多田道太郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
「遊び」という言葉の指し示す範囲は莫大である。生存本能には関係ないが、ヒトが本能的にやってしまうこと全てを「遊び」だと考えれば、例えばアートは見る側も作る側も遊びだと言える。
遊びについて論じた本としてはホイジンガによる『ホモ・ルーデンス』が有名だ。それまで遊びとは文化の堕落形態としてみなされていたが、ホイジンガの「文化は遊びの中で始まった」という考えが革新を起こした。カイヨワも根本的には近い立場を取るが、本書はより、遊びそのものの叙述や分類に重きを置く。
都市生活の中で非日常的な気持ちの昂りが得られないのは、コミュニティの祭りに参加することがなくなってきているからでは、と本書を読んで思う。祭りでお面をつける、他者になり変わる、真似が憑依になり錯乱と熱狂を引き起こし、それが終わって暫く経つと意識を取り戻す、というような経験がいまの都市にない。渋谷のハロウィンは馬鹿にされるけど、意外とそういう良い機会になっているのだろうか。 -
Posted by ブクログ
ネタバレカイヨワの『遊びと人間』は、遊びという現象を通して人間の文化や社会を読み解こうとした野心的な試みです。
本書の真骨頂は、遊びを単なる子どもの営みや余暇活動としてではなく、社会の根本的な営みとして捉え直したことにあります。特に印象的なのは、遊びと文明の関係についての考察です。
カイヨワは遊びを4つのカテゴリー(アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクス)に分類しましたが、これは単なる分類に留まりません。彼の分析によれば、文明の発展とともに、アゴン(競争)とアレア(運)が支配的になり、ミミクリ(模倣)とイリンクス(眩暈)は周縁化されていく傾向があります。例えば、前近代社会では重要な役割を果たしていた仮面や憑依の儀式(ミミクリとイリンクスの結合)は、近代社会では演劇やスポーツといった制度化された形式に置き換わっていきます。
特に興味深いのは、遊びの「堕落」についての議論です。遊びの各カテゴリーには、社会化された形式とその逸脱形態があるとカイヨワは指摘します。例えば:
・アゴン(競争)は、スポーツから暴力への堕落
・アレア(運)は、くじから迷信への堕落
・ミミクリ(模倿)は、演劇から人格分裂への堕落
・イリンクス(眩暈)は、スキーからアルコール中毒への堕落
この分析は、現代社会の病理を理解する上で示唆に富んでいます。例えば、ギャンブル依存症は、アレアが社会的に容認された形式を逸脱した例として理解できます。
また、パイディア(自由な遊び)からルドゥス(規則のある遊び)への連続性についての考察も刺激的です。文化は、自由な遊戯衝動が次第に制度化されていく過程として捉えられます。例えば、子どもの即興的な「ごっこ遊び」から、演劇という芸術形式が生まれるように。ここには文化の生成過程についての深い洞察が含まれています。
さらに、カイヨワは各種の遊びが持つ教育的機能にも注目します。子どもたちは遊びを通じて、競争の規則(アゴン)、運命への対処(アレア)、役割演技(ミミクリ)、身体的制御(イリンクス)を学んでいく。これは現代の教育論にも重要な示唆を与えます。
本書の価値は、現代社会を分析する際の視座としても際立っています。例えば、SNSにおける自己演出はミミクリの現代的展開として、スマートフォンゲームの課金システムはアレアとアゴンの融合として分析できるかもしれません。 -
Posted by ブクログ
お、おもしれぇ〜…!150年以上前の作品だからもっとお堅いのかなと思って面白さはあんまり求めてなかったけど、なにせミシュレ自身がバスティーユのたった9年後に生まれて周りに革命経験者がゴロゴロ居る時代に育ってるもんだから臨場感がすごい
でも最初のミシュレの説明にも何回も書いてあったけど、まあ俯瞰した本であるかというとそうではない
フランスのこと愛しすぎて、全世界からフランスが愛されてるというのを何回も言っちゃうの可愛い
ただ、生きた描写であるが故、土地の名前や人の名前が「お馴染みの」みたいな感じで特に説明もなくポンポン出てくるので、WikipediaとGoogleマップを見ながら読んでたの結構疲れたな笑
人物や出来事を整理するために、notionでフランス革命についてまとめ始めました。
下巻も楽しみ! -
Posted by ブクログ
『フランス革命史』抄訳の第二分冊。ルイ16世の処刑から、ロベスピエールの処刑(テルミドールのクーデタ)までを扱う。革命の指導者たちが、革命裁判や暗殺によって次々に命を落としていくさまが克明に描かれてゆく。マラーやダントン亡きあと、一時的に全権力をロベスピエールが掌握したが、それも1年と持たない。ミシュレはテロルを対外情勢や国内情勢が要請した不可避のものとして描き出す――これはのちにフュレが「状況の論理」と呼んだものだろう――が、それでもロベスピエールの負の側面を描き出すことを忘れなかった。しかし、ミシュレが「フランス革命」の歴史をテルミドールのクーデタ、したがってロベスピエールの処刑によって閉じていることは印象的である。テロルという負の側面はあったにせよ、テロルのあとに来るのが軍人政治の時代、ナポレオンの時代であることを示唆しながら、ミシュレは「革命」の歴史を閉じた。ここに、革命の主役は人民であるというミシュレの基本的な理念が反映されている。
-
Posted by ブクログ
著名なフランス革命史の抄訳。上巻では、全国三部会招集からヴァルミーの勝利および共和国宣言までが扱われる。トクヴィルが『旧体制と大革命』で、革命とは距離を取りながら行政システムの連続性を浮彫りにし、革命が革命以前から始まっていたと考えたとすれば、ミシュレが強調するのは革命による「人民」の革命的変化であり、人々が突如情念に突き動かされ、共和国樹立へと邁進していく姿である。その限りで、「共和派」の歴史叙述と言われるに相応しい内容である。ミシュレにおいては、革命当時から国外では非難轟々であった人民の直接行動でさえ、革命の友愛精神の現れであり、ジャコバン派の支配も状況による不可避の選択である。歴史が共和政を最終目的としているという確信が、革命時の様々な残虐行為でさえも、共和政に向かうプロセスの一部として許容されることになる。
-
Posted by ブクログ
ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』をうけて、「遊び」の定義をより広く、より細かくとるべきと指摘した一冊。
アゴン(競争)、アレア(賭け)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)の四分類と遊び手の姿勢を表すルドゥスとパイディアの二分類。
本書では主に前者の四分類に焦点を当て、遊びの分類を示した後は、文明の発展とそれら四分類の結びつきを論じている。
ミミクリとイリンクス、すなわち宗教的な儀式やそれに伴うある種のトランス状態が社会を動かす前近代、そこに理性が加わることで自らの手による能力や地位によって社会的な地位を得るアゴンと生まれつきの身分差や能力の差を左右するアレア(運)的な要因が近代的な社会において重要視されている、と論を展開。
遊び論というよりは遊びを用いた社会学といった印象。
訳が読みづらい。
訳者解説は未読。