野島秀勝のレビュー一覧
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リア王は立派な王だと思って読んでみたが、少しも立派ではなかった。いわゆる一人の父親であり、遺産を娘たちに分与する資産家に過ぎなかった。
リア王以外に立派な人がいたかは難しい。遺産を拒んだコーディーリアか、王に苦言申し上げたケント伯だろうか。でも、結局、いなかったのかもしれない。立派さに力点をおく作品ではないから。強いて言えば、あの嵐が立派だったのかもしれない。
序盤は話がぶつぶつして煮え切らないのが、グロスター伯の目が潰れた辺りから、急速にまとまっていく展開だった。最後は悲劇ということらしいのだが、そして、誰も居なくなったわけでもないので、喜劇になりそうな気もする。まぁ、リア王にとっては悲劇だとしても。 -
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ネタバレデンマークの王座をめぐる復讐悲劇。
父王を殺された王子ハムレット。
王を殺害し、王妃と結婚して王座を手に入れた王弟クローディアス。
国務大臣ポローニアスの娘オフィーリアとハムレットは恋仲であったが、その恋は引き裂かれ、ハムレットはクローディアスへの復讐を決意する。
狂気を装うハムレットに失望したオフィーリアは入水自殺?し、それを知りハムレットに復讐しようとする兄レアティーズ。
レアティーズにハムレットを殺害させようとクローディアスはたくらみ、毒を塗った剣で対決させるが、そのもくろみは失敗し、ハムレット・レアティーズ・クローディアス、王妃ガートルード全員が死亡。 -
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・主人公ハムレットの人格が魅力的だった。不貞の罪を犯した母への忌まわしさと、その母の血が流れている自分自身の穢れの感覚に煩悶しながら復讐に進む主人公には、若者らしい潔癖さと深情の優しさが感じられた。狂人を装いながら、度々口にする気の利いた皮肉も、大学生だという主人公の知性が表れていて、魅力的だ。
ルルーシュみたいな感じ、と言うと卑近すぎるかもしれないけど、ググると製作陣も意識しているらしい。
・後述の脚注で逐次説明されているが、繰り返し登場するキーワードやイメージが、表現を強力にしていて、巧みだった。
・クライマックスの剣術試合は、サスペンスの効果が巧みで引き込まれずにはいられないし、青年二人の決闘は、問答無用で格好いい。ハムレットには黒、レアティーズには白の衣装で戦ってほしい。(ルルーシュとスザクみたいだけれど…。)
・演劇ならではの効果(が発揮されているであろう箇所)は、想像力を働かせないと理解できない部分が多いように思った。シェイクスピアが活躍したグローブ座は、東京にも再現されているらしいので、いつか行ってみたい。普通イメージする劇場と違って円筒形をしていて、平土間は屋根が無い(空が見える)。
・内容からは離れるけれど、脚注と巻末の補注を使って、原文のダブルミーニングや構成の妙、時代背景等々を解説してくれているので、理解を深めるのにとても助かった。注であっても、訳者の熱意が伝わる書きぶりで、退屈ではないと思う。ただ、底本がどうだという話も多いものの、門外漢なのでそこは追う気力が無かった。 -
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とにかく「精読」、引用ばっか、でも…ーー
引用が非常に多い。自説の主張が乏しい。
結局は何が言いたいのか?そればかり気になっていたが、気づいた。
「読み込む事によって、小説の醍醐味をとことん感じろ!」ってことだ。
引用の分量に比べ圧倒的に少ないが、
ナボコフの鋭い(時に鋭すぎる!)指摘がそこここに散りばめられていて、盲を開かれることが沢山。
その表現が典雅で詩的な表現で書かれていて、読んでいてふくよかな気持ちをもたらしてくれる。
・・・とてもじゃないが本書のレビューなんか書けんわw どだい無理なはなしw
・・・結局、世界文学の"超"名作を(断片的ながらも)感受させてくれたことには、いくら感謝しても足りない。
敬愛しまくるプルーストの「失われて〜」に関しては読んでいた頃(10年前)の感動を蘇らせてくれた。
そして憧れながらいまだ読んでいない(そしてこれからも読むことはないだろう)「ユリシーズ」に関しても、その魅力や叙述の圧倒的力を(断片的ながら)疑似体験させてもらった。
「ユリシーズ」の結末の引用で、思わず知らず泣きそうになった!あまりに良すぎて、つまり感動して!!
この感動をもたらしてくれただけでも、この一冊は忘れがたいものになった。
本棚に大切に収納します。 -
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ナボコフが大学で行った講義のメモを、編集者がまとめたもの。どうやら残されたノートはかなり断片的であるらしく、この本を読んでいても、小説についての「まとめ」の批評が無いままに終わる章が多く、アレ?という気にさせられる。ナボコフはきっとアドリブで、講義の最後を華麗にまとめたのだろう。
取り上げられた「世界文学」のうち、オースティンの『マンスフィールド荘園』だけは読んだことがない。他は読んだとは言ってもかなり昔のことで、再読もほとんどしていない。ナボコフは再読を「良い読者」の条件の一つに挙げているので、私はぜんぜん、良い読者ではない。
芸術としての小説という観点にナボコフは厳しく絞り込むので、いわゆる「思想」を中心にしたような作品は退ける。だからドストエフスキーは嫌いらしい。ドストエフスキーは思想というより各人物の意識の異様な粘着と互いの確執にその面白さがあるのだと、私は思うのだが・・・。
どうやらナボコフはとりわけ、ディケンズとフローベールを賞賛しているようだ。カフカについても、彼に比べればリルケもトーマス・マンも「小石か石膏の聖人像のようなもの」と形無しである。こういったあたりも、どうもナボコフの断言は偏ったところがある。
そのカフカ『変身』の読解だが、ザムザの家族、虫に変わったザムザを見捨てた父母と妹について、ナボコフは「俗物」として批判している。しかし、私の理解ではこの読み方はカフカにふさわしくない。カフカは明らかに、彼ら(ナボコフの言う俗人)の方を称揚しているのだ。だからこそ、明るい未来へと向かう妹の姿が、結末において燦然と輝くのだ。カフカは自己を無化し、他者たちの他者性の世界を、なんのわだかまりも屈折も卑下もなく、賞賛した。このリアルで冷たく、一切の弁解を拒絶する「自己の死」こそがカフカ文学の本質なのではないか。ナボコフはそこに至らなかったのではないだろうか。
ジョイスの『ユリシーズ』については、全部の章を順に取り上げ、細かく解説を加えている。いつか『ユリシーズ』を再読することがあったら、参考になるかもしれない。
全般に、ナボコフの文学観は、意味内容(思想や教訓)ではなく作品の構造や文体に絞り込まれているという点で、構造主義や脱構築を思わせる面もある。しかし決定的に違うのは、やはりその読解には「味」の比重が極めて大きくなっているということだ。つまり知が最優先ではないということ。
ナボコフの好みはちょっと偏っているようにも思えるが、毅然として「好み」を貫き通すというのは、小説家ナボコフにとっては当然のことだったのだろう。 -
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リア王と言うと嘘つき娘と正直娘の話しのように思われているが、実はもっと深い「人間の性」が引き起こす悲劇として描かれている。
権力への執着は、人間にもともと兼ね備わったものであるし、それに加え男女の愛憎も、この権力争いの中に織り込まれている。
ラストで、ほとんどのキャラクターが死んで行く悲劇を観て、観客の感じるものは人間の愚かしさであり、またそれが自分の中にもあることへの戦慄であろう。
悲劇の救いとなろうと予想された、末娘のコーディーリアの愛情や、リア王の家臣のケントの忠義さえも、この悲劇の中に飲み込まれていく。
詰まるところ、救いのない悲劇である。
どのようにして、この悲劇を回避すべきかは、観客に投げ与えられるのだ。
権力の魔性の恐ろしさは、愛情や忠義すらも無力なものにしてしまう。
シェークスピアは、まずはこの人間の本性に秘められた恐ろしさを、ニヒリスティックに観客に伝えたかったのかも知れない。 -
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ネタバレエドマンドにはめられ逃亡中のエドガーと、娘2人に命を狙われコーディーリアへにしたことを後悔して狂いはじめるリア王、それぞれ物語りの裏と表が進行していて、展開がとてもドラマティックな印象を受けた
作中何度も繰り返される'nothing'の言葉の意味。無から生まれる有。つまりコーディーリアの愛、という解釈、この「リア王」のテーマはそこなのだろうか
わたしは、作中でもでてくる「運命の女神の歯車」がきれいに一周したイメージを抱いた。つまり最初に権力も知恵もあった者、有体に言えば勝ち組が、中盤では他人の策略に落ち、落ちぶれるが、最後には本質を取り戻す。
不変なものはなにひとつない(nothing)、運命の本流に流されるまま物語は転がる、そのなかでたったひとつぶれない無言で(nothing)
示すコーディーリアの愛情、それに気づくリア王、しかし最後に舞台に残る者はだれもいない。壮大なトラジェディ。
なんて全然シェイクスピア詳しくない自分ですが、さまざまな学者さんのすばらしい解釈が溢れるなか恐れ多くも感想をここに投下
4大悲劇全部読み終わりました。喜劇読むぞー たのしみ!