熊代亨のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ人が人生の各段階で、どういう理由から、何者かになりたいという欲求を持つのかを解説してくれた本。
特に以下の点が面白かった
・中年になっても何者かになりたい欲を持つ人は多いこと
・シニアはアイデンティティを喪失していきながらも生きているサバイバーだということ
・作者のように出版するような何者かになってもそれを維持していくのにまた努力が要ること
以下気になった点
・何者かになりたい人がどのようにその気持ちに対処したらいいのか?どういう風にうまく使ったらいいのか?について具体的な対処法があまり書かれていなかった
・精神科医の観点から専門的に分析するというよりかは、1人の人生の先輩が経験を含めて語るというスタンス -
Posted by ブクログ
【感想】
現代は、全てをリスクに基づいて物事を判断するようになった。健康と喫煙、結婚生活と独身生活、育児にかかる費用と自らの収入。人々が自らの暮らしを計算し、危険で無駄な要素を省くほど、生活の質は上がっていく。そしてこの「生活の質」は、個人的な範疇に収まらずに、公共空間にまで領域を拡大している。ゴミひとつない美しい街、秩序正しく運行する電車、マナーに敏感な市民、ルールを守って人に迷惑をかけない子ども。
日本は本当に健康的で、清潔で、道徳的な秩序がある国だ。だが裏を返せば、そこに住む人がその街にふさわしい行儀良さや道徳的振る舞いを身に着けなければ、この街は成り立たない。
そして、一握りの「ルールを守れない人」は、生きづらさを抱えたまま社会から脱落していく。
本書は、そうした社会通念が行き渡ってしまった日本の現状を見つめながら、背後にいる「上手くやれない人」の存在に光を当てる一冊だ。精神医療・健康・育児・空間設計・コミュニケーションといった様々なテーマを軸に、令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解いていく。
私は正直、この本の内容に同意しっぱなしだった。ページをめくるごとに、まるで自分の胸中を覗かれているような感覚を覚えてしまった。
でも、読んだ後にそれを文章にしようとすると、上手くいかない。この健康的な社会に一家言あるはずなのに、どうも指の間から文字が零れ落ちていってしまう。
何故、この本を読んで心を揺さぶられながらも、口にしようとすると言葉が立ち消えてしまうのか。何故、しっくりこずに歯がゆい想いをするのか。
それはきっと、健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会が「正しい」からなのだ。「不自由な社会だ」ということは頭では理解しているのに、それに歯向かう気が起きないほど、いまの暮らしはいい暮らしだからだ。
いや、そんなの嘘だ。日本を息苦しく感じ、脱落してしまった人も確実にいる、と反論しようとしても、今の社会をリセットするのは明らかに間違っている。そもそも、清潔な社会の恩恵はマジョリティだけでなくマイノリティも享受しているため、簡単に否定できるものではない。あんなにも不潔であった昭和の時代にはもはや戻ることはできず、文句を言いながらもなんとか生きていくしかない。
「強固な秩序」や「コスパ至上主義」は、確かに私たちを息苦しくするが、そこに向かうことで確かに幸せになる。不幸になる人は残り続けるが、それも少しずつ小さくなり、やがて完璧に美しい社会ができるのかもしれない。
しかし、「正しい」としてもそれで本当によいのか?たとえその合理性が今日の通念のもとではきわめて正しいとしても、その道を突き詰めてしまえば、やがて自分自身を追い詰めることにつながってしまうのではないか?
うまくまとまらず、やりきれない思いが残るばかりだった。
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【まとめ】
1 清潔に変わった世の中
かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか?清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではないか?
2 美しい街
ゴミひとつない美しい街、秩序正しい街、東京。だが裏を返せば、そこに住む人がその街にふさわしい行儀良さや道徳的振る舞いを身に着けなければ、この街は成り立たない。それは子供も同様である。こどものやんちゃに対する現代の大人たちの視線は厳しく、未成年者の逮捕・補導件数が減少する一方で、虐待の通知件数は増大している。
労働環境に目を向ければ、コンビニやファミレスといった庶民向けサービスであろうとも、クオリティが高い。社会の最前線で働くひとのスキルは向上しつづけ、より高機能な人々が効率的に働くようになっている。
これらは、「美しい国にふさわしいのは優れた人間だけである」との要求に見える。
2020年の現実を振り返れば、過去の不自由や不便を克服してくれた進歩が私たちに新しい不自由をもたらし、簡単には逃れられなくなっているようにも見える。過去には進歩的とみなされ、現在では当たり前の通念となった諸々は、私たちの認識や行動を、通念のテンプレートへとはめ込んでいるのではないだろうか。そのことに新しい生きづらさを感じている人、通念どおりに社会適応するために背伸びを余儀なくされる人、なかには力尽きてしまう人もいるのではないだろうか。
3 健康という普遍的価値
現代社会は価値観が多様化しているとは、よく言われることである。それでも、ほとんどの人が疑問を持つことなくシェアしている価値観や通念がないわけではない。健康はそのなかでも筆頭格のもので、これに肩を並べるほどの「普遍的価値」はそうざらにはない。
また、健康には優れているもの・見せびらかすに値するものといった、価値判断の次元で「良い」とみなされるイメージも付随している。
私達は健康でなければならなくなった。健康と長寿が、とにかく良いことであるとみなされるようになった一方で、何のための健康か、何のための長寿なのかは、どこまで顧みられているだろう?医療者は統計学的・生物学的なエビデンスに基づいて健康リスクを語るが、何が良いことで何が悪いことか、健康や長寿は何のためのもので、何のために生きるのかについては語らない。健康には「良い」という「普遍的価値」が伴い、不健康には経済的損失という資本主義のイデオロギーから見て「悪い」意味が伴うのだから、健康と、その結果としての長寿は誰もが大切にして当然のもの、大切にしなければならないものとみなされずにはいられない。
健康が手段ではなく目的となり、普遍的価値となり、その結果としての長寿が当たり前になった結果として、私たちの一人ひとりが「老後2000万円問題」を財務官僚のように考えなければならなくなった。健康を守り、個人の自由な経済活動に寄与するものであったはずの国とその制度が、健康長寿が当たり前になったことに伴う財政的負担にあえぎ、医療費の削減に躍起になっているのは皮肉なことである。
私たちは本心からそういう生を生きたがっていたのだろうか。それとも通念や習慣や制度に隷属するまま資本主義社会の歯車を回しているだけなのだろうか。
健康が社会制度に深く関わり合い、通年や習慣として皆に内面化されているこの社会のなかで、健康や長寿はいつでも私たちに味方してくれて、いつでも自由の守り手でいてくれるのだろうか。
4 リスクとしての子育て
秩序の行き届いた現代社会において子どもはリスクを想起させる存在であり続ける。
日本をはじめ、多くの先進国では少子化が進行しており、そのような国々では子育ては大きなリスクと表裏一体の営みと捉えられている。つまり、少子化が進行している国では必ず、親は子どもに細心の注意を払って当然とみなされ、虐待やネグレクトに対して社会も親自身も注意深くなければならない。と同時に、多くの家庭はますます子どもの教育に大きな投資を心がけるようになり、その投資に見あった成果を期待する視線を浴びながら子どもは育てられている。
ハイレベルな秩序を実現させた社会契約のなかでは、子どもとは、唐突に他人に迷惑や不快感を与えかねないリスクを含んだ存在だから、親はできるだけ子どものことで他人に迷惑や不快感を与えないよう、注意深く振る舞わなければならない。子ども自身も、他人に迷惑や不快感を与えないよう早くから期待され、そのように行動できなければならない。と同時に子どもはかつてないほど大切にされなければならなくなり、虐待やネグレクトは忌むべきものとなった。体罰が否定されるのはもちろん、日に日に高まっていく社会全体の敏感さに抵触しない子育てを成功させなければ、社会から親として不適格とみなされるおそれがある。そうした通念や習慣をどこまでも内面化している親たちは、子育てに瑕疵があれば罪悪感や劣等感に苛まれることになる。
子育てを、ひいては子どもを、資本主義や社会契約のロジック以外の視点でまなざせるものだろうか。一人ひとりブルジョワ的・資本主義的主体として徹底的に訓練されている現代人、とりわけ子どもをもうけたことのない現代人は、買い物や事業以上の意味や価値を子育てに見出せるものだろうか。
子育てにかけがえのない意味を見いだせるなら、やはり素晴らしいものである。だが、生まれながらにリスクやコストといった考え方に親しみ、骨の髄まで資本主義や社会契約のロジックを内面化している現代人が、みずからの価値観やイデオロギー体系では説明できず、可視化することも、値札をつけることもできない「子育ての意味」とやらを、いったいどうやって認識しえるだろうか。
5 秩序としての清潔
令和時代の日本は、今までのどの時代・地域と比べても法治が行き届いている。暴力は犯罪という理念そのものは昭和以前にもあったが、その理念に人々が従う度合いも、その理念からの逸脱が罰せられる度合いも、逸脱を観測するためのテクノロジーも、まるでレベルが違う。
そうした変化と並行して、私たちは清潔で臭わない身なりと、落ち着いた、他人に不安感や威圧感を与えない行動を身に付けていった。清潔であること、無臭であることまでもがまっとうな人間の条件とみなされ、不潔であったり臭ったりすれば「キモイ」「臭い」といった言葉が容赦なく投げかけられるようになった。
令和時代の日本社会の秩序と美しい街並み、そして私たちの非暴力的、かつ清潔志向で無臭志向な生活習慣は、お互いに迷惑をかけず、お互いに自由かつ快適に生活できるよう最適化されている。しかし、お互いに迷惑をかけないこと、お互いが自由に快適に暮らすことがあまりにも徹底された結果、この美しい街並みのなかでは、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は、ただそれだけで他人の自由で快適な暮らしを脅かしかねない存在、不安をもたらす存在として浮き上がってしまう。
日本で美しい街が出来上がっていくのと並行して出現したのが「かわいい」という存在だ。女性だけでなく、男性もかわいいが求められるようになった。男らしさではなく中性的で清潔、不安感を与えない「イケメン」男性が、世に受けるアイコンとなっている。
「かわいい」は好ましいものであると同時に、秩序である。かわいいはリスクを思い起こさせず、臭いや外観で他人に不快感を与えず、無害で受け入れられやすい。美しい街の景観に溶け込むのに適しているだけでなく、個と個がせめぎあう側面や干渉しあう側面をぎりぎりまで削り取った自由、東京風の自由のありかたとも合致している。社会の慣習や通念や自由のありかたに合致しているからこそ、「かわいい」は実際、日本社会においてどこまでも正しいのだ。
6 ならば何ができるのか
清潔で健康で道徳的な社会に慣れきってしまった私たちにとって、通念や習慣の外側、イデオロギーのオルタナティブを考えることは簡単ではなく、不道徳ですらあるかもしれない。
それでも私たちは、通念や習慣の奴隷になってはいけないし、現代社会のありようを当たり前だと思いすぎてはいけないのだと思う。法制度の枠組みを遵守し、空間設計に覆われながら暮らすことと、それらに盲従し、何も考えなくなることはイコールではない。自然科学領域のファクトと違って、ある社会、ある時代で常識とみなされている社会科学領域のファクトは永遠不変ではない。
どれほど清潔で健康で道徳的な社会になったとしても、コミュニケーションやディスカッションができなくなってしまえば、秩序は私たちをますます不自由へと、束縛へと連れ去ってしまうだろう。
わたしたちにはまだ、見知らぬ人、見知らぬ意見、見知らぬライフスタイルに出会ったり、驚いたり、影響を与えあったりする余地が残されている。そうした余地を生かし、そうした余地を守り続けていくことは、この世界に対する貢献のひとつであると私は信じている。
自由を実現させた社会を愛し、それを後世へと繋いでいきたいと願うなら、おかしな点はおかしいと指摘し、西洋社会の先人たちが積み重ねてきたのと同じように、あらゆるものを地道にアップデートさせなければならないはずである。資本主義や個人主義や社会契約といった、現代社会で最も正しいとみなされ、最も幅広い影響力を持ったイデオロギーについてもそれは例外ではないと考えて良いのではないだろうか。 -
Posted by ブクログ
個人の能力は個人のものとされる世の中で、子どもや後進を育てることに好き嫌いや義務感以外の動機が存在するとは想像しづらい。しかし別の動機が実は存在するという。それは他人の成長に自分が関与することで得られる充実感である。大人になればなるほど、自分の成長にかかる労力は増え、リターンは減る一方だが、子どもや未熟な人には大きな伸びしろがある。そこに労力を投入することは、成長への寄与感(喜び、嬉しさ)という形で、実は自分へのリターンも大きくなるのである、ということが書いてある。
そういうことはその立場になってみないと分からない事実であろう。実際、私も目からうろこであった。結構、衝撃的ですらあった。私は可愛い子ではなかったが、それでも両親が子育てを投げ出さずにいてくれた理由が初めて分かった気がした。
好きなことを極めること、個性を極めることなど個人最適が至上とされている社会で、このような他人に労力を投入することの重要なメリットを言ってくれる人は貴重。他人の成長に純粋な喜びを感じる人もいると知ると少し安心する。また、実際に自分がそちらの立場に立っても義務感だけでやっていかなくていいんだと思うとそれだけで肩の荷が下りた感じがする。
ーーー以下引用ーーー
ところが、「大人」の目線で「大人」を評価するとそうはならないのです。
私が実際に歳を取り、子どもの世話をしたり、年下に対して年齢や立場の違いを意識しながら向き合ったりするようになって気付いたことは、自分自身の変化や可能性を多少犠牲にしても、世話をした相手が成長し、変わっていくのを見ていると、そこに生き甲斐やモチベーションが強く生まれてくるということでした。p46
さて、そうやって「若者」の成長に驚き、彼らが現在の自分よりもあとの時代を生きていくことが肌で感じられるようになると、同じ時間、同じコストをかけてより成長できるのは、 自分ではなく年下のほうであり、同じ時間やコストを投下するなら、自分自身の成長にあてるより後進の育成に同じコストを投下したほうが、組織全体や社会全体で見れば伸びしろが大きく、新しいノウハウも蓄積させやすいと気付くときが来ます。p146
この心境のシフトチェンジを終えて、「大人」の側に辿り着いた人にとって、中年になってからの日々は悪いものではありません。むしろ、人生のなかで経験と体力のバランスが最 も取れた時期を、実り多いものとして体験できます。しかし、中年でありながら「若者」の側に留まるなら、自分自身の成長がだんだん停滞していく、喪失に満ちた時期として体験せざるを得ないでしょう。p151 -
Posted by ブクログ
ネタバレ清潔で道徳的、自由な生活を送っているはずの現在社会は、資本主義・個人主義・社会契約の3つの仕組みの中でがんじがらめに縛られ、その社会にふさわしい人間であることを義務付けられていてどんどん息苦しいものになっている、という内容。目新しい議論ではなく、昨今様々なところで指摘されている問題について著者の視点からまとめて問題提起にとどめているという感じ。
社会の分断という論点ではもっと話し合うしかないという意見だったけど、世界的に見れば移民問題やBLM、コロナなどを経てきてそういった穏当な解決がかなう段階にとどまっているのかはかなり疑問ではある。日本においても分断が緩和するようなビジョンってなかなか想像しにくい。
終わりには私たちが置かれている構造を意識しつつ、「舌を出して」その中で生きていくことで少しでも抗えたら…というような話があって、それってできたらいいけど一番難しいよなあとしみじみ思った。最近は思想信条によって見えている世界が全く違っている気がする。この本で、現代で一番生きやすくなったのは小柄な女性ではないかという話をしていたが、これも読む人によっては激怒して否定するだろう。たぶん著者も分かっていてわざと書いているだろうとすら思った(笑)。同じ地平に立つということが、どれほど難しいことか…。 -
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何者かになりたい
という、アイデンティティに対して抱えやすい気持ちに対しての心理傾向や対策の本。
何かを追い続けてしまう、満ち足りないと感じてしまう傾向があるが、今あるものに目を向ける、当たり前を当たり前と思わないということは大切にしたい。
○以下内容
何者かになりたいとはアイデンティティを獲得したい という気持ち
→アイデンティティと呼べるものを獲得することが解決策
麻雀やポーカーのような戦略
→手が揃いきっていない時は手を広く受ける
なりたい自分や目指したい自分を狭めず、手広く構えておくと、どれかになれやすい
恋愛以外の構成要素を揃えることで依存しなくなる
思春期までのプロセスがアイデンティティ問題に絡んでいる
自己選択をしたのか、言いなりになってきたのかが影響している。
当たり前すぎるかけがえのなさを大切にする
何者かになった時には、そうではない何者かにはなれなくなる。
→何者かになりきっていない時期は、まだいくつかの何者かになれる可能性がある時期
自分がなりたいものを目指せるこの時代の豊かさ
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現代におけるアイデンティティにおける概論。
目新しいと思ったのは、良く行くラーメン屋とか、健康な自分の身体、とかもアイデンティティとして分類していたこと。
そういったものはもっと下位の概念だと考えていたので。
まあ、これをそのまま真に受けてアイデンティティとするつもりは無いが。
逆に足りないと思ったのは、過去の出来事だったり、
あの時の記憶、思い出、経験なんかもアイデンティティとして成立するのでは?と思った。
筆者はあまりにも今にフォーカスし過ぎてる気がする。
例えばいろんなものを喪失した老人が、
幸せで他人の世話をできるのは、達観している訳では無くて、あの時の思い出、積み重ねてきた時間があるからでは?
ただ現代では戦略的にアイデンティティを獲得していく必要がある。というのと、アイデンティティは獲得と喪失を繰り返す。というのは確かにな。と思った。
まあ新しい発見と言うほどでも無いが、読んで自分の思考が整理されたので、読んだ価値はあった。
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タイトルの通り健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会である日本。でも、幸福度ランキングはとても低い。なぜか。その理由がこの本から見えたと思う。
健康的で清潔で道徳的でないと社会的に認められない世の中では、認められる自己実現の手段があまりにも狭められているのではないだろうか。
例えば、不健康で不潔なおじさんの幸福は社会的に認められないのがいまの日本なのではないだろうか。
その文脈で、かわいいが語られることは面白いと思った。ただルッキズムが、と批判するより日本におけるかわいいの存在価値について考えた上でルッキズムを批判した方が面白い。
そのほかには、ADHDの話やIQと炎上、建築と道徳の話がとても面白かった。建築様式から社会を見るのも面白いもんだな。
でも、読んでいて精神科医だからこそみえる具体例のディテールなど超個人的な話のようなものが出てこなくて、ずっと一般化された話を読んでいたので飽きてしまったのと、昔はいいぞ〜ていうおじさんの話を聞かされてる気分にもなった。
きになったのは、子育てについてで、多様性を本書では目指してるはずなのに誰しも子育てはしなきゃいけないみたいな考えに感じてそこは違和感。
じゃあこういう日本でどーしたらもっと幸福度が、生きやすさが増すんだろうな。
この本からその答えはあんまし見えてこなかった。
でも面白かった〜 -
Posted by ブクログ
ネタバレ何者かになりたいという欲求は、1度日の目を見たとしても、それが続いていくものであって、一過性のものではない。自分が何者であるかの証明書のような位置付けとしてアイデンティティというものがあり、得意なことや趣味などの構成要素が多いほど獲得しやすいが、失うことで何者でもないとの不安が募るもの。
昔見た知恵袋で、田舎のヤンキーは限られたテリトリーの中で仲間と相互に認め合う環境が築けている点で自己肯定感が高いのではないか、というQ&Aがあった。本著でも、周囲の人に認められる環境で育っていった人は、そもそも自分は何者でもないとか、何者かになるということを考えないのだという旨がある。
特に幼少期の親子関係・家庭環境は重要で、その後の社会適応性やメンタルヘルスの問題に大きく関係するらしい。また虐待やネグレクトを受けた子供は内向的になり、アイデンティティを獲得しようとする積極性ではなく、攻撃から自我を保つための保守性を獲得するのだという。ある実験で「学習された無気力」というものがあり、鎖に繋げた犬に電気ショックを与え続けると、鎖を外して電気ショックから逃れられることを覚えさせても電気ショックから逃れようとしなくなるというものだ。これは鎖が繋がれていた時の"逃れられない"という己の無能感を実感し、そのままそれが回復していないということを意味する。つまりは、人間においても同じことが起こるということだ。また、そういった親子関係や家庭環境に問題がある場合、どちらかに発達障害が疑われるケースが多々見受けられるそうだ。
社会に出てしばらくした後、子供を育てることに自分の意義を見出すといったアイデンティティもあるが、脱サラして新たなことを始めるという場合もある。面白いのは、ある分野で名のある人物の子供はそれと遠からず近からずな別分野にて偉業を成すケースが多いらしい。
結局のところ、何者にならずとも生きていくことは出来るし、悩んでいる内が花だということだ。 -
Posted by ブクログ
「何かで一番になりたい」と言っていた元恋人や、「人に影響力を与える人になりたい」という友人をを見て、なぜそんなにも承認欲求を抱えているのだろうかと日頃から考えていた。その気持ちが知りたくて手に取った一冊。人間誰しも、生きているのだから意味を見出したい、それが内なのか外なのかの違いだと思った。私はどちらかというと、自分で価値を決めたいし、周りから評価されても自分が納得できなければ意味がないと考える人間であるから、そういった見方もあるのかと学びになった。誰かに認められたいってのは一生続くんだと思ったし、それが人間なんだと思った。何者かになりたいというよりは、わかってほしい誰かをずっと探している自分は確かにいると思った。全く、人間て複雑なもんだ。
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Posted by ブクログ
現代では、社会に参加して活躍するために必要なコミュニケーション力などのスペックが、数10年前に比べても急激に高度になってきており、そのために、生得的にスペックの低い人は、社会に参加できず、また、日本の、特に東京などの都会では、社会構造や物理的な空間設計などにより、かつてのように、社会からドロップ・アウトして生きる余地も狭まってきており、社会福祉に組み込まれる以外の選択肢は極めて限られている。というのが、主な主張。
直感的には、そうかな、とも思わせるのだが、肝心な根拠があまり確かではない。
数値的な分析が難しい内容なので、新規の研究に基づくデータの提出が困難なのは、致し方ないかもしれないが、もうちょっと客観的なエビデンスがほしいと思った。特に、SNSの影響に関しては、著者の思い込みに基づく記述が目立つように思われる。 -
Posted by ブクログ
本書の長いタイトルにある通り、著者は現代日本を、健康的で、清潔で、秩序維持も図られている、そのような社会が相当程度実現した時代と捉えている。
著者は、昭和の時代と令和の時代の対比をラフスケッチで描きながら、何が、どのように変わってきたかを説いていく。
はみ出しっ子がADHDやASDと診断され、医療や福祉のサポートの対象となってくる、喫煙がかつては格好良かったのに、今では忌み嫌われるようになってしまうなど、健康が何よりもの価値とされる、子育ては地域の中で行われていたし、なにより子供に寛容だったのに、今では子供が悪いことや迷惑をかけないかに心配で、子育てがリスクに感じられるようになってきたことなどなど、私たちは一見快適な社会に暮らしていると思っているが、それは、誰にとっての、どのような条件の下でのものなのかを、著者は具体的に明らかにしていく。
かつてソフトな管理ということが言われた時代があったが、今やインターネットやSNSで、私たちはいつ、誰とでもつながれる自由を得たように思える一方、プラットフォームに制約されている。
橋の下で寝る自由が無くなってしまったことを、どう考えるべきなのか、具体的な方向性が示されている訳ではないが、現代社会を考える上で、示唆に富む一冊だと思う。