紀野一義の一覧
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ユーザーレビュー
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2種のお経の本文と現代語訳が書いてあるだけなので、これだけで素人が正確に意味を理解するのは難しいのかもしれませんが、豊富な注釈があるので丹念に読めばそれなりに頭に入ってきます。
般若心経の一部をつい忘れたときにすぐに参照するのにも便利です。
Posted by ブクログ
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鎌倉祖師たちの基となった天台教学を少しでも知りたくて読んだ。日本天台はほぼ智顗の直輸入らしく、知りたかった最澄の生涯についてはあまり触れられていない。ただ、やはり一向大乗戒壇設立については大きな功績として強調されていた。
智顗の教相判釈、法華経の構成や内容、華厳との違いが第一章で詳しく説明されて
...続きを読むいて勉強になる。
一見すると脇道にそれていくように思える西洋哲学、キリスト教、生物学、物理学などの話も、結局は天台思想に繋がっていく。これも「多即一」を表している?と思いながら興味深く読んだ。
Posted by ブクログ
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最高に面白かった
因果律であるところの「縁」を説く釈迦が
なぜ「無常」や「無我」などの因果を否定する
ようなことを話すのか………
その理解がとても深まった
後編でとても心に残るのは
ヤスパースが仏教学者に質問するシーン
オリエンタリズムがあるのは
むしろ西洋に憧れた東洋人にこそ
根強いのでは
...続きを読むないかと思わされる
Posted by ブクログ
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日蓮について最初に読む本であるとは思わないが、独自な視点がいくつかあり、必読文献である。
紀野一義は日蓮の人物像と信仰の本質を突く。
紀野に比べて、全体的にオーソドックスな梅原猛だが、日蓮の歴史哲学について触れる部分は独自性がある。日蓮は陰がないという指摘も意義深い。
昭和44年の著作なので、事
...続きを読む実関係はいくつか修正が必要な本。
・中世の祖師の蒸発時代の存在
・日蓮の意識の中で神々の存在は大きい
・日蓮は生涯の大事のとき、いつもひとりになろうとした
・「死して候はば、必ず各々をもたすけたてまつるべし」
・千日尼という名前は日蓮の命名
・「日本一のえせもの」
Posted by ブクログ
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なんとなしに¥108だったから…だれかれとなく、仏教というものに触れてみたい、そんな気がしたからだった気がする。
お題目のように唱えられたり、写経されているこの般若心経。それを無駄とは言わないが、この般若心経は一種仏陀という男の境地であるから、実践以上のなにものからも、その境地は得られない。書いたり
...続きを読む唱えたりすることだけで得られるのなら、誰も苦労しない。しかし、きわめて当たり前のこと。こんな当たり前のことをわざわざ書かなくても、存在するということそのものが、般若波羅蜜多なのだから。おそらく、哲学の境地というのは、一周まわってみたとき、当たり前が当たり前であると驚ける、そこにあるのだといつも思う。
生きるとか死ぬとか、ただのことばであったのだ。ただのことばとは言っても、そういうことばを人間がどういうわけか持っている。人間というものはどういうわけか、存在しないというものを考えられない。ということは、人間の成すこと、人間そのものが存在していなかった、存在しない存在だった、そういうことになる。そのように気づけるとき、なんといまここにある、ご縁の不思議さの愛おしいことか。
キリスト教は、神の偉大さを前にすることによって、人間存在を存在しないほどのところまで引き離す。理想と現実、善悪、彼岸と此岸、二元論となるのも納得できる。
逆に仏教にとっては、天地開闢はありえないのである。分けること自体がもう弥陀の本願から遠く離れてしまうのだ。ところが、どうも後世になるにしたがって、このことが間違って伝わってしまったらしい。天界に序列などない。少なくとも、仏陀はそんなもの想定する必要なかった。仏陀が偉大な存在に命じられて悟ったというのは、明らかに後世のフィクションである。末法を憂えたのはこのためである。教えが廃れるのではなく、教えを教えと信仰するところを彼は憂えたのである。
だが、仏陀のことばを伝えようとすることの方が価値があるとしたところは、仏陀の痛恨のミスであると思う。確かに、すべての人類が般若波羅蜜多に至るその時、これほど最高善に満ちた理想の世界はあるまい。そういう改革を目指したところは、イエス同様、情熱的な宗教家であると思う。般若波羅蜜多を掲げることで、理想を存在させたという点は極めて実践的である。だが、その状態をお題目にすることでそれが達成されるかはまた別の話で。仏陀自身が悠久の廻り道を経て辿り着いたその境地を唱えて達成できれば、はじめっからそうしている。総じて、宗教というものは形から入ることで、人間存在の変革を目指すところにあると思うが、どうにもそれだけでは足りないというか、不十分であるところに人間存在の不思議さがあるわけで。そこで、何はともあれ信じろ、と教義を持ち出すのである。宗教が詐欺に変わる瞬間である。
仏陀もずいぶん教祖として持ち上げられて苦労した事だろう。そんな面倒なことしなくても、この自分という存在があれば、世界は無限に耕せる。天上天下唯我独尊とはそういうものであったはずだ。
それにしてもこうやって、日本のことばで語り直そうという試みが今までになかったというところにも驚かされる。学問が寺の僧侶によって閉じ込められていたという点にも事情があると思う。だが、それ以外にも、そうした教えというものさえも、流れるものとして、信仰にできない、このお国の精神風土も関係あるんじゃないかと思っている。ある種、仏教さえも八百万のひとつであるかのように。
Posted by ブクログ
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