【感想・ネタバレ】キリストの勝利──ローマ人の物語[電子版]XIVのレビュー

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背教者ユリアヌス

一部ご紹介します。
・キリスト教の多神教及び皇帝に対する勝利は、「皇帝がその地位に就くのも、権力を公使できるのも、神が認めたからであり、その神の意向を人間に伝えるのは、司教とされている以上、皇帝といえども司教の意に逆らうことはできない」時代の到来であった。
・絶対専制の弊害の一つは、主君の意向を臣下が勝手に推し測ることだ。
・宦官のやることは常に陰湿だ。
・全ての面で苛酷な現実の中で、精神のバランスを失わないで生きていくには、苛酷な現実とは離れた自分一人の世界を作り出せるかどうかにかかっている。ユリアヌスが救われたのは、昔のギリシャの哲学と文学の世界に遊ぶことができたからだ。暗記の結果の蔵書で、頭の中の図書館はいっぱいになっていたのである。彼は想像の世界で遊ぶことを知っていたおかげで、精神を傷つけることから免れることができた。
・他者に必要とされているという自覚は、非常な喜びを感じさせる。
・哲学の真髄は、知識ではなく思索にある。思索とは、体操が筋肉の鍛練であるのと同じで、頭脳の鍛練である。思いを巡らせる作業に頭脳を慣れさせることだ。思索することに慣れ親しんでいれば、対象にするのが哲学であろうと投機であろうと成功できる。
・ユリアヌス「人間世界の事柄の多くは、結果が良ければ、それは神々の援助のおかげであり、悪ければ、人間の誤りに帰されるのが常である。私はそれでも帝国の存在意義とは、そこに住む人々の安全と繁栄を保証することに尽きるとの確信で行動してきた。権力を手中にして以後の私の政策も、全てはこの目的を達成するために成されたことだけは、躊躇うことなく断言できる。」
・だが、次の皇帝は、ユリアヌスが定め実施した政策を無効とする法律を精力的に次々と交付していった。かくして若き皇帝ユリアヌスの努力は、無に帰したのである。
・ユリアヌスが「宗教が現世を支配する」一神教の弊害に気付いたのは、彼が、キリスト教の振興に誰よりも力を尽くしたコンスタンティヌス大帝の親族であり、長年にわたってその息子コンスタンティウスの政治を身近で見て、感ずることのできる環境に育ったからだと思う。この意味では、ユリアヌスに投げつけられ、今なおこの通称で続いている「背教者」という蔑称は、もしかしたら31歳で死んだこの反逆者に与えられた、最も輝かしい贈り名であるのかもしれない。

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2022年09月30日

Posted by ブクログ

ついにここまで読んだ、という感じではあるけれど、ここから暗い時代がやってくるんだな、と納得。
神がいて皇帝を認めるという、それだけの構造がキリスト教会を最高権力にした。簡単に言えばそういうことだが、皇帝が一神教の信者になるということの結末は神の勝利だったわけだ。
そしてこの長大な物語は「十字軍物語」へとつながる。西洋史の奥のところをしっかりと教えてもらいました。

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2010年09月22日

Posted by ブクログ

紀元337年、皇帝コンスタンティウスから、紀元395年皇帝テオドシウスの死まで。
「権力者に対する陰謀の成否の鍵は、排除した権力者の代わりに誰をその地位に就けるかにかかっている」
「アリウス派とアタナシウス派(カトリック)の対立、異教徒よりもキリスト教徒内の異端への憎悪、一神教の本質そのものが排他性にある」
「本音は脱税にある聖職者コースへの転出、キリスト教会に属する聖職者は免税にと決まった。地方自治体の有力者層が、雪崩を打ってキリスト教化した真因は、これにあった」
「ユリアヌス副帝就任、人間は社会的な動物である、他者に必要とされていると言う自覚は、非常な喜びを感じさせる。責任感と高揚感のカクテル」
「権力とは、他者をも自分の考えに沿って動かすことのできる力であって、、多くの人が共生する社会では不可欠な要素である」
「権力者には誰に対しても、初めのうちは歓呼を浴びせかけるのが民衆である。新任当初の好評くらい、あてにならないこともない。ひとまずは歓呼で迎えながら様子を見る」
「背教者ユリアヌス・・・宗教は現世の利益とは無関係の、個々人の魂を救済するためにのみ存在するもの、宗教が現世をも支配することに反対の声を上げたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人」
「ミラノ司教アンプロシウス・・・キリストへの振興は、無知な魂を救うのではなく、文明が崩壊した跡に、その過去の誤りを正す勇気を持つ人々の上に輝くことになる。・・・強引な論法とはしばしば、スタートしたばかりでマイナス面が明らかでないからこそ、可能で有効な戦術でもある」
「紀元388年、キリスト教ローマ帝国の国教に、テオドシウス帝、ローマ人の宗教として、あなた方はユピテルを良しとするか、それともキリストを良しとするか」
「一神教とは、自分が信じているのは正しい教えであるから、他の人もそれを信ずるべき、とする考えに立つ。多神教は、自分は信じていないが、信じている人がいる以上、自分もその人が信ずる教えの存在理由を認める、とする考え方。殉教は一神教徒にしか生じえない現象、多神教徒にはなじまない、イスラム教徒の自爆テロ」
「異端に対する理論武装マニュアルの確立、マニュアルが誰にとっても便利であるのは古今東西変わらない真実である」
「聖アンプロシウス・・・人間は何かにすがりたいから宗教を求める、唯一神にお願いするのははばかられるような身辺の雑事、キリスト教徒がモデルにするにふさわしい人、守護聖人、一神教は守りながら民衆の素朴な願望も満足させるという離れ業を見事なまでに成功させた」

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2011年12月25日

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滅び行くローマに哀感を漂わせつつ,『背教者』ユリアヌスの人となり,政治感覚を提供している。キリスト教って,何だかねえ・・・。

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2012年02月17日

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久しぶりにローマ皇帝らしい人物が登場したが、哀れな最後となる。教会がローマ皇帝の取捨/選択が可能な力を持つにいたり文明の停滞の始まりが訪れる。 皇帝ユリアヌスが長い政権を維持していたらもしかしたら人類の歴史は大きく変わっていたかもしれない。まったく偶然のことではあるが、このあたりのキリスト教(会?)の秘密を題材としたダビンチ・コードを直前に読んでいたので、ローマ帝国がどのようにキリスト教に侵食されていくのか興味深かった。

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2018年10月24日

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ローマ人の物語は、塩野ファンのみならず、どなたにもお勧めしたいシリーズ。この巻では、キリスト教がローマに正式に承認される。キリスト教徒には申し訳ないが、この一神教を信じることでローマは滅亡へと一気に転げ落ちてゆく。

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2018年10月23日

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皇帝コンスタンティウスからユリアヌス帝、テオドシウス帝の治世を描く。この期間は多神教であったローマがキリスト教という一神教に支配されていく過程でもある。ユリアヌス帝だけが、その問題に気づきローマをかつてのローマにしようと奮戦するが、結局その努力も水泡に帰してしまう。テオドシウス帝の時代になると、もはや皇帝は司教(羊飼い)の従順な羊でしかなくなる。著者がどこかで書いたようにキリスト教によるローマ帝国乗っ取り大作戦は成功したのである。

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2018年02月02日

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キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の息子、コンタンティウスから始まる歴史。疑心暗鬼に囚われ宦官にその挙を委ねるのは、滅亡への王道と言えば皮肉か。その後に現れたユリアヌス帝の必死の戦いや政治は、その対照となるがゆえに悲しく、はかない。と同時にキリスト教の勃興期における、「いい加減さ」を推し量ることができる。ローマの終焉を文章から感じるのは辛いものです。

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2012年08月12日

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権力による保護がなければ、キリスト教はここまで大きな宗教になっていなかったと思われる。弾圧されていた側が弾圧する側に回る皮肉。

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2011年03月26日

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 ユリアヌスは、辻邦生の著書によって大学時代の僕のアイドルであった。実を言うと、このシリーズを読み始めたのも、元はといえばユリアヌスとカエサルのおかげであるといってもいい。辻邦生とシェイクスピアである。

 だから僕にとってのこの巻は、いよいよ真打ち登場!とでも言うべきところなのだけど、読み終わってみればユリアヌスよりも、むしろその後に活躍した司教アンブロシウスのほうが印象に残った。

 まさにキリストの勝利を決定づけたこの司教の物語を読んでいると、宗教よりもむしろ、官僚のシステムとその中での出世について考える。そして、全く異なることではあるのだけれど、たとえば親密な共感で暖かい暮らしを送ってきた未開の村落に、冷徹な資本主義がどっと押し寄せてくるような印象を持った。

 ユリアヌスはやっぱり辻邦生の著作で楽しむとしよう。もちろん、塩野氏の、ややシニカルな描き方を持ってしても、わが青春のアイドルの輝きは曇ることはなかった。結局は、悲劇のヒーローでしかないにしても。

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2010年12月23日

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2010/07/16 古来のローマを守ろうとした最後の皇帝ユリアヌスへの、筆者の哀惜があふれている。帝王教育を受けず政治も軍事も経験がなくても、歴史と哲学を学び、帝国を背負う覚悟ができた人なのだろう。

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2010年07月17日

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アウグストゥスの政治を書く。偉大なるリーダー(カエサル)の後継となった人がいかに上手に統治したか。その答えは卓越したバランス感覚だといえる。例えば、独裁の終わり・共和制の復活を唱え、貴族階級の喝采を得る一方で、将来のために残しておきたい権限は残しておく。外部の統治に対してはカエサルが目指したものを踏襲し、有力部族を抑えて彼らの自治に任せるなど。締める&緩めるの絶妙なコンビネーションを使い、周囲の反感を買わないようにしながらも徐々に自分の目指すべき方向に導いていく手法はイヤらしい。(よい意味で)

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2017年01月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

コンスタンティヌス大帝の後のローマの混乱、そしてキリスト教の支配が確立する時代について著者は極めてキリスト教に批判的な考え方をしています。そういう意味では私には「違うだろう」という気持ちはあるのであうが、大帝の次男コンスタンティウス、背教者ユリアヌス、そしてテオドシウス大帝がどのように支配を確立していったかを示しています。そしてテオドシウス大帝以上に権力を持ったアンブロシウス司教が大帝との間でカロッサの屈辱に匹敵する事件を起こしていたということは新鮮な気持ちで読みました。この時代に既にキリスト教がそのようにして堕落の様相を呈していたということに人間の罪の深さを痛感します。著者が何度か書いていましたが、辻邦生の「背教者ユリアヌス」は私にとっても29年前の入院の際に読んだ印象深い懐かしい本であり、感動を覚えました。このシリーズもいよいよ後1冊で完了です。しかし著者の冴は少し欠いてきたように思います。キリスト教への偏見の大きさということを別にしても、余り新鮮な分析がないように思われたからです。

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2013年08月19日

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ローマ帝国、キリスト国教化が進む。
ギリシア・ローマ世界の終焉を迎える。
廃仏毀釈ではないが、多くの美術品、記録を残した書物が散逸する。
ルネサンス待ち遠し。

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2010年12月26日

Posted by ブクログ

 各章の名前は、コンスタティンウス、ユリアヌス、アンブロシウスの名前が冠せられている。ただ本文中の分量としては、ユリアヌスの記述が多く、コンスタティンウス、アンブロシウスの記述は少ない。
 なぜだろう?と考えて気がついた。この本はローマ帝国の歴史ではなく、「ローマ人」の物語なのだと。
 ユリアヌスはローマ人だが、コンスタンティウスもアンブロシウスもローマ人ではない、と著者は考えたのだろう。
 となると、13巻の「最後の努力」の意味合いも、ディオクレティアヌスに向けられているのだろう。コンスタテンティヌスはキリスト教優遇を明確にした時点でローマ人とは違うのだから。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

いよいよローマ帝国も、キリスト教に呑み込まれていく時代。最後に抵抗したのがユリアヌス皇帝ということで、おなじみの「背教者」ユリアヌス。。となるそうです。

学生時代に大枚はたいて購入したのだけど、あまりのボリュームに、読む気力が萎え、ずっと積読状態であった辻邦生さんの「背教者ユリアヌス」。ようやく読んでみようかという気になりました。
2006/2/1

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2009年10月07日

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