加藤政洋のレビュー一覧
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自由に生きるための知性
これはいってしまえば=教養なのかなと思った
第一部が特に心に残った
教養を学ぶ意義
教養と社会の関係について整理できた
いま、教養が大事だと改めていわれている理由
→教養から専門知に傾いて
専門家と一般人のコミュニケーション
が上手くいかず、さらには
非対称な垂直な関係になり
専門家と一般人の間の信頼が崩れた
→終身雇用制度が崩壊しており
学び続ける力が必要になってきている
=エンプロイアビリティ
一方で、教養・リベラルアーツとは、
それがある人とない人を隔てる垣根であり
いま社会から求められている教養との間に
ジレンマがある
いま求められている教養とは
他者に対して「開かれ」ていること
新しい自己に出会うこと
その後の章では、差別、好きって何、読書のすすめ、など専門家からの細かな話になるが
「いまの自分の枠からはみたでたものを学ぶ、触れることで、新たな自分を発見する」こと
の重要性が通底しているなと思った
感想
上田先生が言ってたいわゆる量産型の奴隷のような学生だったな自分…
そして色々みているつもりだったけど、自分の好きの中でしか出会えてないかも…
めちゃくちゃ井の中の蛙だな自分…
てか文中の引用がハードすぎて付いていけない…
と落ち込みそうになりました
しかし相手は大学教授たちなので仕方ない
というか、
教養の持つ分断の意味合いにジレンマ感じつつ
インテリたちの共通言語を使いすぎてやしないかい?とツッコミを入れながら読みました
単細胞の私には少々難しい本でしたが
1ヶ月くらいかけてゆっくり理解しました
おすすめの本がたくさん出てきて
読書リストがどんどん伸びる
時間を空けてもう一度読みたい作品
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Posted by ブクログ
大阪市に立地する空間の地理学。著者が「約十年間に大阪の街々を歩きながら感じたこと、考えたことをもとにして、現代都市としての大阪を特徴づける<場所>と<空間>について、およそ明治期以降の歴史性をふまえて叙述する」本。書の前半は主としてキタ、後半は主としてミナミを語るが、著者の思い入れはミナミにあるせいか、後半のほうが面白かった。とくに、第5章「ミナミの深層空間ーー見えない系をたどる」は、50頁もの分量を割きながら、阿倍野と千日前、飛田新地と釜ヶ崎、黒門市場を結ぶ三角帯の歴史地理学的意義を大いに語る秀逸な章だといえる。「東京もん」からすると、なじみの薄い大阪の地名が時折見られる。たとえば、でんでんタウンやジャンジャン横丁。ワールドトレードセンター(WTC)ビルなどはニューヨークか、せめて浜松町どまりで、なぜ大阪に存在するのか、不思議でならなかった。「場所は「個」としてではなく、近接・遠隔を問わず他所との関係性のなかで存立していることも忘れてはなるまい」(228頁)という一文に、都市空間の特異性に対する著者の思いが詰まっていると言えよう。
ただひとつ残念なのは、「結果」という「接続詞」を多発しているところ(たとえば138頁の文頭)。読みやすさを考慮してのものだろうが、「その結果」と正しく書くべきだろう。せっかくの説得力が、この似非接続詞のおかげで浮いてしまっている。 -
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京都の麺、丼ものといった食堂文化を語った本。昔、京都の大学に通っていたころ、学食でたぬきうどんなるものを見つけてはじめて京都のあんかけ文化に遭遇し、驚いたことを思い出した。その時は、あまりおいしいとは思わなかったが、歳を取っていくと、なぜかむしろ出汁の効いたあんかけが乗っている京うどんが恋しくなるから不思議である。
本書の内容は、以下の通り。
第1章 上方〈麺〉問答 -諸説覚書
第2章 〈しっぽくの美学〉
第3章 なにを「とじる」か
第4章 食堂と町中華の不思議
以上で出てくるメニューも、たぬきうどん、あんかけ、けいらん、しっぽくうどん、衣笠丼、木の葉丼、中華そば、黄そばなど食堂メニューが満載。
昭和の大衆食堂へのリスペクトにあふれ出ているようで、学校の周辺にあった食堂に足を運んでみたくなるような気持になった。
しかしながら、京都の街中は観光公害にあふれ、こういった食堂は絶滅危惧種となってしまった。本書に記載されている食堂もいくつかはもう廃業となっているようだ。そしてこうした食堂に多くの学生たちの生活も支えられてきた。
学生のまち、京都ももはや昔の話になりつつあるのだろう。
久しぶりに本書に乗っている食堂を訪ね歩いてみたいなあ。残っている時間はあまりなさそうだ。
できれば、本書に乗っている食堂の一覧表か地図があればと思うが、自分で作るのも楽しいか。(笑) -
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敗戦後、占領軍から「一般の婦女子をまもるために防波堤を築く」べく組織されたRAA(特殊慰安施設協会)の話は有名。半年あまりでRAAは閉鎖されるものの、その後の赤線の誕生に大きく寄与したことは間違いない。
しかし、だ。戦後の性風俗、とりわけ赤線に象徴されるような売春街の成り立ちを、占領軍との関わりの所産としてのみ捉えることは一面的でしかない。著者は、明治以降の西南の役、日清・日露戦争期を経て遊郭が「発展の道」を辿ってきたことに触れ、戦前からの連続性を指摘する。戦時中から設置されていた産業戦士慰安所などの経験が土壌となって、しっかりと占領下においても引き継がれていったというわけだ。
戦前戦時の流れを踏まえて赤線を捉える視点が新鮮だった。戦争や軍と「性」が常に表裏一体であることの意味を、違った視点から気づかせてくれた。 -
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[ 内容 ]
占領下で成立した赤線。
けれどもその要因は、はたして「占領下」という特異な状況だけだったのだろうか。
旧遊郭との関わりの有無を含め、赤線の起源、ならびにその成立事情を、あらためて考える。
[ 目次 ]
第1章 赤線の誕生
第2章 カフェー街としての赤線
第3章 特飲街成立のミッシングリンク―東京の事例から
第4章 駅に近接する個室付浴場街―金津園(岐阜市)の来し方をたどって
第5章 赤線ではなく青線、それが問題だ―国際園(岐阜市)の移転問題
第6章 京花街の周辺文化―雇仲居と席貸(戦後編)
第7章 戦後那覇の都市建設と「歓楽街」の設置問題
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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“赤線”といってピンと来る世代ではない。青線とか二業地・三業地との違いもよく知らないでいたが、この本のおかげでやっと知識を得ることができた。といっても営業形態の違いなどを知りたかったわけではない。敗戦後、米軍統治下で、なぜそういった売春地帯域が公に存続できたのか、長年の疑問がある程度解けたのである。
一般に、遊郭が最も衰微した時期は戦中であったとされる。享楽産業にたいする規制や、戦時増産体制のための建物供出、従業員の勤労動員などを命じられ事実上営業が不可能になったという。だが本書によれば、その一方で、軍人、工場労働者慰安という目的で残された“部分”があった。そしてそれこそが戦後の公設売春地帯「赤線」を導く根っこになったというのだ。
1957年発行の大阪市民生局『大阪と売春』という報告書から孫引きすれば、
「当時海外へ進出した慰安婦、芸妓、女給が軍協力の下に営業した如く、戦時中内地の遊郭、料亭も軍と協力関係とにあった」
とあるように、娼家側も軍の要請に積極的に応じる形で事業の発展をもくろんでいたことが窺われる。「売春業者自体が金儲けのため、国策に便乗」(『大阪と売春』)したというのである。
東京では、それまで玉の井と亀戸しかなかった私娼街が一挙に増えた。立川、蒲田、亀有、立石、新小岩への慰安所新設を警視庁が認可する。「産業戦士慰安のため」という名目だったという。こうして戦時下に国家管理売春システムが出来上がる。このシステムを戦後そのまま援用し、集団売春地区にあらためて誕生したのが「赤線」ということだ。
戦争に負け、もはやどのような〈戦士〉も存在しない日本に、どうして売春地帯が復活したのか。それは日本人女性の「純潔保護の防波堤」としてだった。そのため、内務省が赤線設置を命じた秘密通牒には「日本人の施設利用は之を禁ずる」の文句が存在する。当初は、外国軍専門にサービスを提供する地区を設け、それをもって「一億の純血を護り以て国体護持」をはかろうという意図があったのだ。
前借金制度で業者に隷属させされ、なおかつ戦時中は国策により戦士慰安を命ぜられた遊郭の女たちは、戦後なお挺身隊としての奉仕を強制されたのである。なんという痛ましい運命か。
「赤線」の名の起こりは、明治期にさかのぼるらしく、管轄の警察署が風俗営業店の密集地域を地図上に赤い線で囲んだことからその名が付いたとされる。しかし一般に「赤線」の名が世間に流通するようになったのは、やはり戦後になってのことであった。娼妓たちは公娼から私娼へとその立場を変えることになったが、それも建前上のことで、赤線は昭和33年の「売春防止法」制定まで、国家公認の売春街として存在しつづけた。
沖縄に行くと必ず立ち寄る店がある。安里にある「東大」というお店で、ここの焼きてびちは絶品。最近はとても有名になってしまい、ふらりと行っても満席で入れなかったりする。
10年ほど前に初めて行った夜、「そんなに骨までテビチをしゃぶる人は珍しい」とあきれらて以来、沖縄滞在中は必ず一度は行くことにしている。今はモノレールの「ゆいれーる 安里駅」で降りればすぐ近くなので便利になった。
ある晩、東大で飲もうと現地の友人を誘いだし、待ち合わせがてら近くの栄町を散策したことがあった。栄町といえば、「ひめゆり学園」(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高女=女師一高女)があったことで有名だ。その跡を偲ぼうと思ったのだ。
路地に入ると旅館が立ち並び、どの家にもうす赤い灯りがともされていた。玄関に腰掛ける女性たちを見ても、一見してあいまい宿とわかる雰囲気だった。
友人に聞くと、ここは戦後の「料亭街」であるという。料亭といっても供出するのは料理ばかりではない、いわゆる特殊飲食店の街であった。
那覇のど真ん中にこのような地区が成立したのは、米軍の「歓楽街設置要請」のためだという。内地では「売春防止法」の施行以来、売春宿はおもに旅館から特殊浴場へと業態転換をしていった。しかしその当時、依然として米軍占領下にあった沖縄は事情が違う。その後、本土復帰に伴って昭和47年に同法が施行となるが、栄町には今なお「特殊婦人」が路傍に立ち、ちょんの間の客を引いているのだ。
沖縄を見れば、戦後日本の抱えてきた問題が、生々しい傷跡として見える。
そう思って沖縄を訪れてきたつもりだが、この光景を目の当たりしたときは、何とも言えない衝撃を受けた。彼女らは挺身隊だと思った。日本は沖縄を米国に差し出し、沖縄政府は彼女らを米軍に差し出した。その構図はまだまだ変わらない。