木田元のレビュー一覧
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おなじ著者の『現代の哲学』(講談社学術文庫)の姉妹編です。
「哲学」はどの文化圏でもどの時代でも通用する普遍的な知を意味すると考えられてきました。しかし、19世紀の終わりから20世紀にかけて、こうした「哲学」の見方を解体する試みが多く現われてきたと著者はいいます。本書のタイトルになっている「反哲学史」ということばは、こうした観点から「哲学」という知の様式の歴史を解体する企てを意味しています。
ソクラテス以前の哲学者たちは「自然」についての思索をおこないました。ただしこの「自然」は、こんにち自然科学が対象としているような自然ではなく、人間や神々さえも含めたすべての存在者の真の本性、つまりすべての存在者をそのようにあらしめている本性を意味していたと著者はいいます。彼らは、こうした意味でのあらゆる存在者の本性を、それ自身によっておのずから生成消滅すると考えていました。いわば彼らは「生きた自然観」をもっていたのだと著者は述べています。
こうした自然観は、しかしながら、ソフィストたちの登場と、それにつづくソクラテス、プラトンの「哲学」によって覆い隠されてしまうことになります。とくにプラトンの哲学は、現実の自然の外に超自然的原理を設定し、それに照準を合わせながらこの自然を見てゆくという発想に立っていました。ここに登場したのが、超自然的で形而上学的な原理としての「哲学」であり、それ以後の西洋哲学の歴史は、こうした形而上学的思考様式に則って展開されることになります。
著者はこうした見方をハイデガーの存在の歴史に関する思想から継承しているのですが、本書ではハイデガーの「存在の歴史」についての立ち入った議論はなされていません。本書では省かれているハイデガーの哲学史の見方については、『哲学と反哲学』(岩波現代文庫)や、著者のハイデガー哲学の解説書などにくわしく書かれています。 -
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ネタバレ現象学についてフッサールからハイデガーへの流れ、メルローポンティの思想が大まかに書かれてある。
哲学の歴史や一応の哲学的知識があまりないので読むのが難しかった。
メルローポンティは全体を一つという考え方でアフォーダンスに繋がっているような気がする。
最後の6ページは作者の現象学に対する期待と希望が現れていて感銘を受けた。
一部抜粋する。
「現象学とは、世界のなか、歴史のなかでのわれわれの経験に問いかけ、その意味を解読しようとする果てしない努力である。いいかえれば、(略)全体的経験の文脈のなかで個々の経験が何を言おうとしているのか、何を意味しようとしているのかを、不断に問いつづけようということである。」
さて、現象学やその他の哲学に社会的意味は必要なのかと疑問には思ったが。 -
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現象学やハイデガーの研究で知られる著者が、自身の生涯を振り返りながら、若い読者に向けて人性について語った本です。
終戦直後にはテキ屋で働き、農林専門学校に入学するもほとんど勉強せず遊んでばかりいたのが、ドストエフスキーの文学に出会いハイデガーの『存在と時間』を読みたいという一心で猛勉強し、東北大学で哲学を学ぶようになる経緯は、類まれな生涯というほかありません。
そんな著者ですが、「やりたいことが分からない」という若者たちに対して苦言を呈するということはありません。ただしそれは、「優しさ」というよりも「おおらかさ」といいたくなるようなまなざしで、巷の若者論とはかなり違う印象を受けます。 -
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著者の語学習得のコツを改めて知りたいと思い読みました。でも本書の後半は人生一般(恋愛、仕事、子育て、死)について記してあるので、読んで良かったなと思いました。基本的にこの著者はどの本を買っても(哲学専門書を除けば)、大概書いてあることは一緒なので、もし読むのであればどれか気に入った本一冊を読めば十分かと思います。僕も大学院時代にこの人の本を何冊か読んだことがありますが、やはり内容はあまり変わりませんでした。
僕の勝手な持論ですが、自分が麻雀をすることもあり、作家にしても学者にしても芸能人にしても麻雀をする(していた)人は何となく信用がおける。「何か好きだな」って、特に本を読んでて感じる著者の人は、麻雀をしていた人が多い。僕の指導教員もそうだし、この著者もそうだ。「教授なのに、勉強ばっかりしてないで(麻雀などをする)、遊び(余裕)を知っている人なんだな」という感じがするから。
この著者は高校時の英語はもちろん、大学1年時に独語、2年時にギリシヤ語、3年時にラテン語、大学院1年に仏語を習得した人で、各外国(古典)語を習得する過程が凄まじい。やはり語学は繰り返し、そして短期間集中なんだと改めて思う。それができなきゃ苦労しないけど。
本書の後半が、恋愛、仕事、子育て、死について著者が思うことをエッセイ風に書いている。
・愛について
愛についてギリシャでは「エロス」、「アガペー」、「フィリア」という3つの語があり、特に「エロス」とは「まだ自分のものになっていないものを何とか手に入れようと、どこまでも追い求めていく愛」だそうで、「フィロ(愛)ソフィア(知)」は「知」が自分のものになっていないからこそ、それを何とか自分のものにしようとすることで、知を愛し求める以上、「愛知者」はまだ知を所有していないわけで、それが「無知」を自覚する(有名な「無知の知」です)ことだ、との記載に「なるほど」と、改めて感じました。そして、今まで意味がよくわからなかった『惜しみなく愛は奪ふ』という語句の意味が腑におちた感じがしました。
・仕事について
著者は「働かなくてはいけない」というのは、脅迫観念ではないか、と問う。自分が好きなことをして、最低限食べていけるだけのお金があれば、それで良いじゃないか、と提言する。70歳以上でこういうことを言える人ってほとんどいないんじゃないだろうか。
・子育てについて
親は子供が好きなことを見つけるのを見守り、好きなことを見つけて、その対象に夢中になれば、それを応援するだけで良い。何かを押し付けるものではなく、子供の自発性に任せるべきだという。
・死について
著者は自分が研究してきたハイデガーの考え方より、サルトルやメルロ=ポンティに共感を覚えるという。
ハイデガーは「死とは、現存在(=人間のこと)がこれ以上存在できないという究極の可能性」と言っている一方、サルトルは死は「可能性」なんてものではなく、「私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様、私の死、つまり私が死ぬということも、理解したり、それに対処することなどできない不条理な事実」であると解している。
死についてのハイデガーの分析に僕は影響を受けてるし、唸る。でも人生を考えた時には、僕はサルトルに共感を覚えるのだ。
生も死も不条理であり以上、どうやって生きていったら良いのか、(自殺しないのであれば)存在し続けないといけないという苦しみは20代前半から消えることがない。
・余談
ニーチェと妹の仲について疑問に思っていたが、まさか近親相姦の可能性もあったとは知りませんでした。
ガンを経験した著者が70歳を超え、改めて感じた心境が率直に述べられていて、得ることがありました。
著者は序章で、人類・人間の将来について、かなり悲観的に考えている。将来のことは誰にもわからないが、この本を読んで、「哲学なんて人生の役に立たない」ということがわかるのではないでしょうか。 -
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哲学者・木田さんの半生を振り返るエッセイのような本でした。おじいちゃんの話をを聴かせて頂いている感じです。
2008年の本で、そのときに80歳だった、
東北大学卒、中央大学哲学科の教授、木田元さんの、
主に自分史を語った本でした。
哲学の入門書かかな、なんて読んでみたら、自伝だったので
面食らいましたが、語りを文字に起こすという形での執筆のようで、
平易な文章で読みやすかったです。ぺろっと読めちゃった。
序盤にちらっと昨今の世の中の動きについて触れているのですが、
わかったような感じでとにかく言葉にするという姿勢ではなく、
わからないことをちゃんと見据えて、深入りせずに軽く語っていました、
そういうところを読んで、さすがに哲学をやってきただけあって、
慎重なのかなと思いました。やっぱり研究をしている人っていうのは
そんな感じなのかなぁ。ただ、そういう人って、
ちゃんとわかったことに対しては深く理解しているような
ところがありますよね。間違いなくそうだっていう確信をもって
研究されている雰囲気を感じます。
さっきも書きましたように、哲学者や哲学に触れてはいるものの、
自伝的な本なので、哲学の教授をやったおじいちゃんのお話を
拝聴しているというような本でした。
なるほどね、そういう人生もあったのか、という聞き手のような
読み方がされる。
また、けっこう高校生とか、若い人を読者に考えて話しているのかなぁ
と読めるところもあるのですが、そうじゃないところもでてきて、
読者層は広く計算しているのかもしれない。
筆者はドイツの哲学者のハイデガーを中心に哲学にふれていますが、
ハイデガーがどんな哲学を世に示したかについては、
まったくといっていいほど触れられていません。
それについては他の本を読んでくださいということなんでしょう。
そういった意味で、哲学に触れたいと思った人には物足りない本です。
まぁ、でも、興味をひくような意味合いはありますかねぇ。
そのうち、余裕があるときにでも、哲学を話題にした本を読んでみようと思います。
こういう人が学者さんになるんだなっていうことを知るには
良い本かもしれません。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
江田島の海軍兵学校で終戦を迎え、あてもなく焼け跡の東京へ。
テキ屋の手先や闇屋をしながら、何があっても食べていける術は身につけた。
しかし、いかに生きるべきかという悩みは深まるばかりの青年期。
ドストエフスキー、キルケゴール、やがてハイデガーの『存在と時間』に難問解決の糸口を見出す。
それから半世紀以上を経て、はたして答えは見つかったのだろうか──。
八十歳を迎えた哲学者が、波瀾の運命をふり返りながら、幸福、学問、恋愛、死生観までを縦横に語る。
著者は哲学の勉強をはじめるまで、農林専門学校に通うなど、さんざんまわり道をしてきた。そしてハイデガー思想を理解したいために、カントやヘーゲル、フッサール、メルロ=ポンティという具合に何十年もまわり道をした、と言う。
しかし、まわり道をしたからこそ、新しい道が開けてきたのだと思う、と回想する。
思いきり悩み、迷いながらも、力強く生きることの大切さを教えてくれる好著である。
[ 目次 ]
序章 「幸福」なんて求めない
第1章 混乱の時代を生き抜いてきた
第2章 思いきり悩み、迷えばいい
第3章 頭より体力が基本だ!
第4章 哲学者だって女性に惑った
第5章 人生ずっと、まわり道
第6章 遊びも一所懸命
第7章 好きなことをして生きる道
終章 死ぬための生き方
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
戦前~終戦直後(サンフランシスコ講和条約あたりまで)の生き方・価値観は現代と全く違っている。理性的な語り口でこのあたりを描ける著者は貴重だ。
著者らは13歳~16歳くらいでもう一人前に仕事をする。現代からみると「しっかりした大人」という印象がある。したがって、単純に年齢で人物を推し量るのは無意味であることがわかる。すなわち「もう二十歳なんだからしっかりしなさい!」という叱咤は無効である。人々が社会に適応するスピード・傾向・強さはビックリするほど相対的だ。
本の大部分は怒涛の生い立ち(この部分はスゴイ)と哲学史。まえがきにあるような現代人の疑問についてはもう少し書いて欲しかった。何気なく書いてある語学学習のコツは興味深い。 -
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現象学の入門書であり、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティー、レヴィ・ストロースなどの現代思想を学ぶことができる。たいへん為になる本である。また、ヘーゲルやマルクス主義との関係なども興味深くよんだ。どうも現象学運動というのは、結論がないようだが、中国の陽明学に似ている。「意識とはつまり何かに対する意志」というような言い回しは、「意の在る所はすなわち物なり」(『傳習録』)であり、「われわれの身体は世界において、ちょうど生物体における心のような位置を占めている」(152頁)などは、「復はそれ天地の心を見るか」(『易』復)と似ている。
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『現代の哲学』というタイトルについては、説明が必要だろう。フッサールの現象学が心理学の方法論上の基礎づけという動機から成立したように、19世紀以降の哲学は、自然科学・心理学・言語学・人類学・精神分析学などの諸学問との交流の中で形成されてきた。本書は、そうした現代の哲学的動向を踏まえつつ、現象学から構造主義までの思想を紹介したものである。
とくに、メルロ=ポンティの思想と、その哲学的思索を紡いでゆく方法とに、著者の関心は注がれている。メルロ=ポンティは、心理学・言語学などの諸分野の成果を踏まえつつ、人間の心理や言語などが、意識と物質のどちらか一方に還元することができないという主張を展開した。彼は、物質的世界のような低次のレヴェルから、反省的意識のような高次のレヴェルまでを、「基づけ」という発想によって統一的に把握する。高次のレヴェルの秩序は、低次のレヴェルの秩序を足場としつつ、そこにより普遍的な秩序を実現している。これが「基づけ」の関係である。意識現象のような高次の秩序は、物質のような低次の秩序に還元されてしまうことはないが、病的な状態に陥ると、高次の秩序が崩壊し、低次の秩序が行動を支配するようになる。
メルロ=ポンティは、レヴィ=ストロースらの「構造」の概念も、こうした秩序として理解できると考えていた。こうした観点から「構造」の概念を捉え返すことによって、構造は低次の足場の上に実現されている動的秩序とみなされることになる。著者は本書の最後に、構造主義対人間主義の対立をこうした観点から調停する可能性に触れているが、こうした問題意識が本書全体を貫く基調になっているといってよいと思う。 -
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すべてに先立ってまず<ある>のは、存在である。思考は、人間の本質へのこの存在の関わりを仕上げるのである。思考がこの関わりをつくり出したり惹き起こしたりするわけではない。思考はこの関わりを、存在からゆだねられたものとして、存在に捧げるだけのことである。この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉となって現れるということにほかならない。言葉こそが存在の住居である。
・・・・・・『ハイデガーの思想』202頁
本著は、ハイデガーの未完の著作『存在と時間』を中心に語られている。
ソクラテスとプラトンによって、存在が「本質存在」と「事実存在」とに分断された。それによって、哲学を哲学たらしめてきた。が、それ故に、その枠を超えて存在を問う術をなくしてしまっている。より根源的な『存在』の存在を問うべきではないか。・・・と、解釈してみようと思う。
また、前半部分の記述ではあるが。人は時間性を持って、世界を認識している。人間は、現在<いま>を認識するとき、瞬間的、断片的な状態のみを認識しているわけではない。現在に至るまでの過去と、現在から派生するであろう未来を、合成した世界「時間性を持った場」を認識し、次の行動基準としているのだという。この世界観はおもしろいと感じた。
本著には多くの哲学者が登場する。中心人物には解説が添えられているが、やはり各哲学者の知識がなければ、読み解くのは難しいのだろうと思う。
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、ニーチェ、ヤスパース、フッサール、サルトル、ウィトゲンシュタイン・・・などだ。
少なくともニーチェ以前の哲学者への知識があったほうが、そしてその知識が深ければ深いほど、ハイデガーの着眼点に驚かされるのではないかと思う。