紀野一義のレビュー一覧
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日蓮について最初に読む本であるとは思わないが、独自な視点がいくつかあり、必読文献である。
紀野一義は日蓮の人物像と信仰の本質を突く。
紀野に比べて、全体的にオーソドックスな梅原猛だが、日蓮の歴史哲学について触れる部分は独自性がある。日蓮は陰がないという指摘も意義深い。
昭和44年の著作なので、事実関係はいくつか修正が必要な本。
・中世の祖師の蒸発時代の存在
・日蓮の意識の中で神々の存在は大きい
・日蓮は生涯の大事のとき、いつもひとりになろうとした
・「死して候はば、必ず各々をもたすけたてまつるべし」
・千日尼という名前は日蓮の命名
・「日本一のえせもの」 -
Posted by ブクログ
なんとなしに¥108だったから…だれかれとなく、仏教というものに触れてみたい、そんな気がしたからだった気がする。
お題目のように唱えられたり、写経されているこの般若心経。それを無駄とは言わないが、この般若心経は一種仏陀という男の境地であるから、実践以上のなにものからも、その境地は得られない。書いたり唱えたりすることだけで得られるのなら、誰も苦労しない。しかし、きわめて当たり前のこと。こんな当たり前のことをわざわざ書かなくても、存在するということそのものが、般若波羅蜜多なのだから。おそらく、哲学の境地というのは、一周まわってみたとき、当たり前が当たり前であると驚ける、そこにあるのだといつも思う。
生きるとか死ぬとか、ただのことばであったのだ。ただのことばとは言っても、そういうことばを人間がどういうわけか持っている。人間というものはどういうわけか、存在しないというものを考えられない。ということは、人間の成すこと、人間そのものが存在していなかった、存在しない存在だった、そういうことになる。そのように気づけるとき、なんといまここにある、ご縁の不思議さの愛おしいことか。
キリスト教は、神の偉大さを前にすることによって、人間存在を存在しないほどのところまで引き離す。理想と現実、善悪、彼岸と此岸、二元論となるのも納得できる。
逆に仏教にとっては、天地開闢はありえないのである。分けること自体がもう弥陀の本願から遠く離れてしまうのだ。ところが、どうも後世になるにしたがって、このことが間違って伝わってしまったらしい。天界に序列などない。少なくとも、仏陀はそんなもの想定する必要なかった。仏陀が偉大な存在に命じられて悟ったというのは、明らかに後世のフィクションである。末法を憂えたのはこのためである。教えが廃れるのではなく、教えを教えと信仰するところを彼は憂えたのである。
だが、仏陀のことばを伝えようとすることの方が価値があるとしたところは、仏陀の痛恨のミスであると思う。確かに、すべての人類が般若波羅蜜多に至るその時、これほど最高善に満ちた理想の世界はあるまい。そういう改革を目指したところは、イエス同様、情熱的な宗教家であると思う。般若波羅蜜多を掲げることで、理想を存在させたという点は極めて実践的である。だが、その状態をお題目にすることでそれが達成されるかはまた別の話で。仏陀自身が悠久の廻り道を経て辿り着いたその境地を唱えて達成できれば、はじめっからそうしている。総じて、宗教というものは形から入ることで、人間存在の変革を目指すところにあると思うが、どうにもそれだけでは足りないというか、不十分であるところに人間存在の不思議さがあるわけで。そこで、何はともあれ信じろ、と教義を持ち出すのである。宗教が詐欺に変わる瞬間である。
仏陀もずいぶん教祖として持ち上げられて苦労した事だろう。そんな面倒なことしなくても、この自分という存在があれば、世界は無限に耕せる。天上天下唯我独尊とはそういうものであったはずだ。
それにしてもこうやって、日本のことばで語り直そうという試みが今までになかったというところにも驚かされる。学問が寺の僧侶によって閉じ込められていたという点にも事情があると思う。だが、それ以外にも、そうした教えというものさえも、流れるものとして、信仰にできない、このお国の精神風土も関係あるんじゃないかと思っている。ある種、仏教さえも八百万のひとつであるかのように。 -
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紀野一義著「生きるのが下手な人たちへ」PHP文庫(2003)
*明日新でも悔いがないように、今日を生き切らねばならない。今日を良い加減に生きておいては、明日死ぬとき死んでも死に切れないのである。今日を最高に生きているかどうかは再三再四問わねばならぬことである。
*「澄む」ということは大切である。妻だから、子供だから、という甘ったれた根性を捨ててしまうことである。わが子に限ってとか、夫に限ってとかいった、思い上がった独りよがりな人間臭い捉われを、どこかで放り出して、謙虚に生かされているという思いを深くすることである。
*目に見えるものより、目に見えないものをしっかりと見つめて生きる。その生き方に徹すると、不思議にも思わぬところから救いが来たりする。
*人生をうまく立ち回り、名声と富を手にする人間は、とたんに目に見えないもののことを忘れてしまう。そういう人間は、目に見える僅かな世界をくるくる回っているだけである。
*人間はまわりの人々を支え、多くの人々の支えとなったときから、自分の命の周りに光の環を持つようになる。
*女性とは、男性にとって古里のようなものである。女性の中にはマリアがあり、観音がある。そこにまた男の夢と安らぎがある。真に優しく、深く、温かに、限りない愛に生きている女性は、そのまま光の環である。その中で男性は、理想に燃え、理法にいかされ、きびしく、激しく、強く生きることができるようになる。
*かなしみというものは、いつでも悲しいというものではない。うれしいけれどもかなしい、かなしいほど美しい、かなしいほど突き通っているという性格がある。
*祈るということは、愛するということである。 -
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紀野一義著「マンガ 仏教入門」サンマーク文庫(2003)
*八正道
①正見・・・とらわれの心を捨てて物事をありのままに正しく見ること
②正思唯・・・ものごとを正しく考え判断すること
③正語・・・正しい言葉を話すこと
④正業・・・正しい行いをすること
⑤正命・・・規則正しい生活をすること
⑥正精進・・・正しい努力をすること
⑦正念・・・正しい思いと目標をもつこと
⑧正定・・・心を正しく安定させ常に心を安らかにすること
*相違相関性を持っている縁起であるから独立した個として存在することは不可能である。
*あらゆるものが変化することを諸行無常といい相違相関性の空的存在を諸方無我といい、今の涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、つまりとらわれがなくなりまよいもなくなり平和で落ち着いた境地、合わせて3つを三法印という。仏教にはいろんな宗派があるがその教えの基礎は必ずこの三法印になっている。