磯田道史のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
江戸の歴史にまつわる短文集。
江戸時代の識字率が高かったという話を無条件に信用すべきでない、という「日本人の識字率」は印象的だった。
たしかに、いわれてみると何をもって「識字」する状態だとみなすかは問題だ。
自分の名前や数字くらい読めたという人は6割を超えても、それが書ける人は約四割と下がり、出納帳がつけられる人となると十五パーセントくらいだとのこと。
当時の他国の状況との比較は具体的にされていなかったけれど、これまで「江戸時代の識字率は高かった」と無条件に信じてきたから、ショッキングな話だった。
江戸時代の左利きの割合はどれくらいか。
天皇、将軍、大名は何時くらいに起きていたのか。
こんな、ちょっとした、しかし調べるのが大変そうな話がたくさん出てきて、楽しい。
(漱石や鏡子夫人の起床時間をめぐる夫婦喧嘩の話も出てくるが…)
この間読んだばかりの、冲方丁「光圀伝」ともかかわる内容もあった。
家康が子どもたちに水練を熱心に仕込んだこと。その結果、尾張の徳川光友、水戸の徳川光圀など、大変な水練の達人が生まれたとのこと。
特に、光友が江戸の人々の前で、八丁堀に飛び込み、立ち泳ぎをしたまま食事して見せたという「昔話」のエピソードには、無性に笑える。
「光圀伝」では水戸藩(佐々介三郎)が作ったとされる「土芥寇讐記」。
当然のことながら、ここでは編者不明。
ああ、よかった。冲方さんのフィクションを信じ込んでしまうところだった。
タイトルだけ知っていた、磯田さんの「殿様の通信簿」は、この本に依るものだそうだ。
今度見かけたら読んでみよう。 -
Posted by ブクログ
著者は,『武士の家計簿』を書いた磯田道史氏。石川県人である私は,こちらの方を先に知っているので,「なんで,この先生が,こんな本を書くの?」と思ってしまった。
このあたりのことについて,著者は,あとがきで簡単に触れている。
「しかし,その間も常に災害史のことは頭にあって,武家文書の調査をしていても,地震や津波の資料があれば収集しておくことを20年間続けていた。本書はその積み重ねの成果である。」
なるほどで…である。
寒川氏の著作とはまたちがう視点で,過去の地震や津波災害を捉えていておもしろい。もしもあのとき,あの地震が無かったら,歴史はちがう展開になっていたかも知れない…と思う箇所もあった。
ただ,他の人がレビューでも書いているように,後半は,「先人に学ぶ防災」という感じになっていて,ちょっと「日本史を読みなおす」とは言えない内容だ。
でもでも,それもまた大切な情報であり,今後,私たちが「なぜ歴史を学ぶのか」を考える時の1つのヒントを与えてくれる内容であることは確かだ。
最後に紹介されている岩手県普代村の防潮堤と和村村長の話は,明治の話であるだけに,とても身に染みた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ本当なら、全61巻、12000ページあるという「実録」そのものを読みたいところではありますが、さすがに躊躇してしまうので、とりあえず昭和史の研究家の何人かが語っているこの本で概略をつかんでおこうと思いました。
・そもそも「実録」を残すというのは、古代中国の皇帝が亡くなった時に編纂する伝統が生まれ、その後朝鮮やベトナムにも広がったものだそうで、それでも平安時代には世界中で途絶え、復活したのは「孝明天皇紀」。その後「明治天皇紀」が編纂され、今や日本にしか残っていない伝統とのこと。
・特に昭和天皇は、世界を相手に戦争を行った昭和という時代の帝であるということから、その時天皇はどう判断し、どう行動していったのかを記録に残しておくのは、後世の日本に対して絶対に必要なことでありましょう。
・そんな難しいことはさておき、いくつか得られた知見をいくつか残しておこうと思います。
・昭和天皇がお生まれになったのは明治34年で、その養育担当としては、薩摩出身の川村伯爵なる人物がなったそうですが、その候補選びの中には、「花燃ゆ」に登場している小田村伊之助(楫取素彦男爵)も上がっていたそうな。伊之助は今ドラマで文の姉・寿と結婚しているが、今後、寿とは死別し、その後文と再婚して、維新後は明治天皇の皇女の養育担当になっていくらしい。
・幼少のころは、「世界すごろく」と「相撲」が大好き。動物や魚介類にも関心が高く、現物と図鑑を照らし合わせ、分類や名前を把握することに熱中されていたとのこと。また、イソップ物語を愛し、自ら創作もしていたとのこと。
・4歳の時に、日露戦争における日本海海戦(バルチック艦隊を破る)勝利の報告を受ける。昭和天皇は生まれた時から、軍人としての教育を受けて育つ。
・大正10年に皇太子としてヨーロッパを訪問。エッフェル塔に登ったり(塔を設計したエッフェルさんの案内)、初めて地下鉄に乗ったりしたそうで、「自分の花は欧州訪問の時だった」と晩年侍従長に回顧している。ちなみに、その欧州訪問には「天皇の料理番」も同行しているはず。
・天皇が即位された昭和の初めは、満州事変が勃発し、陸軍を中心に日本は中国大陸に進出。欧州訪問の際、第一次世界大戦の跡地を訪問して戦争の悲惨さを実感していた天皇は、陸軍の戦争拡大には大いに懸念を示していたようで、時には明確に反対の意思表示もされていたよう。
・特に国際連盟脱退のきっかけとなった「熱河作戦」の取消には、相当頑張って内閣や軍に「中止」を求めたようですが、軍部からクーデターまがいの脅しを受けて相当苦悩したとのこと。ここでもう少し天皇が頑張って作戦を中止させていれば、その後の軍の暴走は止められたかもしれないとのこと。まだ若かった天皇にはそれが出来なかったのでしょう。
・天皇は「日独伊三国同盟」にも反対され、再三政府に政府に問いただしたが、その時の松岡外務大臣が延々とその利を説明し、その中で、いずれソ連を加えた「日独伊ソ4ケ国同盟」にする作戦を聞かされる。ヨーロッパはドイツとイタリア、東欧はソ連、アジアは日本が抑えれば、アメリカは戦争に参加できなくなる、という構想。
・しかしその構想は進まず、やがて日米間での戦争が避けられない状況の中で、天皇は最後まで「交渉」による戦争回避を望まれ、ローマ法王による調停の可能性まで言及されている。また、開戦を推していたのは陸軍だけで、海軍は勝ち目なしと判断、政府自身も反対姿勢をとっていた。その天皇がいつ、開戦やむなしと決断したのかについては、この実録でも実際には述べられていない。
・この本の中で解説している半藤一利は、その決断は真珠湾攻撃開始の1ケ月前の11月8日、その日行われた東条英機首相らからの説明で、初めて真珠湾攻撃が準備されていることを知り、「そこまで進んでいるならやむなし」と。
・ただ、その際、天皇が「この戦争の大義は何か?」という問いに対し、東条は「目下研究中にて、いずれ奏上する」と答えている。欧米が支配するアジアを解放して「大東亜共栄圏を作る」という大義は全くの虚構であったようです。
・そして真珠湾攻撃のその日。天皇は午前3時には起き、作戦部隊である海軍の軍服を着て「トラトラトラ」の報告を聞く。決心したうえは、大元帥として勝たねばならぬ、という決意だったのでしょう。
・最初は優勢に進めた戦争ですが、やがて劣勢となってきて、軍部はミッドウェイ海戦や本土空襲について、あるいは国内の兵器状況や食料状況について、天皇には偽装した内容、水増しした内容を報告。一方天皇は、実はアメリカの短波放送を通じて世界の戦況を直接聞いており、状況は把握していたとのこと。また、戦力の把握についても戦力査閲使を使って把握していたとのこと。
・天皇が敗戦を覚悟したきっかけの一つとして、皇太后からの叱責があったとのこと。空襲がはげしくなり、天皇が皇太后に疎開を進めた際、母である皇太后は「私は何があろうと帝都を去らない」とピシャリと断った。これは皇太后から戦争責任を厳しく問われたこととなり、その直後天皇は一両日病床につかれてしまったそう。その後広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦してきて、敗戦を決意したのではないかと。
・日本の政治判断は、常に天皇に責任が及ばぬように、内閣が決定しそれを天皇が承認する形で進めてきましたが、この敗戦だけは天皇が決断される。今後本土決戦を視野に入れた戦争継続か、無条件降伏かを内閣で審議した結果、結論付けることができず、当時の鈴木首相が、天皇にご判断を仰ぐということでそれは実現。このシナリオは、実は鈴木首相と天皇との合作によったとのこと。
と、ページをめくりながらつらづらと記載してきましたが、これまで本や映画でしか昭和の歴史を知らなかった自分としては、随分生々しい天皇に関する情報がいっぱいで、非常に興味深く読みました。その時、その時の天皇のご判断がどうだったのかはについてよくわかりませんが、なんにせよ、今後この「実録」は、昭和を研究する学者たちにとって極めて貴重な資料になることでしょう。 -
Posted by ブクログ
2014年に刊行された昭和天皇実録についての対談集。少年時代の遊びや叱られたこと、乃木希典への敬慕。欧州遊学。摂政として国の舵取り。熱河作戦の阻止失敗。2.26事件への対応と石原莞爾への不信。三国同盟と松岡洋右。開戦への気持ちの変化と軍部への不信。嘘の上奏ばかりで短波放送を聞いて情報を得る。終戦工作と陸軍への説得。大元帥と天皇と大天皇。マッカーサーとの信頼。沖縄基地問題。A級戦犯の靖国合祀問題。実録は後世への歴史責任を果たす為、かなり中立に抑制的に書いてある。また天皇の生の感情も抑制的に書いてある。六国史に連なる国紀が書かれていることの重要性。24年掛けた大作に感謝。
-
Posted by ブクログ
まあ名言集だけども
名言そのものより
日本に例えば江戸時代に
こんな人がいたのか
著者は良く見つけたなという驚きが先に立つ
昔だって小さい国が多数あって
それぞれ統治されていたのだ
名君賢人がいてもおかしくないけども
すごいなとしかいいようがない
以下名言メモ
牛田権三郎
万人があきれはてたる値が出ればそれが高下の界なりけり
佐藤一斎
学を為すには,人の之を強うるをまたず。必ずや心に感興する所有って之を為す。
馬越恭平
心配すべし。心痛すべからず。
内田百閒
知らないという事と忘れたという事は違う。忘れるには学問をしなければならない。忘れた後に本当の学問の効果が残る。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ鎖国はロシア船打ち払い時に作られた「祖法」で、鎖国を選んだ幕府は民命を重んじ、結果的に江戸後期の文化繁栄をもたらした。
民を重んじる意識は天明の飢饉時の治安の荒廃に一端があり、これをきっかけとして幕府の施策が収奪式から、税金を得た分民にも施しを与える民富論に転換していった。
江戸時代の安定した農業社会は、東日本大震災並の、宝永の大地震がきっかけであり、バブル的な新田開発から環境配慮の農村社会へと成熟させていった。
そもそも、江戸が平和な時代になったのは島原の乱における住民大量虐殺、それによる支配階級の困窮があったためで、「平和な江戸時代」は、生類憐みの令によって完成される。
わかりやすい本。 -
Posted by ブクログ
参謀総長の梅津が戦後も生き残り敗戦文書の署名もしたのに、なぜ陸相の阿南だけが直後に自決したのか長年よく理解できなかったのだが、クーデター計画を阿南が持ちかけ梅津は同調しなかったという経緯があったとは驚く。半藤も知っていて伏せていたかのような話しぶりでサラッと流されているが、本書を読んで一番の新発見だった。
どうも気になるのはこの対談・鼎談を読んでいると、日米開戦前の天皇は軍部と一人で直接対峙していたように見えてしまう。奈良や本庄ら侍従武官は登場するが、木戸や牧野ら宮中内臣の影響力が全く見えてこない。そのために天皇の態度の揺らぎが「どうお考えだったんでしょうかねぇ」といった個人の内面の迷いとして処理されてしまい、ブレーン達の意見の齟齬や事態の推移に従った彼らの保身も含めた軌道修正等、複雑な事実の蓄積として映らないのだ。
実録自体が本当にそんな書き方になっているのだろうか。大いに疑問であるがこの大著に挑戦する予定は今のところ無い。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「歴史には裏がある。歴史には闇がある」、そして「歴史は勝者によって書かれる」はチャーチルの言葉だ。そこから見えてくる歴史家磯田氏の見えざる世界と逸話・真理(気になる史実・かもしれない事実)をかいつまんで見た。
ー明智光秀は土岐氏一族の出身ではなく朝倉から細川家、その後織田信長に仕えた
ー豊臣秀頼の実父は秀吉ではない(中国出兵の際に淀殿が懐妊しており、秀吉は祈祷師を追い払い周辺の男女30名を火炙りの刑に処した)
ー家康の二条城建築物を小さめにした(家康は当初「大きすぎる」と怒った、その理由は敵に取られた時に困る)
ー江戸の売春価格は600文(3万円)、江戸の宿泊代は1日あたり400文(2万円)、江戸と大阪往復約40日の旅費は食事・宿泊等含め80万円かかった
ー鼠小僧は「義賊」ではない。武家屋敷の女奥だけを狙い大名119家に侵入、強奪、酒食遊興と賭博で散財。庶民にばら撒いてはいない
ー最後の女性天皇、後桜町天皇(1770年3月に引退)