あらすじ
なぜ人間は遊ぶのか。人は夢、詩、神話とともに、遊びによって超現実の世界を創る。現代フランスの代表的知識人といわれるカイヨワは、遊びの独自の価値を理性の光に照らすことで、より豊かになると考え、非合理も最も合理的に語ってみせる。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示し、これを基点に文化の発達を考察した。遊びの純粋な像を描き出した遊戯論の名著。
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Posted by ブクログ
遊びを概念的に考える上で、ロジェ・カイヨワの本書は必読です。
社会学の中で「遊び」とか楽しさを確立した第一人者だと思っています。
ちょっと難しい内容もありますが、ギリギリ読み込める。
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ううっ
遊びを、ルドゥスとパイディアがあるとして、遊びの中のアレア(あてっこ系)、ミミックリ(真似っこ系)、イリンクス(ぐるぐる系)、アゴーン(喧嘩系)それぞれにさう言ふのがあると分析。
本著に出てくるナニがー、北欧とかから輸入されててー嫌。
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まじめに遊びを考える一冊。
遊びを1.アゴン(競争)、2.アレア(運だめし)、3.ミミクリ(模擬)、4.イリンクス(目眩)に分類し、世界中のサンプルを当てはめ検証す る。まさに女の子がする「ままごと」なん てミミクリまんまっすよね。
遊びによって文化が始まるのではなく、遊びの中に文化があるとは至言ではないで しょうか。
見返りや目的といった制約を越えて遊ぶという究極に、「思いで作り」の儚さや脆さと儚く脆いからこそ、一瞬に永遠を求める人の姿を見た気がしました。
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遊びの種類をアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(めまい)の四つの要素に分けて解説する。
また社会的慣例、習慣、祭儀が単純化して遊びとなったり、現行のそれらが遊びとして取り入れられたりしていることを指摘する。
また遊びの初期の無秩序・歓喜の段階をパイディア、ルールが形づくられ一種のスペクタクル的な障害物として存在するようになった段階をルドゥスとして、この二つに前段の四つの要素が絡み合う様子を概観する。
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「遊び」という言葉の指し示す範囲は莫大である。生存本能には関係ないが、ヒトが本能的にやってしまうこと全てを「遊び」だと考えれば、例えばアートは見る側も作る側も遊びだと言える。
遊びについて論じた本としてはホイジンガによる『ホモ・ルーデンス』が有名だ。それまで遊びとは文化の堕落形態としてみなされていたが、ホイジンガの「文化は遊びの中で始まった」という考えが革新を起こした。カイヨワも根本的には近い立場を取るが、本書はより、遊びそのものの叙述や分類に重きを置く。
都市生活の中で非日常的な気持ちの昂りが得られないのは、コミュニティの祭りに参加することがなくなってきているからでは、と本書を読んで思う。祭りでお面をつける、他者になり変わる、真似が憑依になり錯乱と熱狂を引き起こし、それが終わって暫く経つと意識を取り戻す、というような経験がいまの都市にない。渋谷のハロウィンは馬鹿にされるけど、意外とそういう良い機会になっているのだろうか。
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遊びを4種類に分類して論じており、興味深かった。ルネ・ジラールは共同体の団結から破滅までの4過程と、本社における4分類の一致を見ており、遊びこそが人間を人間たらしめているというロジェ・カイヨワの主張にある種の説得力をもたらしている。
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カイヨワの『遊びと人間』は、遊びという現象を通して人間の文化や社会を読み解こうとした野心的な試みです。
本書の真骨頂は、遊びを単なる子どもの営みや余暇活動としてではなく、社会の根本的な営みとして捉え直したことにあります。特に印象的なのは、遊びと文明の関係についての考察です。
カイヨワは遊びを4つのカテゴリー(アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクス)に分類しましたが、これは単なる分類に留まりません。彼の分析によれば、文明の発展とともに、アゴン(競争)とアレア(運)が支配的になり、ミミクリ(模倣)とイリンクス(眩暈)は周縁化されていく傾向があります。例えば、前近代社会では重要な役割を果たしていた仮面や憑依の儀式(ミミクリとイリンクスの結合)は、近代社会では演劇やスポーツといった制度化された形式に置き換わっていきます。
特に興味深いのは、遊びの「堕落」についての議論です。遊びの各カテゴリーには、社会化された形式とその逸脱形態があるとカイヨワは指摘します。例えば:
・アゴン(競争)は、スポーツから暴力への堕落
・アレア(運)は、くじから迷信への堕落
・ミミクリ(模倿)は、演劇から人格分裂への堕落
・イリンクス(眩暈)は、スキーからアルコール中毒への堕落
この分析は、現代社会の病理を理解する上で示唆に富んでいます。例えば、ギャンブル依存症は、アレアが社会的に容認された形式を逸脱した例として理解できます。
また、パイディア(自由な遊び)からルドゥス(規則のある遊び)への連続性についての考察も刺激的です。文化は、自由な遊戯衝動が次第に制度化されていく過程として捉えられます。例えば、子どもの即興的な「ごっこ遊び」から、演劇という芸術形式が生まれるように。ここには文化の生成過程についての深い洞察が含まれています。
さらに、カイヨワは各種の遊びが持つ教育的機能にも注目します。子どもたちは遊びを通じて、競争の規則(アゴン)、運命への対処(アレア)、役割演技(ミミクリ)、身体的制御(イリンクス)を学んでいく。これは現代の教育論にも重要な示唆を与えます。
本書の価値は、現代社会を分析する際の視座としても際立っています。例えば、SNSにおける自己演出はミミクリの現代的展開として、スマートフォンゲームの課金システムはアレアとアゴンの融合として分析できるかもしれません。
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遊びの原理的な部分が解説されている。
4つの遊びのタイプの組み合わせが書かれている第2部は考えさせられることも多い。
筆者には”遊び”の地域性についても考察して欲しかった。
Posted by ブクログ
遊びを四種類に分類(競技、運、模倣、眩暈みたいな感じだった)、かつその組合せによるものとするのがなるほどなという感じだった。
また、遊びの定義の一つに現実世界からの遊離みたいなのも非常に共感できた。現実世界というか、実世界に支障をきたすものはもはや遊びではないとか
Posted by ブクログ
遊びについての古典。ホイジンガと比較すると、遊びの範囲を狭くとっている。ホイジンガは、あらゆる文化活動の基底に遊びをみたが、カイヨワは基本的に無償性を重視しており、「何も生み出さない」という点が重要だとしている。この限定によって、彼の有名な遊びの分類、アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクス(あとパイデイアとルドゥス)が成立しえたのだろう。
重要な本ではあるが、考察の躍動性という点でいえばホイジンガが勝っている。
Posted by ブクログ
ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』をうけて、「遊び」の定義をより広く、より細かくとるべきと指摘した一冊。
アゴン(競争)、アレア(賭け)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)の四分類と遊び手の姿勢を表すルドゥスとパイディアの二分類。
本書では主に前者の四分類に焦点を当て、遊びの分類を示した後は、文明の発展とそれら四分類の結びつきを論じている。
ミミクリとイリンクス、すなわち宗教的な儀式やそれに伴うある種のトランス状態が社会を動かす前近代、そこに理性が加わることで自らの手による能力や地位によって社会的な地位を得るアゴンと生まれつきの身分差や能力の差を左右するアレア(運)的な要因が近代的な社会において重要視されている、と論を展開。
遊び論というよりは遊びを用いた社会学といった印象。
訳が読みづらい。
訳者解説は未読。
Posted by ブクログ
遊びについて、先人のホイジンガの説も取り上げながらその分類や文化との関わりについて述べられた本。文章は非常に難解であるが、特に文化に関する分析は興味深い。多くの地域の事例を基に示された、ミミクリ・イリンクスの原始的文明からアレア・アゴンの秩序文明への改革のくだりは、遊びに対する新たな一面を気づかせてくれた。
Posted by ブクログ
2009/9/19ジュンク堂で購入
2009/
買うかな・・・。
ホイジンガの名著ホモ・ルーデンスを土台として、自説を発展させた本である。(澁澤龍彦)