中村元のレビュー一覧
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ネタバレ「悟った人」に対する超能力者とか完璧な人というイメージが打ち壊されます。
まず、ブッダが非常に「気配りの人」だった事が分かります。
食あたりを起こした食べ物を提供したチュンダが死後周りから責められないようにしたり、号泣するアーナンダに言葉をかけたりと、やさしい気遣いを見せています。
次は、組織を運営する長としてのブッダです。
教団の問題児チャンナには清浄な罰を加えなさい、と指示したり、自分の死後の色々と細かい事を指示したりしています。
そして、感情も残っています。死んだ人の名前を次々と挙げ、死後どうなったのかといちいち聞いてくるアーナンダーに対して、いかにもウザイなあ、みたいな反応をしています。
【引用です】
さて、アーナンダーよ。人間たるものが死ぬというのは、不思議な事ではない。しかしもしもそれぞれの人が死んだときに、修行完成者に近づいて、この意義を尋ねるとしたら、これは修行完成者にとって煩わしいことである。
さらに、これは驚きました。
「うるさい事を言う人がいなくなって清々した」みたいな事を言う人が死の直後に教団の中に居て、それがブッダの神格化の波が著しい仏典に残されている事が、非常に衝撃でした。細かい事に口うるさい人だったのかもしれません。
【引用です】
さて年老いて出家したスパッダはそれらの修行僧にこのように言った。
「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。(このことはしてもよい。このことはしてはならない)といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれは何でもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」と。
悟りを開いた人として、超能者で奇跡を起こして欲しいという信者の願いに反して、「疲れた、横になりたい」を何度も口にして、最後は食あたりで死んだブッダ。
これを読むと、より偉大な存在に思え、是非本人から直接教えを受けたかったと思うはずです。 -
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お釈迦様の一代記である。
前半はブッダの生誕から壮年期くらいまでを多くのエピソードを交えながらわかりやすく展開し、後半は中村元氏の執筆のようだが(後半は秀逸である)、ややエッセイ風にお釈迦様の晩年を静かな筆致で書き進めており、全体として誰にでも読みやすい記述ながら極めて深い感動を呼ぶ作品となっている。
このように平易な書き方をしてはいるが、例えば家庭内暴力少年アジャータサットゥ(阿闍世)王子とビンビサーラ王、韋提希夫人の物語は『観無量寿経』に出てくるし、ブッダの最後の旅から入滅にいたる物語は『大パリニッバーナ経』にその記述を見ることができるなど、詳細に経典に則って描かれている。
さて、私はこの本を読んで、改めて「自灯明・法灯明」の部分が深く心に残った。ブッダは説く。「この世で自らを島とし自らをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな」と。私たちは、ややもすると誰かがこういったから私はこうしたなどと言い、場合によってはそれが言い訳になったり愚痴になったりするけれど、このブッダの言葉は彼が私に、心の芯の部分に灯している静かな灯明(私の根源)から、セイイチ、あなたはどう生きたいのか?と問うている気がして、はっとした。
日常、仕事をし、生活をしていく中で困難なことや辛いことが起こってくることが少なくなくて、まさにチュッラパンタカのように時に茫然自失、自信を無くしそうになることもあるけれど、常なるものは無く、人も状況もあらゆるものが移りゆき、次の局面では心温まる状況がひょこり生じるかもしれないことを思えば、私たちは「怠ることなく修行を完成し」なければならないのかもしれない。私に与えられた、生きていくという修行を。
ブッダは「この世は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」という。私はこの本で出会ったこのことばを大切に抱いて、生きていこうと思う。
ああ、遥かに声が聞こえる。その声はこう呼んでいる。
「来たれ、修行僧よ!」
PS:何より驚いたのは、お釈迦様の本物と思しきお骨が、名古屋市の日泰寺に収められているらしいことだ。
今度行ってみよっと。 -
Posted by ブクログ
初期仏教の聖典をわかり易く解説している。ゴータマ・シッダルタ、釈尊がその当時説かれたであろう教えに一番近いものとして伝わったものが阿含経典である。人間が生きていくうえで必要な教えが説かれている。現代においても重要で何度でも振り返って人生の杖にするべきものであろう。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。」
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。」(ダンマパダ) -
Posted by ブクログ
なんとなしに¥108だったから…だれかれとなく、仏教というものに触れてみたい、そんな気がしたからだった気がする。
お題目のように唱えられたり、写経されているこの般若心経。それを無駄とは言わないが、この般若心経は一種仏陀という男の境地であるから、実践以上のなにものからも、その境地は得られない。書いたり唱えたりすることだけで得られるのなら、誰も苦労しない。しかし、きわめて当たり前のこと。こんな当たり前のことをわざわざ書かなくても、存在するということそのものが、般若波羅蜜多なのだから。おそらく、哲学の境地というのは、一周まわってみたとき、当たり前が当たり前であると驚ける、そこにあるのだといつも思う。
生きるとか死ぬとか、ただのことばであったのだ。ただのことばとは言っても、そういうことばを人間がどういうわけか持っている。人間というものはどういうわけか、存在しないというものを考えられない。ということは、人間の成すこと、人間そのものが存在していなかった、存在しない存在だった、そういうことになる。そのように気づけるとき、なんといまここにある、ご縁の不思議さの愛おしいことか。
キリスト教は、神の偉大さを前にすることによって、人間存在を存在しないほどのところまで引き離す。理想と現実、善悪、彼岸と此岸、二元論となるのも納得できる。
逆に仏教にとっては、天地開闢はありえないのである。分けること自体がもう弥陀の本願から遠く離れてしまうのだ。ところが、どうも後世になるにしたがって、このことが間違って伝わってしまったらしい。天界に序列などない。少なくとも、仏陀はそんなもの想定する必要なかった。仏陀が偉大な存在に命じられて悟ったというのは、明らかに後世のフィクションである。末法を憂えたのはこのためである。教えが廃れるのではなく、教えを教えと信仰するところを彼は憂えたのである。
だが、仏陀のことばを伝えようとすることの方が価値があるとしたところは、仏陀の痛恨のミスであると思う。確かに、すべての人類が般若波羅蜜多に至るその時、これほど最高善に満ちた理想の世界はあるまい。そういう改革を目指したところは、イエス同様、情熱的な宗教家であると思う。般若波羅蜜多を掲げることで、理想を存在させたという点は極めて実践的である。だが、その状態をお題目にすることでそれが達成されるかはまた別の話で。仏陀自身が悠久の廻り道を経て辿り着いたその境地を唱えて達成できれば、はじめっからそうしている。総じて、宗教というものは形から入ることで、人間存在の変革を目指すところにあると思うが、どうにもそれだけでは足りないというか、不十分であるところに人間存在の不思議さがあるわけで。そこで、何はともあれ信じろ、と教義を持ち出すのである。宗教が詐欺に変わる瞬間である。
仏陀もずいぶん教祖として持ち上げられて苦労した事だろう。そんな面倒なことしなくても、この自分という存在があれば、世界は無限に耕せる。天上天下唯我独尊とはそういうものであったはずだ。
それにしてもこうやって、日本のことばで語り直そうという試みが今までになかったというところにも驚かされる。学問が寺の僧侶によって閉じ込められていたという点にも事情があると思う。だが、それ以外にも、そうした教えというものさえも、流れるものとして、信仰にできない、このお国の精神風土も関係あるんじゃないかと思っている。ある種、仏教さえも八百万のひとつであるかのように。 -
Posted by ブクログ
亡くなった同僚僧の名前を次々と上げて、彼らはどうなったんだと聞いたり、ブッダが死んだらどうしていいのかわからないと縋り付いたりする、アーナンダとのやり取りが印象的。
ブッダは、それに対して決して明確に死後について語らない。自らの老いや寿命を率直に説いて、人は皆死ぬんだと諭す。その上で、ただブッダとその教えを守って正しく生きよと説くのみ。
宗教と聞いて、思い浮かべる奇跡とか超人的な力とは全く別次元、普通の人間としてのやり取りがある。そして、この悩みや対話は、数千年を経た我々にも全く同じ質量感で迫ってきます。
実は、本書を読む前に、本書については、五木寛之さんの百寺巡礼のインド編とNHKの100分de名著という番組の2系統の解説に触れています。
私の印象は、ひとりの老いた人間としてのブッダに焦点を当てた五木さんの解説に寄るところが多いものです。
NHKの番組の方は、番組のコンセプトに沿ってか、サンガという組織論に重点が置かれていて、それはそれで興味深いのですが、私は五木さんの読み方の方が好きです。 -
Posted by ブクログ
数多い仏教書おうちで最も古い聖典といわれているのがこの「スッタニパータ」であります。
現在の仏教とは少し違う原始仏教のことを知りたくて、もっともブッダの発言に近いといわれているこの本が前々から読みたいなぁ~って思ってたんだけど、難しそうだなぁ~って思ってなかなか手をつけれないでいた。
きっと難しいんだろうと思い、気合を入れてエイヤーっ!っと読み始めたら、これがなかなか読みやすい。わかりやすい訳のおかげなんだけど、読みやすいし、これがおもしろいかった。
個人的に最も感銘を受けたのが「蛇の章 八、慈しみ」の中にあるこんな言葉です。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生きるものは、幸せであれ。
この万物に向けられたた慈しみの目。いやー、すばらしい。この心は大切にしなければなりません。 -
Posted by ブクログ
仏陀が大きな教団を作る前に説いた人生の道標。
人は生まれによってバラモンとなるのでなく、行為によってバラモンとなるのである。
理法に従って道を歩む「信仰」(saddha)が大切とされる。
チュンダに語った四種の修行者の話でソクラテスやイエスの言ってたことと本質的には一致するのではないかと思いました。
「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。
この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ
みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。
善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。 」
輪廻の思想や、仏陀に問いかけをする神神、惑わす悪魔など、文章から見ると壮大な背後世界を全く肯定しているような気もするが…。
中村元スゲー -
Posted by ブクログ
カテゴリの中に新たに「仏教」を追加した。
本から
五蓋 ― 貪欲、瞋り、心の沈むこと、心のそわそわすること、疑い
眼ある人 ― 一般に仏の異名
諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、知見を具えて、
諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母体に
宿ることがないであろう。
この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは
安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧に
よって生きるのが最上の生活である。
愛欲にともあって起こる、清く見える外形を捨てて考えよ。
(身は)不浄であると心に観じて、心をよく一つに統一せよ。
汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は
恐怖といわれる。何時の第七の軍隊は疑惑であり、汝の
第八の軍隊はみせかけと強情である。
善い人々は最上の善い説を説く。これが第一である。理法を
語れ、非法を語るな。これが第二である。好ましからぬことばを
語るな。これが第三である。真実を語れ、虚妄を語るな。
これが第四である。
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。
若い人も壮年の人も愚者も賢者も、すべて死に屈伏してしまう。
すべての者は必ず死に至る。かれらは死に捉えられてあの世に
去っていくが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。
見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、
人は1人づつ屠所へ引かれる牛のように連れ去られる。
このように世間の人々は死と老いといによって害われる。
されば賢者は、世のありさまを知って、悲しまない。汝は来た人の
道をしらず。また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両親を
見ないで、いたずらに悲泣する。迷妄にとらわれ自己を害している
意図が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、
賢者もそうするがよかろう。泣き悲しむことによっては心の平安は
得られない。ただますますかれには苦しみが生じ、身体がやつれる
だけである。みずから自己を害いながら、身はやせて醜くなる。
そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。泣き悲しむのは
無益である。憂いを捨てない人はますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを哭くならば、憂いに捕われてしまったのだ。
また自分のつくった業にしたがって死んで行く人々を見よ。
かれら生あるものどもは死に捕えられて、ここに慄えおののいている。
ひとびとがいろいろと念願しても、結果は意図とは異なったものとなる。
期待に背くこと、このとおりである。世のありさまを見よ。
たとい人が百年生きようとも、或いはそれ以上生きようとも、
終いには親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。
だから尊敬さるべき人のことばを聞いて、亡くなった死者を見ては、
「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」と悟って、悲しみを
嘆き去れ。
世に名とし姓とし附せられているものは、通称にすぎない。
(人の生まれた)その時々に附せられて、かりに設けられて
伝えられているのである。
人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を語って、その斧によって自分を断つのである。
害心なく清くして汚点のない人を憎むかの愚者には、必ず
悪がもどってくる。風に逆らって微細な塵を散らすようなものである。
独り坐すことと道の人に奉仕することとを学べ。聖者の道は
独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。
世間における種々なるかたちのあらゆる苦しみは生存の素因に
もとづいて生起する。実に知らないで生存の素因をつくる愚鈍者は
くりかえし苦しみを受ける。それ故に知り明らめて苦しみの生ずる
原因を観察し、素因をつくるな。
われは(昔さとりを開こうとした時に)愛執と嫌悪と貪欲(という三人の
魔女)を見ても、かれらと性の交わりを行いたいという欲望さえも
起こらなかった。大小便に満ちたこの女がそもそも何ものだろう。
わたしはそれに足で触れることさえも欲しない。
―安らぎを固執することもなく。
世の中における種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。
愛欲と憂いとの両者を捨て去ること。沈んだ気持ちを除くこと。
後悔をやめること。
ゴータマ・ブッダの説法 前約428年-383年