あらすじ
戦争が勃発した……。世界を吹き荒れる帝国主義の嵐は、維新からわずか二十数年の小国を根底からゆさぶり、日本は朝鮮をめぐって大国・清と交戦状態に突入する。陸軍少佐・秋山好古は騎兵を率い、海軍少尉・真之も洋上に出撃した。一方、正岡子規は胸を病みながらも近代短歌・俳句を確立しようと、旧弊な勢力との対決を決意する。
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Posted by ブクログ
江戸時代の鎖国政策により、欧米に比べれば稀にみる平和が300年続いた日本。
列強の植民地政策に依り、いよいよ日本も安穏としては居られなくなり、明治という時代が幕を開いた。
遅ればせながら西洋の物まねで、急速に近代化のピッチを上げた明治時代の日本。
巻頭は、このような背景から、いかに日清戦争が起こったかを解り安く解説している。
西洋の列強は後進国のアジアの国々を帝国主義という名のもとに支配下に置くことに、その食指を伸ばしていた。
列強はシナをその支配下に置くことを熱望していた。しかし、「眠れる獅子」と言われる清国を刺激するのは躊躇われた。
しかし、日清戦争により、その弱さを露呈した清国に列強は群がった。
特に、イギリスとロシアはその食指を清国に動かした。
「清国の次に犯されるのは日本だ」と明治政府は危機感を抱いた。特にロシアは日本の侵略を計っていた。
江戸時代末期に、ロシアは幕府をないがしろにして、対馬藩に交渉し、その領地を租借するという名目のもと、軍艦を対馬に停泊し停泊地付近で略奪暴行を行った。
しかし、駐日英国公使がその艦隊勢力を背景にロシア側へ抗議し、ロシアの軍艦は去った。
あやうく対馬はロシアの領地になることを免れた。
明治になり、遅ればせながら列強の仲間入りをした日本。つい先日までチョンまげを結い、そのスネで歩いていた日本人を「猿」と西欧列強は馬鹿にしていた。
大いなる危機感を抱いた明治政府はその貧弱な財政にも関わらず、最新の軍艦二隻をイギリスに発注した。
明治時代の日本には軍艦の製造能力が無かった。「猿まね」と列強から揶揄された。しかし、帝国主義の領土侵略の恐怖から逃れるために、明治の日本は躍起に成っていた。
満州を占領した帝政ロシアは、いよいよその食指を日本へ動かし始めた。
この時代の帝国主義の侵略の嵐は何でもありだったのだろう。
現代においても、他国への侵略戦争は絶えない。
何百年経っても、人間の本質は変わらない。
次巻は、日清戦争が終わって、十年の月日が経ち、日露戦争へ突入する。
Posted by ブクログ
「たとえば、軍艦というものはいちど海洋航海に出て帰ってくると、船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんと落ちる。
人間もおなじで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵のとおなじ分量だけのかきがらが頭につく。
智恵だけとってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ。」
「人間だけではない。国も古びる、海軍も古びる。かきがらだらけになる。」
「山本権兵衛という海軍省の大番頭は、かきがらというものを知っている。日清戦争をはじめるにあたって、戊辰以来の元勲的な海軍幹部のほとんどを首切ってしまった。この大整理は海軍のかきがら落しじゃ。(中略)おかげで日本海軍の船あしは機敏で清国戦隊をどんどん沈めた」
秋山真之・正岡子規の会話より。
海軍や和歌の世界をひっくり返そうとするときの会話がすごく心に残った。
Posted by ブクログ
ついに日清戦争勃発。
開国から30年ほどしか経っていない日本がなぜ中国やロシアに勝つことができたのか。
それは新興国であり勢いに乗った日本独特の時代の空気感だったんだろうなと。
その渦中にいた若者は、学ぶこと=自分が国を作っていくということにつながることをよく理解していて、
ある意味恵まれた時代でだったのだろうなと思う。
正岡子規や秋山兄弟の思想にも学ぶべきことが多々あった。
今はこの時代のようにシンプルな時代ではないけれど、自分の考えを持ちそれを論じるということは力強く生きるために必要なことと思う。
秋山真之の長旅を続ければ続けるほど船に付着していく牡蠣が戦闘力を弱める、古いものはしっかり管理して都度クリーンにせねばならない
正岡子規の要は運用である(誰がやり始めたかではなく誰が使ったか)
マハンの真似するだけでなく原理原則を学ぶことが重要
など学びあり