発達心理学と教育学の見地から、アメリカの会社を中心に、DDO(発達思考型組織)と呼ばれる組織のそのメカニズムを具体的に見ていく本です。DDOは人間の「培養器(インキュベーター)」や「加速器(アクセラレーター)」の役割をする、といいます。
現今のVUCA時代(不安定さVolatility,不確実さUncertainly,複雑さComplexity,曖昧さAmbiguity)は、「技術的な課題」だけでなく、もっと根底の「適応を要する問題」にも直面するといいます。前者はマインドセットと組織デザインを改良することで対処できますが、後者は個人や組織がそれまでの自己を超越しないと対処できない、といいます。この「超越」に、発達心理学の知識が活かされていて、そこにDDOの大きな意義があります。
「環境順応型知性」→「自己主導型知性」→「自己変容型知性」というように知性は進歩していくと、本書において、発達心理学の見地から説かれています。前提として、脳は20代まで成長するのではなく、終生にわたって成長するという知見がありますね(80年代の脳科学者たちが愚弄して、のちに恥ずかしい思いをした知見でもある)。
「環境順応型知性」は第一段階の知性だけれど、「帰属意識を抱く対象に従い、その対象に忠実に行動することを通じてひとつの自我を形成する」とあります。帰属している共同体を絶対視しているのがこれですね。前提はゆるぎない、っていう。これはこれで、一段階目の発達の階段を上がれた「大人」なのです。
こういう人は多いですよね。少なくとも、僕のオフライン生活(リアル生活)での付き合いのある人はみんなこの知性です。こういう発達の話を知って、ちょっとたまげました。個性とか性格、考え方の違いではなく、なんと知性の段階の違いだったのだ、と。
良いとか悪いとかじゃなくて、「よくなろう」「向上しよう」とかと思わないと知性は第一段階のままそこから発達しないのかもしれなません。その先があるなんて思わないし、必要性も感じなかったりするでしょう。知的好奇心の強弱も関係あります。
これ、知性が進歩して「自己変容型知性」までいくと矛盾が受け入れられるようになるし、対立も「あるもんだ」とわかるし、ひとつの考えをすべてに適用するものじゃないと考えるようになる、と。つまり多くの知性が進歩すると、争いが減るんです。おそらく戦争も含めて。それでもよくなろうと思わなかったりするのは、ある意味で豊かだからなんだろうか。
と、ここまで書きましたが、400ページほどの単行本であるのもかかわらず、版がでかいせいか、800ページくらいのものを読んでいる感覚でした。中身も濃密です。そのため、なかなかうまく感想がまとまりませんので、ここからは箇条書き的にいきます。
◆社会を生きやすいものにしていくのにもっとも大切なことは、政治でも経済でもないかもしれない。組織開発の本である本書を読み始めての直感とこれまでの自分の考えとが結びつくのだけど、それは文化の発展にありそう(会社の社内文化を大事にする意味合いからもそうではないかと)。教育も大事だけどそれは人が対象だし、共同体の枠組み自体の変化のほうが効果があるのでは。
たとえば文学。教育的効果、知的刺激を与えるものとしての文学と考えていたところがあったのだけど、文学は文化を豊かにしていくものとして捉えると、もっとダイナミックかつ繊細なものに思えてくるのでした。もちろん、知的刺激を受けた人たちが協働して文化を生んでいき、総体として文化は豊かになるのだから、間違ってはいないのか。
◆長所を伸ばしていくのがスペシャリストへの道で、弱点をなくしていくのがゼネラリストへの道だとすると、前者は社会の部品として有用であろう的だし、後者は人間性を向上させていこう的かもしれない。
◆DDO(発達思考型組織)の方法論である本書を読んでいると、これって認知行動療法のことじゃないのかな、と既視感を覚えます。内省のしていき方が似ているのか、はっきり指摘は出来ませんが、同じ領域にあるもののように思えます。
◆本書の立場に思うこととして。心の問題までをもシステマティックに解決する姿勢が西洋的です。第一印象としては、「人をモノ扱いしているところがある」と感じました。そこまで徹底的にやらなければ勝ち残れないという競争社会の進んだ時代だからそうなるのでしょうけれども、です。まあ、ある意味では明快。でも、人間的じゃないんじゃないか、という印象が残りました。ただ、「あっ」と気づいたのは、自分の誤りをすぐに受け入れるかどうかなど、日本では現場レベルで当たり前に要求されているし、みんな従っているということ。意外と、日本の仕事現場は本書でいう発達と無関係ではありません。
◆職場などでは各々の立場がフラットではないから、意見があっても言いにくかったりします。だからといって、やっぱり立場はフラットにはできないものです。ではどうするか、と考えて出てきた言葉・考え方が、本書でも大切だと説かれている「心理的安全性」なのかもしれないです。立場を維持しつつ、萎縮する人をつくらないというように。心理的安全性のない組織に未来はないのではないか、とまで僕の考えは進んでいきます。自分の身を守る仕組みをつくり維持するために権力を使いがちなのがふつうの人間だから。そういう観点で政治家たちを見てみると、全然だめじゃん、と思えてきたりするのでした。
◆会社では弱さを見せるような姿勢で発達しても、私的な時間においてはそんなことをしたら弱肉強食の論理でマウンティングされてしまう、みたいなのってあると思うのです。野球やサッカーの選手みたいな発達(成長)がふつうに認められている人たちならば、私的な時間の周囲の人たちも邪魔したりしない雰囲気があるような気がします。一般的な会社人なんかは、プライベートではそうじゃなかったりもして、会社がDDOだとしても、自分が公と私の両面から引き裂かれるような気持ちになるかもしれません。そういう意味での公私の同質性が強いと、余計なストレスのないなかで、自分の発達へと踏み込めるのではないでしょうか。
◆エンタメ小説に取り掛かっている僕にとって、「他人を喜ばせたいと考えているのは環境順応型知性」だという一文には立ち止まらざるを得なかったです。なるほど、読み手をリードしていくエンタメ、そして読み手に新たな視界を見せるエンタメがあるし、それぞれ自己主導型知性と自己変容型知性であって、発達理論的に説明がついたりする。でも待て待て、そもそも、素晴らしいエンタメって、これら3つの要素がすべて入ってできているものではないかなあ。どれかが欠けていては欠落感を感じるエンタメになるのかもしれない。…と、こういう観点から考えてみるとまったく新たな学びがあるものですね。
◆自己変容型知性を考えていて思いつくのは、ダブスタ批判。ダブルスタンダードではないほうがいい、というのは、まあそういうところはあっても、それにこだわってしまうのは知性の二段階目、「自己主導型知性」までであって三段階目の「自己変容型知性」には到達していない、ということになる。
では、ここからは引用をしながらコメントしていきます。
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一般には、仕事は公的なものなのに対し、人間としての側面は私的なものなので、人間的な要素は仕事に持ち込むべきではない、という考え方が暗黙の前提になっていることが多い。デキュリオンは、このような前提を表面に引っ張り出したうえで覆している。(p51)
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→仕事の自分と、プライベートな自分とのギャップに悩むのが人間だというところに頷く方は多いでしょう。かく言う僕もこのあたりは解決できません。そういうもんだ、と割り切るか、仕事の自分とプライベートな自分の間のどのあたりにポジションを定めればもっとも気持ちが乱れないか(比較的安定するか)を考えて職場に向かったりしました。そして、その職場の性質によって、このポジションは決めかねてくる。上記引用のデキュリオンは大企業の名前なのですが、この会社はDDOであり、人の発達と会社の発達を不可分にして同時に向上していこうとする組織。人間も会社もWINーWINになる、という構想です。
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デキュリオンでは、「仕事を手放す」ということがよく言われる。専門知識や肩書きなどの権威に寄りかからず、苦労の末に獲得した知識をみんなと共有することが求められるのだ。その対極にあるのが、知識を力の源泉と位置づける考え方だ。これは、弱肉強食の職場で生き延びるために、ほかの人との知識のギャップを武器にすべし、という発想である。実際にそのとおりである場合も少なくないが、デキュリオンのリーダーたちはこのような考え方を非常に嫌う。会社の理念に反するからだ。「仕事を手放す」ことを重んじるのは、影響力と地位が人々にとっていかに重要なものかを知らないからではない。それは承知の上で、情報を独占したい、権限と権力を守ることで他人より優位に立ちたい、好印象をもたれるために時間を費やしたいという衝動を断ち切るよう、一人ひとりに求めている。そのために、「替えの利かない」人物をつくらないように仕事を設定している。(p62-63)
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→知識を共有する(シェア)ことは仲間内での利他的行動ともとれます。反対に、仲間内でも団結していなくて、そのなかで利己的に振舞わないといけないと考えるような組織もあります(というか、多いですよね)。シェアすることで、みんなの利益としては成長ができるし仕事がはかどるし、会社の利益としては質の高い仕事が得られるし仕事量も多く得られるし、という結果につながるといいます。でも、以前読んだ本のなかで、利他行動と利己行動のどちらが優れているかをコンピューターシミュレーションしたところ、利他行動派が繁栄したと思えばそこで利己行動派が得をし始めて逆転して繁栄をはじめ、またその反対になり、といったようなシーソーゲームになっていきました。だから、信念をもって、自分の生き方としてやるぶんにはシェアの行動はいいのではないか。本書にもありますが、勉強が出来て高学歴の人でも、会社の方針に合わなければ辞めてもらうとあります。会社の仕組みを乱すタイプの人は、残念ながらそこから排除されるのです。
それと、引用部の最後のほうにありますが、「替えの利かない」人を作らないことというのは、替えが利かないことで権力が生じるからです。力関係をフラットにすることが、シェアの職場には必要ですし、心理的安全性の面からもマストなのでした。ちょっと話が脱線しますが、エンパワメントと逆の考え方なんです。だから、ここからは逆に、社会の中でエンパワメントしていくためには、替えが利かない存在になること、専門性を持つこと、それをみなが理解すること、が必要事項だと学ぶことができます。
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職場で自分を守るための努力を延々と続ける結果、人々はさまざまな「ギャップ」を生み出している。自分と他人の間のギャップ、計画と実行のギャップ、そして自分のある部分と別の部分の間のギャップだ。(p148)
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→本書のスタートで述べられているのが、自分を守るための個人的な仕事がいちばん要らないということでした。そういうことをしなくてよい職場であれば、ほんとうの仕事に労力も時間もずっとかけることができるからです。この引用では、そんな、自分を守る行動によるマイナス面を述べています。行動と発言のギャップ、感情と発言のギャップ、給湯室での発言と会議室での発言のギャップなどなどがこのあとに述べられていきますが、こういう二枚舌みたいなものって、多くの人が心当たりのあることなんじゃないでしょうか。僕にはあります。
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ブリッジウォーターは、現実を歪めて認識しないことも非常に重んじている。この方針の下、人々が自動的・反射的に取っている自己防衛反応を自覚させるための慣行を大がかりに実践している。自己防衛反応に走ると、人はものごとの見方に死角をいだき、現実を歪めて認識しかねないからだ。(p155)
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→ブリッジウォーターは金融関連のDDOですが、信じられないくらいに社内の透明性を重んじるのです。なにせ、社内の会話はすべて録音されて、誰でも聴取可能になっているくらいですから。そこまで徹底的に露わにしてこそ、人の内面に関与できるという方針なんですが、これは社員みんなの内面へのマネジメントということであって、話を聴くだけでアレルギー反応を起こす人もいらっしゃるのではないか、と思います。でも、そうすることで、成果をあげてきました。ミスを全力で洗い出し、防止するために社員の内面を発達させることで回避するんです。上記引用部もその一環としての手立て、あるいはスタンスなのでした。内面に踏み込まれるのですから、自己防衛反応がでないほうがおかしいのですけれども、そこを耐えろという、または明け渡せというのです。そうすることで、まっすぐに発達の道を歩めるというわけでした。
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あなたがDDOで働いているとして、みずからの学習の過程をさらけ出してもいいと思うためには、明示的にせよ暗黙的にせよ、ある「契約」が成立していると信じられなくてはならない。その契約は、あなたの学習を促す人たちにも多くの責任と義務を負わせるもので、神聖不可侵とみなされていなくてはならない。一回でも違反があれば、直接の当事者だけではなく全員にとって、コミュニティの信頼性が崩れるからだ。弱点をさらけ出したら自分に対して不利な材料として用いられたとか、ありのままの自分を洗いざらい見せたら評価が下がったといった出来事があってはならない。そのような問題が起きた場合に、コミュニティが過ちを正せなければ、(謝罪して、有効な再発防止策を打たなければ)、そのコミュニティとDDOは有害な存在に成り下がる。(p173-174)
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→DDOでは、自分をさらけだします。内省をしたり他者から指摘をしてもらうのです。そのため、弱いところを見せますし、自分で気づかなかった弱点を指摘されることもあります。なぜそうするかというと、自分の弱点を隠すために使う時間や労力というものは、実はかなりあるもので、それを無くして仕事に向かってもらうことと、弱点を自覚してそれを克服していきうまく発達していけば、仕事ができるようになっていくからです。ミスは減りますし、視野が広がり仕事を見つめる目の深さや広さそして解像度が変ってくる。だから、社員の発達を促すのです。上記引用部分はそのために必要な、ホームのあり方についてですね。「ホーム」すなわち「場」の基本として、最近いわれる言葉でいうと「心理的安全性」を作り上げてキープしようということです。その大切さが述べられています。僕はこういう「場」はとても好みますね。以前、観光の仕事をしていたときには、こういった知識がなかったにもかかわらず、僕はこのような、心理的になるべく不安をかかえないで働ける環境づくりを暗にしていました。現場では一番先輩でしたから、なにもせずともある種の権力がデフォルトでくっついていましたし、怒らずそして弱さも見せるようなコミュニケーションの取り方だけである程度できあがったのを覚えています。
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要するに、イシュー・ログ(誰でも閲覧可能な、個人的な「問題の記録」)と会議の録音は、一般的な組織で日々無駄を生み出している二種類の力学に対処する役割を果たしている。一つは、人々が言うべきことを言わないこと、もう一つは、言うべきでないことを言うことである。一般的な組織の人々は、一方では自分をよく見せ、他方では同僚を悪く見せるために時間を浪費しているのだ。(p255)
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→西洋人的な、「徹底的にやる」という態度の現れのような方策ではないでしょうか。こういうのは、心掛けをするように社員に促しても、しょせんは人間なのでうまくかないという見抜きからきているように感じます。ルールや、テクノロジーを用いた仕組みを作ってこそ、人の心理も動かせる、といった考え方であり、この会社の場合はうまくいっているそうです。ちょっとやりすぎな感じはしますけれども。
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しかし、善良な精神、言ってみれば「よき心」がそこになければ、誰も自分の内面を職場という公の場に持ち込みたいとは思わないだろう。(p374)
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→これも心理的安全性の大切さを述べていますね。心理的安全性がもっとも基盤となるものなのかもしれないです。
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DDOの考え方を説明すると、人間の性質を理由に実現可能性に疑問を呈する意見がかならず出てくる。「自分を守ろうとし、自分を実際よりよく見せたいと思うのは、人間の避けられない性質だ」「人が職場で弱みをさらけ出すなどというのは、青臭い理想論だ。理屈としては素晴らしいけれど、人間はそういう生き物ではない」といった具合だ。
このような粗雑な人間観は、組織に対する見方にも投影される。「ビジネスの状況が厳しくなれば、営利企業が社員のためにこんなに時間を割くことはありえない。個人の成長の状況より、利益追求がつねに優先される」
(中略)
あといくつのDDOが出現し、あと何年成功を収め続ければ、人間の性質に対する(上記のような)常識が変わるのか? 真に画期的な考え方とは、最初は既存の常識に反し、無謀なアイデアに見えるものなのだろう。だからこそ、固定観念を破壊できるのだ。そうしたアイデアは、人々の行動の仕方だけでなく、考え方も根底から揺さぶる。(p390-391)
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→人間と会社の相互の発達を促すために弱さをさらけ出し合うなんて、夢物語だ、なんて言われがちなのを、著者が反論していますね。大人の発達理論的に、こういう考え方をすること自体が、三段階目の発達を成し遂げた自己変容型知性の人間ならではではないでしょうか。僕は、上記引用の言い分はとても言い得ているなあと思います。ただ、やりすぎな感じもしますけれども、中途半端ではいけない、ということなんでしょうね。