あらすじ
その道40年、集大成にして入門の書。
私たちの一番身近にある「料理」。生きていくうえで欠かせないからこそ、毎日の食事を作ることにプレッシャーや負担を感じてしまう。しかし、料理の「そもそも」を知り、暮らしの意義と構造を知ることができれば、要領よく、力を抜いて「ちゃんとできる」ようになる。日本人は料理を、どのように捉えてきたのか。古来より受け継がれてきた美意識や自然観、西洋との比較などを通して私たちと料理との関係性をひもとく。料理を通して見えてくる「持続可能なしあわせ」「心地よく生きていくための道筋」とは何か。NHK「きょうの料理」でもおなじみの著者が、いまの日本の料理のあり方を考え抜いた末に提示する、料理と暮らしの新しいきほん。
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Posted by ブクログ
すごい。もはや哲学の域。
実家を出て料理を始めて28年。この間、基本の料理、カリスマ主婦の料理、時短料理、ズボラ料理、本格料理、世界の料理、⚪︎⚪︎幼稚園の人気メニュー、絵本に出てくる料理。。。ヨシケイ、オイシックス、家事代行。。。色々なものを試したけれど、決して満たされることはなかった。料理はいつもプレッシャーだった。
特に、子どもを持ってからの料理は大変だったし、末っ子が食べ盛りになった今も大変。あぁ、私は孤独に責任を負って、自分自身は食べることを楽しめずに、辛かったのだなと振り返る。
目の前の素材としっかり向き合って、命をいただく。生きていくことの基本かなと。
金言 料理は南無阿弥陀仏に似ている
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●日本人と自然・美
人間は自然に寄り添うことで、過剰を抑えることができるのです。
日本人は毎日、同じ代わり映えのない暮らしをしていても、自然の移ろいに現れる小さな変化に美を見つけるのです
美を見つける事は、自然と人間が調和するところを感じとることでもあります
生活と仕事が分離したところに美しいものは生まれない。by 白洲正子
その瞬間を心に留め、心に楔を打つことを、日本人は「もののあわれ」と表現してきました
これが絶えず変化する命の一瞬をつかむ術です。それが情緒豊かに生きること、自然と共存すること、いつでも心を動かすことにつながります。
●和食
和食には洋食の濃厚味や中華料理の強い味や香りの抑揚はありません。しかし食事に美を見つけることで心の豊かさを作ってきた。
大自然と調和する食文化はなくしてしまうと二度と取り戻せないものです。
●和食の料理
料理はハンナアーレントの言う「人間の条件の基礎的側面」である。人間の条件の基礎的側面は失ってはならない。
和食の創造性とは、精神性を深めるところにあります
仕事のある平日は、何も考えない。ご飯を炊いて、味噌汁以外は作らないと決めることです。まず自分を解放してください。
和食の調理は、感覚所与を磨く機会・エクササイズです。全く同じものができたのでは和食の面白みを失います。違いに気づき、違いを見つけることで感性が磨かれるのです。違いに気づく事は小さくとも発見ですので嬉しくなります。これが日本における人間創造の深化です。
姿形色もそのままにして、できれば紫陽花つけたくないと言う考えが和食の調理にはあります。和食は何もしないことを最善とするのです。
料理は南無阿弥陀仏に似ていると思います。1 11歳と言う日本の食事スタイルはいつでもすぐに実行できます。1 11歳は人間の暮らしを健全になめらかにします。毎日何も考えずに料理をして仕事をする。これを繰り返すことです。
●間違った価値観
手間をかけるのが料理であり、また手間をかけるのがおいしいものである
時間と手間を省略する事は何も生み出さないため、クリエーションではありません
料理をいっぱいしないと手抜きをした気分になる。なぜか満足できない。それを解決するのはきれいにすることです。まずは御膳を整えて場をきれいにすれば簡単な料理でも大丈夫です。きれいにすることで充実感が生まれます。
Posted by ブクログ
お味噌汁とご飯と1品さえ良ければいい、今の時代色んな食べ物がある中で敢えてそのスタイルになるのは身の回りの事を整えること繋がりそうだと思う。ご飯作りの悩みが尽きない人に。
Posted by ブクログ
料理がつらいと常々思っていた。
家族の好物に合わせれば、自分の胃腸の調子が悪くなり、腹が張り、屁が臭くなり、便秘になり、私の機嫌が悪くなる。
逆に自分の胃腸に合わせれば、家族の箸が止まる。
なんで食べてくれないの〜!と、そっちはそっちで私の気分が悪くなる。
自分で調味料を混ぜた麻婆豆腐より、レトルト方が喜ばれるし、ちゃんとしてない気がして達成感がない。
旦那は、平日のなんもない日にステーキを食おうとする。
外食に行くと、食べたいものよりコスパを考えるようになってしまった。
なんか、料理を作る、料理を食べることについて、色々モヤモヤしてたのだ。
この本を読み、ケハレの考え方を知り、ちょっと心が楽になったし、
我が家の厨房と、私の腸内環境を操るのは私しかできないのだと気付かされた。
今後は「今日の献立地味ー」と言われても、「今日はケの日なの!」と言いきろうと思う。
以下は備忘
・とはいえ、著者提案の一汁一菜だと流石に家族にブーブー言われそうなので、左に茶碗、右に汁椀。家族の好みのおかずを一品。あとは果物を毎食1つ。
・土日にまとめて月、火までのおかずを作り、水、木のおかずは冷凍する。一品は外食などのおかずで力を抜く。冷凍や既製品をちゃんとしてないと思わない。力を抜いてるだけです!!!
・とはいっても目の間の家族が美味しそうに食べる姿をみたいので、それだけで米や酒が進むようなうまい汁を7種類作れるようになる。(2023年の目標)
・ハレの日を楽しむ。映えとか、コスパとか、栄養は気にせず、四季や風土をを楽しむ献立にする。
土井さんの真意を相当自己流に読んでしまった感がすごいが、一読目の感想は以上です。また読もう。
Posted by ブクログ
肩肘張らず、かしこまらずに読める土井先生の料理本。序盤は日本の食文化の概略、日本に入ってきた諸外国の食文化の分類、ケとハレの概念から見る料理など、いわゆる「日本料理総論」みたいな内容。後半は、前半の内容を踏まえてどのように「料理や食事を整えるか」という、和食の精神性に話が及ぶ。
人はなぜ料理を作るのか。なぜ、家族に料理を出すのか。どうやったら、美味しい料理を楽しく整えることができるのか。
具体的なレシピは何一つ出てこないが、料理を作る楽しさや面白さ、料理をすることが人が生きる中でどれほど大切なのか、ということが、煮物に味を染み込ませるように、ゆっくりと丁寧に書かれている。
土井先生は、いろいろな場所で「食事は、丁寧に整えられていれば一汁一菜でいい」と繰り返しており、この本の最終章でもそれは触れられている。
忙しい時には、この本を読んでふっと肩の力を抜けばいい。そして、ご飯と味噌汁と漬物をきちんと膳に並べて食事を取れれば、日本人ならそれで充分なんだと思う。
料理をすることにプレッシャーを感じている人や、食事の支度をすることに疲れてしまった人には、特に響く本なのだろうと思う。
Posted by ブクログ
土井先生の言葉が優しい。厳しくも鋭くもあるのに優しい。一生懸命生活しようと思えた。
読みやすい親しみやすいこの本の中で、一汁一菜はもちろん、人類の進化や細胞、地球のことにも触れている。料理のことだけじゃないのがすごい。土井先生、たくさんの本を読んでこられたのだなあ。
簡単な料理をゆっくり作って、ゆっくり食べよう。きれいに整えよう。
Posted by ブクログ
仕事を始めてから、料理が苦しかった!
なんで?
でも、この本を読んで、料理することそのものを楽しんでいた子どもの頃の気持ちを思い出して心が軽くなった。同じく、母が台所に立つ時の匂い、音、心地よさも…。
すごくオススメの本です。
Posted by ブクログ
料理を負担にしてはいけない。でも力は抜いても手は抜くな、というメッセージを受け取って、早速一汁一菜を試してみた。
これまでおかずを3~5種類出していたが、メインディッシュはもちろん他のおかずも作らないというのは意外と勇気が必要だった。これまで品数を多く用意するのに手一杯で、器の選び方、盛り付け方などあまり意識できていなかったと気がついた。
ご飯と味噌汁とお漬物しかないと、もう少しきちんとご飯を炊いてみたいと思うようになった。
土鍋を買って炊いてみようかな。
◉ハレの日の料理はお祝いの日を前にしてみんなが集まり一緒に準備したものである。手間と時間をかけて料理することに意味があり、そこに喜びを感じていた。
Posted by ブクログ
【感想】
レシピ本を買うときはどんなときだろうか。
普通の目玉焼きを作るためにわざわざレシピを確認しようという人は少ない。おそらくだが、レシピ本を手に取る人の多くは、「今の自分では作れない、もっとおいしい料理を作りたい」という気持ちがあるのではないだろうか。
その「よりおいしい食事を」に待ったをかけたのが土井善晴氏だ。
料理とはもともと、生きるために「食べられないものを食べられるように変える」行動であったという。古来の文脈において語られる料理とは、栄養素を過不足なく摂取するためのサバイバル術であり、味や風味などは二の次だった。食糧が慢性的に不足していた時代では腹を満たすことが先決であり、「どう料理するか」は、飢餓への備えとしていかに調理法を工夫するか、と同義であった。
対して、「おいしい」が強調され目的になったのは、食べ物が飽和し始めた近年のことである。それに伴い、料理はたいへんだと思われるようになったのだ。現代では、忙しくて余裕もないのに、料理をする人は「おいしい」という結果を求められている。
土井氏はこの「おいしい食事を」「凝った食事を」というスタンスを捉え直し、一汁一菜を基本とする食生活を提案している。料亭の食事と同じ品目を毎日作るようでは、身体が持たない。なにより、そうしたハレの日の食事とケの日の食事の境をあいまいにしていては、食事を取る楽しみ自体もお腹いっぱいになってしまうだろう。
日常の食生活は日常的なレシピの中に位置づけるべきで、その基本は「一汁一菜」なのだ。
私はこの「一汁一菜」主義が大好きである。土井先生のイメージである「これで、ええんです」に魅了されてしまい、今ではすっかりファンだ。
ところで、「一汁一菜でよい」という提案は、「料理を真面目にやらなくてもいい」「手を抜いていい」と解釈されがちだが、実は違う。
本書の中でもそれは指摘されており、土井先生は、「力を抜くべきだが手を抜いてはいけない」と言っている。
では、両者の違いはなにかと言うと、「料理に対する真摯な姿勢の有無」ではないかと思っている。
手を抜くというのは、料理のほかに優先すべきことがあり、そちらに注力するため、料理をすること、ひいては食べることそのものを手早く済ませてしまおうというスタンスだ。趣味、仕事、あるいは生活の疲れによって料理をしていられず、料理の優先順位を落とすことである。
一方、「力を抜く」は違う。料理をシンプルにまとめながらも、料理の優先順位を落としているわけではない。
例えば土井先生は、料理を作ったあとの器やお膳の選び方、配置の仕方にもこだわりを見せている。よそられた食事は白米、みそ汁、漬物といった簡単なものなのに、まるで芸術作品のように凛としたたたずまいをし、「適当にすませました」という感じは全くない。献立は単純だが、料理に対する姿勢、要するに「食への美意識」をおろそかにしていないのだ。
これが土井善晴氏の言う「力の抜き方」である。
本書はそうした土井氏の美学からなる「料理思想」を多々紹介している。
日本人が持つ伝統的な美意識の紹介から始まり、西洋料理との違い、和食独自の伝統文化、そして日常の献立へと話が発展していく。
本書を貫く一本線は、「料理は食材を『調理』する行為だけにあるのではなく、その裏にある伝統的な文化や風土、食材への美意識を重んじる」というもの。なんとも素敵な哲学であり、大量廃棄が問題視される今、こうした「食材と季節と暮らしの調和」という観点は、あらためて見に着けて置くべきポイントだと感じた。
普段なんとなく作っている料理の本質を見直すきっかけにもなる本。ページ数も100ページ余りであり、簡単に手に取って読むことができる。是非オススメだ。
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ここからはわたしの戯言と妄想。
SNSの普及により、時短レシピ、バズレシピ、手抜きレシピなど、誰でも作れる簡単レシピが爆発的に流行っている。
もちろん、こうしたレシピが料理をするきっかけになるのはいいことだが、どこか寂しい。料理以外にもやることがあって、料理なんかのために時間をかけていられない、というスタンスが何となく感じられてしまうからだ。挙句の果てに完全栄養食なんて出たときには、「ああ、料理と食事って、もう煩わしくてやってらんないものとして認識されつつあるんだなぁ」という悲しみを覚えてしまった。
わたし個人の考えだが、一度身につければ一生使えるスキルは、この世に2つしかない。
1つは車の運転。もう1つは料理だ。
だから、世の中の「料理している暇なんてあれば、もっと生産性の高いことをする!」という風潮に対して、「料理よりも大切なことなんていくつあるんだ?」と穿った姿勢を取ってしまうのである。
ここで一本、土井善晴氏やたくさんの料理研究家が集い、1000ページぐらいの料理本を出していただけたら――そんな妄想をしてしまう。
ショートビデオが普及し、数分でレシピ動画が見れるようになった今だからこそ、あえて重厚長大な料理本を紙媒体で出す。タイトルは「3年かかって料理がうまくなる方法」。食材の選び方や包丁の使い方といった基礎の基礎から、魚のさばき方や火入れ方まで、この本に載っていることを全てこなせば、一生使える上級料理術がマスターできる。
帯には、簡素化していく料理へのアンチテーゼとして、「料理は『手間』なのか――」みたいなアオリ。そんな妄想。
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【まとめ】
1 まえがき
土井善晴は、昭和から平成へと変わっていく社会のスピードに不安を感じながら、食文化が自分や家族の命を守り、幸福につながるという、料理の本来の意味や意義を強く思うようになっていった。
今、日本人の食事は、あまりにも複雑になっている。料理を理解しなくとも毎日の食事にはなにも不自由しない。しかし、長い目で見たとき、日頃の食事のあり方が人の人生に大きく関わり影響すること、広く見たとき、資源の無駄遣いが地球に負担をかけていることに気づくだろう。
2 純粋な料理
料理とはもともと、人間が生きていくために食べられないものを食べられるようにする工程のことだった。
昔は料理=生きるための行動であった。対して、「おいしい」が強調され、目的になったのは近年のことである。それに伴い、料理はたいへんだと思われるようになった。現代では、忙しくて余裕もないのに、料理をする人は「おいしい」という結果を求められている。
忙しい社会では「手抜き料理」や「時短料理」が流行る。しかし、手を抜くのではなく、力を抜いて欲しい。忙しさやそのときの状況で料理への力の入れ具合を判断してほしい。大切なのは決して無理をしないことだ。
本書では、料理の「そもそも」を知り、暮らしの意義と構造を知ることで、要領よく、力を抜いて「ちゃんとできる」ところまでを目標にしたい。
3 日本の伝統的食文化
フランスには、高度な調理法を用いた「経済と関わる芸術的な料理」(=独創的で最先端の科学芸術)と、その土地の自然の産物をマルシェに集め、その恵みを享受し命を育む「暮らしの料理」(=伝統的な家庭料理)という2つの世界観がある。
両者は密接につながっている。西洋では、日常の料理と非日常の料理が地続きなのだ。
しかし、和食においては、日常と非日常を全く違う物として分けている。ケ・ハレを意識的に区別し、四季が循環するように「ハレ→ケハレ→ケ→ハレ」と生活している日本人は、食卓それぞれの場に「それぞれの食事の形」を持っている。
元旦の屠蘇、餅、おせち、酒など、「神様にお供えする料理」が「ハレの料理」。白身の魚が縁起物として尊ばれ、米は味よりも「白さ」に重きを置かれていた。それは、神様への捧げものは姿が整っている清潔な料理が良しとされたからだ。手間と時間をかけ、清潔な料理を作っていたのが古来日本の「ハレ」である。
しかし、高度経済成長以降は忙しさに追われて、暮らしを支えてきた日常の普通の料理を失ってしまった。それは日常のケハレを失うことでもあった。
私たちは次第に、ハレの日の本来の意味を忘れて、清らかな料理ではない、油脂を多く含む、ステーキ、焼肉、大トロの握りなどの単なるご馳走で本能的快楽を満たすようになった。
日本人は古来より、「ハレ」「ケ」「ケハレ」の世界観を大切にしてきたが、現代では「ハレ」と「ケ」の境界がなくなり、日常のケハレがどこかに行ってしまったのだ。
和食には、洋食の濃厚味や中華料理の強い味や香りの抑揚はない。しかし、食事にこれらのような「美」を見つけることで、心の豊かさ(満足感)を作ってきたといえる。
4 和食と栄養学
戦後日本において推奨されてきたのは「一汁三菜」。一汁三菜は世界共通の栄養学であり、主菜(タンパク質・脂肪)から献立を考えるものだが、そもそも和食には、タンパク質や脂肪を摂取するためのメインディッシュという概念はない。そもそも、魚や肉を中心に据えてしまえば、季節の食材は二の次になる。
旬の食材を中心に献立を作れば、タンパク質や脂肪以外の栄養素は、おのずからついてくる。そうすれば日本の食文化と日本人の健康の両方を守れる。だからこそ、国民の健康は季節感、食文化あってのものと認識し直すべきなのだ。
現代で一汁三菜を作るのは忙しい。だから、一汁一菜でいい。栄養のバランスは、味噌汁を具だくさんにすれば大丈夫。余裕がない日は、おかずは作らなくてもよく、お金や心に余裕のある時に、食べたいものを作ってあげればよい。
献立の基本を一汁一菜にするのだ。
5 和食を考える
食文化は、その土地にたどりついた原初の人間の素朴な行為から始まった。モンスーン帯では稲作が、地中海気候帯では牧場と果樹園が営まれたように、食文化は自然に逆らうことなく生まれ、人生を謳歌する豊かさを作った。そのような「大自然と調和する食文化」は、無くしてしまうと二度と取り戻せないものだ。
和食も当然、大自然と調和する食文化である。では、和食は何をモットーにしているのか?
和食は「自然を中心とし、食材にあまり手を加えない」ことを美意識としている。
例えば、和食は「混ぜる」ではなく「和える」が基本である。日本料理は西洋料理と違って、「味がブレる」ことを前提としている。食材は季節によって味に違いが出るし、調味料の分量も食材の状態によって微妙に変化する。結果的に、全てが均一な味となる「混ぜる」ではなく、ところどころムラができる「和える」という調理法がベースとなる。それは言い換えれば、素材の味を尊ぶ調理法なのだ。
6 日本人にとってのあるべき暮らし
普通の暮らしにおける和食は「美」とともにある。そのため、食べられるようになったものを、「整える」ということがいちばん大切な行為だ。器を選び、お膳を整えて初めて料理は完成する。
日本人は、料理の中にも「清潔」を重んじてきた。「きれい」という一つの言葉で、人間にとって大切な「真善美」を表し、物事を判断する基準としてきた。
和食は、けじめをつけながら「きれい」に調理を進めることで、結果として「おいしさ」がついてくる。そして清らかに「澄んだ味わい」を最善の「おいしさ」としてきた。
和食のおいしさは、心地よさを認めながら進める調理によって、後からついてくる結果なのだ。
7 一汁一菜という念仏
「料理をする満足」とは、手をかけることではない。現代人は、たくさんの料理を作らないと手抜きをした気分になるのかもしれない。
そうした中で「満足感」を味わうには、きれいにすることだ。料理そのものというより料理と器、器と器、器とお膳の関係を整え、場をきれいにする。きれいにすることは、料理の楽しみの世界に入る扉である。
食事に生まれる喜びや楽しみといった情緒を研究することが、本書の言う「料理学」なのだ。
Posted by ブクログ
一人暮らしを始めた時に読んで実践し始めた一汁一菜。家庭を持ち、子供ができ、自分だけではなく家族のための料理が始まってから、改めてどのように料理と向き合おうか考えようと手に取りました。
ハレ(非日常)の料理として、両親や親戚が家に来る際は作ったことのないいろいろな国の華やかな料理にチャレンジすることにしていますが、ケ(日常)の料理(ほぼ和食)と食卓についても安定感や安心感をもたらしつつ、私自身がなにか少しずつ季節や素材の変化を感じられる(自然とつながる)体験にしていきたいと思いました。
お茶の世界の「賓主互換」とは良い言葉ですね。どうしても自分を「作る人、評価される側」と捉えてプレッシャーを感じがちですが、土井先生のおっしゃるように料理をもっと食べる人との相互作用の中に位置付けるともっと色の体験が楽しく豊かになりそうだと感じます。子供がもう少し大きくなってなんでも食べられるようになったら、料理を通して心を重ねていけるようになりたいです。
色々考えさせられましたが、結局なにより大事なのは料理がうまいことや美味しく作ることではなく、食べる人のことを想う心ですね。そうした姿勢が、料理する音や盛り付けや味付け、感触に現れて、言葉はなくてもあたたかなコミュニケーションになるのだと思います。赤ちゃんの脳の発達や言語獲得にも言われることですが、人間の情緒は、そういう相互作用の中で育まれるのは共通しているのでしょうね。身が引き締まります。
Posted by ブクログ
日本 自然中心主義 和える 深化
西洋 人間中心主義 混ぜる 進化
何気ない料理というものをいろんな視点から考える本。めちゃめちゃ面白かった。読み終わってすぐ、食への意識が変わった。このシリーズ読みまくりたい。
Posted by ブクログ
アニミズム・わびさびはウチの台所にあふれている。
家庭料理の精神性を人々に気づかせたことが、土井善晴先生の、そしてこの本の偉業だと思います。
誰がつくっても美味しいレシピや、時短料理術、目新しい調理法などといったテクニックではなあ、料理の精神性や思想。アニミズムやわびさび等といった日本の自然や文化と、かたや生活感満載の「ウチの台所」が直結するなんて今まで思いもしなかった。そういった高尚な考えはプロの世界、懐石料理や料亭の板前さんのもので、家庭料理とは無縁だと。
家事に追われる人は「そんなことより実用的な調理法をおしえてよ」と普通は思うのでしょうが、「でも土井センセが言うてはるんやから」と振り向かせるだけの親しみやすさが土井先生の強みです。
季節や風土、わびさびを感じながら、手間をかけず素材そのものを生かして食べること。キレイに整えた状態で食べること。料理をつくって食べるまでの行為全体を通して感じる「心の気持ちよさ」のあとに、「味覚の気持ちよさ」すなわち「おいしさ」はやってくるのかもしれないなと思いました。
土井先生の言説からあらたな気づきもありました。
肉は、繊細な和食文化では扱いきれないほどに快楽的なうまみがあり、それを禁じなければ和食文化は持続できなかった、ということ。
素材をいかすのであれば、味は「うけとる」ほかなく、むやみにコントロールできることではない、ということ。
なるほどなと思いました。
Posted by ブクログ
著者の本は初めて読んだ。和食の文化や、料理をいろいろなことに広げる考え方を知ることができたと思う。
和食と洋食、日本と欧米の文化の違いも料理を通じて知ることができた。
Posted by ブクログ
一言に料理といってもプロの料理、家庭料理や和食、洋食など様々カテゴライズがあり、またそれぞれの調理方法に言われてみるとなるほどなとなる特徴があることがわかった
ボリュームはそこまでない一冊だが多くの気づきが得られた
Posted by ブクログ
ハレとケの概念、一物全体の言葉が勉強になったし、和食と西洋料理の違いも面白かった
料理が下手だと自覚しているので、おいしさを求めず自然に寄り添う感覚で料理できれば良い、というところに救われる気持ちになった
Posted by ブクログ
料理することって、清々しい行為だなと思った。
いつも時間に追われてバァーっと作って慌てて盛り付けて、はい、できたよ食べて!
という感じだった。
この本を読み終えてから、
時間はないままでも、
場を綺麗にする、整える、を意識し始めた。
それだけで、心が落ち着き、幸せを感じられるから不思議だ。
Posted by ブクログ
前回読んだ本と主張は変わらない。料理は美味しくなければいけないということもないし、家では料理をする人が偉い。日本推しが若干強すぎるようにも思うけど、基本的なところは肯ける。
Posted by ブクログ
″料理とは、食べられないものを、食べられるようにすることです。ですので、料理は、おいしさよりも、食べられることを優先します。もちろんおいしい方がいいと思います。でもまず大切なのは、食べられるものと食べられないものを区別し、その状況によって、どうすれば食べられるかを学び、食べられないものを、食べられるようにすることです。おいしさや楽しさを求める工夫は、その次にあることです。″
料理について、勝手に自分でハードルを上げているのかもしれないなー、と思わされた。
肩の力を抜いて、「家庭料理」をやっていきたい。
Posted by ブクログ
料理するとき、何品か作らなきゃという義務感あったが、一汁一菜でよいという考えに少し気が楽になった。がんばりすぎて料理することが苦痛なことにならないよう、シンプルに考えていきたい。あと、きれいにすること、心がけたい。
Posted by ブクログ
耳読書。
普段の料理ってシンプルでいいんだ。
品数を増やして手の込んだ料理じゃないと家庭に貢献していないような気がして罪悪感を覚えていたけれど、そうじゃない、シンプルに素材に丁寧に手を加えることが、おいしい。
ハレとケ。
Posted by ブクログ
土井善晴さんの料理哲学。レシピとかは一切なし。豊富な知識に裏付けられた簡潔な文章で、大学の一般教養科目に出てきそうな気がした。料理本と思って読むのではなく、料理基礎学のテキストとして読むのが正解かな。
Posted by ブクログ
料理について悩んでいる人は多いと思う。
何を作るか。それは毎日の悩み。
手の込んだものを作らないと、手抜きだと思われないか。
もしくは自分が思っているか。
お料理をする満足とは何か。
手をかけることではない。手をかけても美味しいものは作れない。でもまだ手をかけるのが料理だと思っている。
簡単な料理でも場をきれいにする。
きれいにすることで充実感が生まれる。
家庭料理、和食は家族のためにある。
身の回りにある食材を、必要以上に手をかけず、さっと作るのが日常の和食。
それに対応できるのが一汁一菜。
変わったものを食べたいのではなく、安心したものが食べたい。
それでも料理するのは大変だが、料理について少し気が楽になったような気がする。
Posted by ブクログ
へえ〜そうなんだ〜〜ってかんじ
咀嚼しきれてない感…再読必須です
(私の料理経験不足なのか、筆者の文章の書き方なのか…)
内容は理解できるのにね…なんでだろうね
Posted by ブクログ
料理は身体を作るけれど、それと共に精神的にもとても大事な習慣なんだと自覚させられる。
時間がない、忙しいのが最近の私で、電車でおにぎり食べて出勤。遅く帰って適当に買った物をそのまま食べてシンク掃除も手が出せない…。
なんて、良い生活が出来るはずもないし、気持ちも落ち着かない・切り替わらないで当然だと反省。
そして一汁一菜は参考にしよう。
Posted by ブクログ
お膳はきれいに整えることで清らかにする、ご飯と具だくさんのお味噌汁とお漬物があれば良い。和食では汁飯香を中心にする。「今日はお肉とお魚どちらがいい?」は意識せずとも良い、たんぱく質は副菜にに自然と入ってくる。そのうえで余裕がある時に週1,2回、お魚などをいただく。季節を取り入れ、丁寧に楽しくご飯を味わうことが何よりも大事!
Posted by ブクログ
土井さんの思想が汲み取れず、
ついていけない部分もあるけれど、
半分くらいは沁みる文章もあった。
「料理するとは、自分を大切にすることであり、それが、生きていく自信になり、自立することにつながる。」
私はもともと料理に苦手意識があったからこそ、
当時と比べて料理が好きと言える今の自分は
何故か逞しく、生きることに誠実になったと思う。
ちゃんとしたいときも
ちゃんとしたいけどできないときもあるから、
土井さんに「一汁一菜でよい」
と言ってもらえるのはホッとするよね。
まだまだこの世には知らない世界があるな。
料理の熱が高いうちにいろいろこだわってみようかな。
Posted by ブクログ
料理哲学を述べた本
料理を負担と思う人に、ほらこんなに人間にとって根源的な行為で最高なんですよーと語りかけるかんじ
自分は料理負担と思ってないしむしろ楽しんでるんだなっていうのを逆に発見した
Posted by ブクログ
料理とは何なのか。料理のルーツから、和食のあり方など日本人が料理をどのように扱ってきたか、これからどのように考えると良いかという提案がサクッと読める分量•文体で書かれた一冊。
一汁一菜を押し付けられるのでは、という先入観があったけれど、「一汁一菜をベースに考える」という提案なのが良かった。プラスすることが悪いわけではないというのは取り入れやすい考え方。どうしても主食を中心に献立を考えることに毎日大変さ面倒臭さを感じていたけれど、ご飯と汁物をベースにして考えるととてもやりやすい。分かってたようで目から鱗だった。
毎日毎日やってくる料理時間を大切に考えられるようになる思想書という感じ。サクッと読める分端折られているようにも感じたので、物足りなければ著者の他の本も目を通すのが良さそう。