海音寺潮五郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
この方は好き嫌いが激しいと思われる。
歴史に忠実かもしれないが、武将列伝で加藤清正を師団長レベルの人間と書いており、清正好きの私にはなぜこの人の話を書くのかという疑問が消せずに読んだ。
そのためか、説明が多く、著者の考えを述べることが多く、小説として入り込めない。
思ったより、加藤清正が悪くかかれてはおらず、ほっとしたが、これよりは池波さんの著書の清正の方がかっこいい。
著者の伊達正宗は尻切れトンボで終わっており、ネットでその理由があまり好きでない武将について連載したので、連載約束期間の終了とともに終わらせたのではないかと書いてあった。
私生活でも、直木賞などを巡って、池波さんを酷評するな -
Posted by ブクログ
京で将軍義輝に会い、朝廷から従四位下近衛少将に任ぜられて春日山に帰国した景虎は、翌永禄3年(1560)7月、房州の里見氏より北条氏康の侵略を訴えられ、関東出陣を決めた。氏康は武田晴信に景虎攻略を依頼、晴信もまた、加賀・越中の一向宗徒に越後侵入を頼んだ。景虎の大軍は小田原城を包囲したが、城中の守りは固く、囲みを解いて鎌倉に向い、八幡宮神前で景虎の関東管領就任式が行われ、憲政から上杉の家督も譲られて、名を政虎と改めた。そして、永禄4年8月、上杉・武田両軍は川中島でついに一大決戦の時を迎えた。放生月毛の馬を駆り、単騎武田陣営に突入する政虎。その時、春日山城下の病床では、政虎の心の妻乃美が、その武運を
-
Posted by ブクログ
天文22年(1553)、長尾晴景が府中で病死した。その葬儀を済ませた景虎に、信州からもどった諜者が、武田晴信の北信進攻を知らせた。そして8月、景虎は柿崎和泉守を主将とする軍を川中島に出動させたが、晴信の攻撃でさんざんに撃破された。戦さを始めて、初の不覚だった。憤りと恥辱に体を火のようにさせながら、景虎は、晴信の武略に舌を巻いた。甲信両軍の対決、引き分けがくり返されるうち、時は過ぎ、永禄2年(1559)、京の将軍足利義輝の密使が景虎に至急の上洛を告げて来た。三好長慶、松永久秀の専横に将軍の権位が失墜、政情不穏の気配だった。景虎は、武田晴信に和睦を固める使者を差し向け、4月、青葉の越後路を京に向け
-
Posted by ブクログ
天文12年(1543)、長尾晴景の家老昭田常陸介は三条の長尾俊景に内通、晴景に反旗をひるがえし、14歳の景虎は春日山城での防戦に初陣を飾った。そして、城を脱出して身を寄せた琵琶島の宇佐美定行の許で、その娘乃美を知った。翌年、景虎は近国の形勢視察のため旅に出、甲州御坂峠で、狩装束で馬をうたせるりりしい若武者を見かけた。24歳の武田晴信、のちの信玄だった。三条勢らとの戦いに連勝する景虎は、毘沙門天を熱烈に信仰、女を近づけず、律僧のような日々を送るが、酒色に溺れる兄晴景は、その名声の高まりにしだいに不快の思いを強めた。
2003年11月4日再読