉え直し、一汁一菜を基本とする食生活を提案している。料亭の食事と同じ品目を毎日作るようでは、身体が持たない。なにより、そうしたハレの日の食事とケの日の食事の境をあいまいにしていては、食事を取る楽しみ自体もお腹いっぱいになってしまうだろう。
日常の食生活は日常的なレシピの中に位置づけるべきで、その基本は「一汁一菜」なのだ。
私はこの「一汁一菜」主義が大好きである。土井先生のイメージである「これで、ええんです」に魅了されてしまい、今ではすっかりファンだ。
ところで、「一汁一菜でよい」という提案は、「料理を真面目にやらなくてもいい」「手を抜いていい」と解釈されがちだが、実は違う。
本書の中でもそれは指摘されており、土井先生は、「力を抜くべきだが手を抜いてはいけない」と言っている。
では、両者の違いはなにかと言うと、「料理に対する真摯な姿勢の有無」ではないかと思っている。
手を抜くというのは、料理のほかに優先すべきことがあり、そちらに注力するため、料理をすること、ひいては食べることそのものを手早く済ませてしまおうというスタンスだ。趣味、仕事、あるいは生活の疲れによって料理をしていられず、料理の優先順位を落とすことである。
一方、「力を抜く」は違う。料理をシンプルにまとめながらも、料理の優先順位を落としているわけではない。
例えば土井先生は、料理を作ったあとの器やお膳の選び方、配置の仕方にもこだわりを見せている。よそられた食事は白米、みそ汁、漬物といった簡単なものなのに、まるで芸術作品のように凛としたたたずまいをし、「適当にすませました」という感じは全くない。献立は単純だが、料理に対する姿勢、要するに「食への美意識」をおろそかにしていないのだ。
これが土井善晴氏の言う「力の抜き方」である。
本書はそうした土井氏の美学からなる「料理思想」を多々紹介している。
日本人が持つ伝統的な美意識の紹介から始まり、西洋料理との違い、和食独自の伝統文化、そして日常の献立へと話が発展していく。
本書を貫く一本線は、「料理は食材を『調理』する行為だけにあるのではなく、その裏にある伝統的な文化や風土、食材への美意識を重んじる」というもの。なんとも素敵な哲学であり、大量廃棄が問題視される今、こうした「食材と季節と暮らしの調和」という観点は、あらためて見に着けて置くべきポイントだと感じた。
普段なんとなく作っている料理の本質を見直すきっかけにもなる本。ページ数も100ページ余りであり、簡単に手に取って読むことができる。是非オススメだ。
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ここからはわたしの戯言と妄想。
SNSの普及により、時短レシピ、バズレシピ、手抜きレシピなど、誰でも作れる簡単レシピが爆発的に流行っている。
もちろん、こうしたレシピが料理をするきっかけになるのはいいことだが、どこか寂しい。料理以外にもやることがあって、料理なんかのために時間をかけていられない、というスタンスが何となく感じられてしまうからだ。挙句の果てに完全栄養食なんて出たときには、「ああ、料理と食事って、もう煩わしくてやってらんないものとして認識されつつあるんだなぁ」という悲しみを覚えてしまった。
わたし個人の考えだが、一度身につければ一生使えるスキルは、この世に2つしかない。
1つは車の運転。もう1つは料理だ。
だから、世の中の「料理している暇なんてあれば、もっと生産性の高いことをする!」という風潮に対して、「料理よりも大切なことなんていくつあるんだ?」と穿った姿勢を取ってしまうのである。
ここで一本、土井善晴氏やたくさんの料理研究家が集い、1000ページぐらいの料理本を出していただけたら――そんな妄想をしてしまう。
ショートビデオが普及し、数分でレシピ動画が見れるようになった今だからこそ、あえて重厚長大な料理本を紙媒体で出す。タイトルは「3年かかって料理がうまくなる方法」。食材の選び方や包丁の使い方といった基礎の基礎から、魚のさばき方や火入れ方まで、この本に載っていることを全てこなせば、一生使える上級料理術がマスターできる。
帯には、簡素化していく料理へのアンチテーゼとして、「料理は『手間』なのか――」みたいなアオリ。そんな妄想。
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【まとめ】
1 まえがき
土井善晴は、昭和から平成へと変わっていく社会のスピードに不安を感じながら、食文化が自分や家族の命を守り、幸福につながるという、料理の本来の意味や意義を強く思うようになっていった。
今、日本人の食事は、あまりにも複雑になっている。料理を理解しなくとも毎日の食事にはなにも不自由しない。しかし、長い目で見たとき、日頃の食事のあり方が人の人生に大きく関わり影響すること、広く見たとき、資源の無駄遣いが地球に負担をかけていることに気づくだろう。
2 純粋な料理
料理とはもともと、人間が生きていくために食べられないものを食べられるようにする工程のことだった。
昔は料理=生きるための行動であった。対して、「おいしい」が強調され、目的になったのは近年のことである。それに伴い、料理はたいへんだと思われるようになった。現代では、忙しくて余裕もないのに、料理をする人は「おいしい」という結果を求められている。
忙しい社会では「手抜き料理」や「時短料理」が流行る。しかし、手を抜くのではなく、力を抜いて欲しい。忙しさやそのときの状況で料理への力の入れ具合を判断してほしい。大切なのは決して無理をしないことだ。
本書では、料理の「そもそも」を知り、暮らしの意義と構造を知ることで、要領よく、力を抜いて「ちゃんとできる」ところまでを目標にしたい。
3 日本の伝統的食文化
フランスには、高度な調理法を用いた「経済と関わる芸術的な料理」(=独創的で最先端の科学芸術)と、その土地の自然の産物をマルシェに集め、その恵みを享受し命を育む「暮らしの料理」(=伝統的な家庭料理)という2つの世界観がある。
両者は密接につながっている。西洋では、日常の料理と非日常の料理が地続きなのだ。
しかし、和食においては、日常と非日常を全く違う物として分けている。ケ・ハレを意識的に区別し、四季が循環するように「ハレ→ケハレ→ケ→ハレ」と生活している日本人は、食卓それぞれの場に「それぞれの食事の形」を持っている。
元旦の屠蘇、餅、おせち、酒など、「神様にお供えする料理」が「ハレの料理」。白身の魚が縁起物として尊ばれ、米は味よりも「白さ」に重きを置かれていた。それは、神様への捧げものは姿が整っている清潔な料理が良しとされたからだ。手間と時間をかけ、清潔な料理を作っていたのが古来日本の「ハレ」である。
しかし、高度経済成長以降は忙しさに追われて、暮らしを支えてきた日常の普通の料理を失ってしまった。それは日常のケハレを失うことでもあった。
私たちは次第に、ハレの日の本来の意味を忘れて、清らかな料理ではない、油脂を多く含む、ステーキ、焼肉、大トロの握りなどの単なるご馳走で本能的快楽を満たすようになった。
日本人は古来より、「ハレ」「ケ」「ケハレ」の世界観を大切にしてきたが、現代では「ハレ」と「ケ」の境界がなくなり、日常のケハレがどこかに行ってしまったのだ。
和食には、洋食の濃厚味や中華料理の強い味や香りの抑揚はない。しかし、食事にこれらのような「美」を見つけることで、心の豊かさ(満足感)を作ってきたといえる。
4 和食と栄養学
戦後日本において推奨されてきたのは「一汁三菜」。一汁三菜は世界共通の栄養学であり、主菜(タンパク質・脂肪)から献立を考えるものだが、そもそも和食には、タンパク質や脂肪を摂取するためのメインディッシュという概念はない。そもそも、魚や肉を中心に据えてしまえば、季節の食材は二の次になる。
旬の食材を中心に献立を作れば、タンパク質や脂肪以外の栄養素は、おのずからついてくる。そうすれば日本の食文化と日本人の健康の両方を守れる。だからこそ、国民の健康は季節感、食文化あってのものと認識し直すべきなのだ。
現代で一汁三菜を作るのは忙しい。だから、一汁一菜でいい。栄養のバランスは、味噌汁を具だくさんにすれば大丈夫。余裕がない日は、おかずは作らなくてもよく、お金や心に余裕のある時に、食べたいものを作ってあげればよい。
献立の基本を一汁一菜にするのだ。
5 和食を考える
食文化は、その土地にたどりついた原初の人間の素朴な行為から始まった。モンスーン帯では稲作が、地中海気候帯では牧場と果樹園が営まれたように、食文化は自然に逆らうことなく生まれ、人生を謳歌する豊かさを作った。そのような「大自然と調和する食文化」は、無くしてしまうと二度と取り戻せないものだ。
和食も当然、大自然と調和する食文化である。では、和食は何をモットーにしているのか?
和食は「自然を中心とし、食材にあまり手を加えない」ことを美意識としている。
例えば、和食は「混ぜる」ではなく「和える」が基本である。日本料理は西洋料理と違って、「味がブレる」ことを前提としている。食材は季節によって味に違いが出るし、調味料の分量も食材の状態によって微妙に変化する。結果的に、全てが均一な味となる「混ぜる」ではなく、ところどころムラができる「和える」という調理法がベースとなる。それは言い換えれば、素材の味を尊ぶ調理法なのだ。
6 日本人にとってのあるべき暮らし
普通の暮らしにおける和食は「美」とともにある。そのため、食べられるようになったものを、「整える」ということがいちばん大切な行為だ。器を選び、お膳を整えて初めて料理は完成する。
日本人は、料理の中にも「清潔」を重んじてきた。「きれい」という一つの言葉で、人間にとって大切な「真善美」を表し、物事を判断する基準としてきた。
和食は、けじめをつけながら「きれい」に調理を進めることで、結果として「おいしさ」がついてくる。そして清らかに「澄んだ味わい」を最善の「おいしさ」としてきた。
和食のおいしさは、心地よさを認めながら進める調理によって、後からついてくる結果なのだ。
7 一汁一菜という念仏
「料理をする満足」とは、手をかけることではない。現代人は、たくさんの料理を作らないと手抜きをした気分になるのかもしれない。
そうした中で「満足感」を味わうには、きれいにすることだ。料理そのものというより料理と器、器と器、器とお膳の関係を整え、場をきれいにする。きれいにすることは、料理の楽しみの世界に入る扉である。
食事に生まれる喜びや楽しみといった情緒を研究することが、本書の言う「料理学」なのだ。