木田元のレビュー一覧

  • 対訳 技術の正体 The True Nature of Technology

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    当たり前に扱っている(扱えている気になっている?)技術。立ち止まり、捉え方を見直すべきと警鐘を鳴らしてくれる。生成AIを例に顕著な技術革新の現代、ふと立ち止まる時間を意識的に持つようにしよう。

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    2026年04月11日
  • 反哲学史

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    ソクラテスから現代思想までを駆け抜けながら、思想家たちが変わりゆく世界の中でいかに思考し続けてきたかが平易な文章で書かれている。反哲学と書いてあるが、メジャーな潮流を抑えていると思う。続編の現代の哲学も読んでみたい

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    2026年03月02日
  • 反哲学史

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    まず古代ギリシャ哲学の基盤を整理し,デカルトを経てヘーゲルで一旦完成,「反哲学」を予見する後期シェリング,マルクス,ニーチェまで。

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    2025年06月13日
  • 現象学

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    ネタバレ

    難しくやや背伸び感があったが、時間をかけて読み終えた。

    ↓以下僕なりのまとめ

    フッサール初期『算術の哲学』→『論理学研究』
    問題意識は思考の依拠する基礎の解明。
    心理学は、認識のうち経験に関する実在的主観的連関には有効だが純粋論理に関するイデア的客観的連関の解明には及ばない。後者の解明のため経験心理学の前提から離れ認識体験を純粋に記述する態度が現象学である。彼はブレンターノの志向性の概念を意識の基本的性格として援用し、認識作用の主観性と認識内容の客観性を橋渡した。実在的対象ではなくイデア的対象を意識が志向し表象すると、その「構成」作用の所産として純粋論理が立ち現れる。ここで彼はイデア的対象を前提としておりプラトン主義あるいは論理主義的である。

    中期『イデーン』
    論理的/実践/判断理性の批判を通じ内的確実性への到達を目指す彼は、神/理性的秩序を追求する西洋の理性主義的哲学の流れにおり、意識やイデア的なものを経験的法則に還元する自然主義的科学的態度や思想を歴史/心理/社会構造の所産に相対化する歴史/心理学/社会学主義を批判する。これらの実証主義は、それ自体その状況でのみ正当性をもつ相対的なものに過ぎないという自己否定に至り懐疑主義に陥る。認識主体に真の志向対象として与えられていない超越的存在者の断定を根拠としており、普遍的真理を求める学の理念を変造あるいは弱体化するものだとする。対して「第一哲学」たる現象学は、超越的断定を保留する「現象学的還元」の態度をとる。この還元により、経験的科学が前提する諸条件の一切を括弧に入れ、意識そのものの自己構成が問題となる。ここで志向性の概念は、静的な「対象の志向的内在」ではなく、動的綜合的な意識の構成作業に結びつく。デカルトのコギトに立ち還り、純粋意識の一般構造を、その志向作用=ノエシス的契機と志向される対象=ノエマ的契機の相関関係として組織的に解明する。現象学を基礎学に据えて、そこから経験的科学を出発させる試みだといえる。

    後期『危機』
    自然主義的態度と自然的態度を分け、自然を客体化し合理的なものだと断定する自然主義的な理念の衣を剥ぎ直感的に経験される生活世界に立ち戻る自然的態度を恢復することを、現象学的還元の第一歩とした。この態度は、デカルトのコギト、バークリーとヒュームの懐疑論、カントの超越論の流れにある。デカルトは超越論的主体主義の道を開いたがその先に客体的合理的世界を置いた。経験主義者は客体的世界の自明性を疑った。カントは主体の意味構成の問題に迫った。
    また、中期での対象を能動的に定立する「作用志向性」に加え、後期では主体の受動的根源的な生活世界の構成作業への還元も示唆される。あらゆる対象は孤立しては経験されず、潜在的に他の対象との関係たる外的地平と対象そのもののもつ性質や契機たる内的地平から成り、この地平が相互に関係し合い全体的地平=「世界」となる。作用志向性~生活世界に先立ち匿名的に世界を構成する働きを「作動しつつある志向性」「受動的綜合」と呼ぶ。このような受動性に着目した「発生的現象学」は、知覚経験から身体主観性の問題へと移り「身体性の現象学」が成立する。また、生活世界は個人的主観だけに尽きるものではなく、他者の身体への「自己投入」「感情移入」を介した共同主観的構成の問題に至る。自然的態度での主体の世界経験はもはや、世界を越え出て世界の表象や意味を定立する超越論的主観性たる「世界定立」というより、世界そのものに受動的に自身を内属させる「世界内存在」である。
    以上のように変遷を経て錯綜するフッサール現象学を巡って、後継者たちが豊かな展開を見せていく。

    「世界内存在」はハイデガーの概念。構成的主観は世界内部的存在者ではないが純粋な超越論的主観でもない。超越論的構成の可能性を有する存在者が、自己を企投し世界へと超越し世界内部的存在者と不可分に結びつき、その実存のなかで、自身の存在とその意味を各自的に解釈する現場(Dasein)となる。フッサールは中期で世界定立が自然的態度の本質規定と考えたが、後期では自然的態度を自然主義的態度と線引きし前者を知的活動に先立つ根源的な世界の事実的存在の開示=世界経験とした。さらにハイデガーはこの世界経験の概念を一歩進め世界内存在と捉え直し、それを現存在の基礎的存在構造とした。ハイデガーの基礎的存在論では一切の哲学的思索が、実存の遂行を通じた現存在の各自的な自己了解に出発するため、彼の置かれた事実的状況に根差す。自己了解の本来性/非本来性を決める基準にも彼が理想としたキルケゴール的人間観が多分に入り込み、それが『存在と時間』を断稿させる一因となった。
    一方、フッサールでは絶対的超越論的な主観の業に留まった哲学的反省を各自の実存を生きる人間存在のうちに根付かせようとしたハイデガーの姿勢が、現象学の新しい展開をもたらした。
    1930年代ナチス体制が確立したドイツでは現象学は過去のものとなるが、フランスの若い世代が新たな現象学を展開する。

    サルトルは、認識を物を意識のうちに取り込み消化する作用だと錯覚する従来の哲学に対し現象学は認識を本来的に意識に外的で相対的な世界へと自己を超越して自己を炸裂させる運動とみなすものだと解釈した。現象学について、対象の志向的内在より意識の志向的外在に重きを置いて捉え直したといえる。根源的な非反省的意識は対象への純粋な志向作用に過ぎない非人称的なもので、この一次的意識が他我と同様に超越的対象の一つとして反省的に二次的な意識としての自我を構成する。この自我の存在が、意識に不純で不透明な部分をもたらし意識を凝固し自発性を失った実体とする。
    サルトルは現象学的還元の無動機性の問題について、フッサールが還元し得ない剰余たる自我のコギトに意識の根源的構造を見たのに対し、自我のこの自己欺瞞に対して意識が根源的に抱く不安こそ還元の動機だとした。共に絶対的非人称的な意識の所産たる自我と世界は透明な純粋意識を介して相互依存する。
    以上のように『存在と無』で現象学に絶対的認識の権利を恢復する思弁を展開した一方で、初期のサルトルは絶対的権利への躊躇いも示しており、現象学が実存から出発し世界内存在の原理に忠実である限り、一切の経験的認識に先立つ本質直観はあり得ず、哲学的反省は経験の意味の解釈の域を出ないとする。

    メルロ=ポンティは真のコギトを、「我思う」の観念論でも刺激と感覚の一対一関係を恒常仮定する実在論でもなく、世界内存在の内属性を徹底する「我なし能う」、すなわち客体的世界に先立つ知覚的な「生きられる世界」に還元した。ここで知覚野は要素に還元されない有機的全体たる構文法で成り立つ。
    客体的世界は生きられる世界を地とした図として構成される。意識は、絶対的真理=理性を志向しある対象を現在の私だけでなく過去や他者の全ての知覚主体にとって統一した対象と捉えようとするが、それは他方で現象の綜合なので私的生活とその起源たる知覚への内属から脱し得ない相対的なものである。彼は私的経験的な生への内属性と絶対的理性への志向を共に明かそうとする。
    知覚的な世界経験は自己の現象的身体を現場とする前人称的な匿名の機能で、刺戟を分化し安定した全体性をもつ非定立的実践的知たる「身体図式」へと形態化し構造化する。この「脱自」で超越で世界内存在そのものたる身体的実存の層で対象や意味は前述語的に統一され、生きられる世界は身体図式の統一に応じて前論理的、潜在的、曖昧、両義的、開放的に統一され現前する。意識は生きられる世界から意味を二次的に再構成する。この実存的基層が一切の合理性の母胎となる。
    客観性や文化的対象の構成には複数の主観の相互同意たる「相互主観性」が必要となる。まず他我の認識の問題に直面したフッサールは、自己の身体に類似する他我の外部的身体に自己の内部身体性と自我を「自己投入」しそれを他我と認識するとしたが、これはマネキンに投射した自我に過ぎず他我ではない。この挫折は、「われ」を自身にしか近づき得ない意識とする規定に端を発する。メルロ=ポンティは問題を身体的実存の層に置き世界への共属性から解決しようとする。この層では世界は身体の志向性により身体の文脈のうちに生まれた独我論的なもので、真の即時的な「物」は他人の開示の後に立ち現れる。思惟の次元では他の精神や思考はマネキンへの感情移入程度にしか経験し得ないが、感覚的経験の次元では他人が私にとって実存する。知覚的世界で自我は脱自して他の脱自と同じ世界に共属し、この次元で相互主観的、客観的な「物」が可能となる。
    この議論はアンリ・ワロンなどの発達心理学の上に立つ。幼児は、内受容性→身体図式→外的知覚→他人の観察→鏡像段階の順に発達する。視覚的に他人の身体から学んだ認識を系統的に自分に移し、自分の見られる身体と内受容により感じられる身体との対応関係に慣れる。鏡像段階では内受容による身体と鏡のうちに見える身体が区別されず自己は偏在性を持つ。同じ時期、幼児には自他の区別がなく、自分の視覚像と同様に他人の身体のうちにも自分を感じる。この時の幼児では、外から見える私の身体と私の内受容的身体と他人とが不可分な一つの系をなす。自分が未分で、生活が自分に限定されず、自他の体験が融け合い、このことが「癒合的社会性」の基礎となる。癒合的社会性の爆発が「3歳の危機」まで続き、そこで自他の間に「間身体性」などの中性的、客観的な地盤が整備され「生きられる隔り」が出来上がる。発達を経ても幼児期の未開の思考は留まり続け顔を覗かせる。成人の相互主観的世界が可能だとすれば、癒合的社会性が寄与をするだろう。

    絶対的な真理を追求すると歴史性が厄介な問題となる。歴史性の現象学は現象学の歴史性に直結する。哲学は歴史に内属して時々の相対的妥当性を実現する一つの理念である。哲学は歴史を内的分節と構造に形式化し、歴史は哲学を実在化する。知と歴史を往復してそのずれを縮めることで、その文脈での固有の真理を見出せる。超越論的主観性は我々を歴史の全体に結びつけていく相互主観性に他ならず、不断の生成、普遍的な実践の環境としての共存の次元にある。
    現象学とは、知と歴史の循環性を開示し、世界や歴史の内側から経験の全体に問いかけその意味を生起する状態において解読し、ある固有の真理を実現する努力である。

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    2025年06月05日
  • わたしの哲学入門

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    著者の遍歴も含めて、凄い入門書である。
    個人的にはハイデガーから古代ギリシアに遡り、時代を下っていくからか、これまで読んだニーチェの論述の中では最もその思想が理解しやすかった。

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    2025年05月12日
  • ハイデガーの思想

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    ↓僕なりの理解

    現存在は、現存在自身をも含む存在を存在者たらしめ、世界を構築する意識的な現場である。存在は無意識で知覚され、存在者は意識で認識される。この存在了解=存在投企は、自然現象的に起こる出来事であり、現存在はあくまでその座として出来事を眺める。その意味で、存在は現存在に先立つ。
    ソクラテス以降の哲学は、存在を本質存在(-である)と事実存在(-がある)に分節し、ニーチェは存在を力への意志と永劫回帰で捉え直し、哲学は極地に至る。個体は、この混沌と秩序を志向する力としての二つの存在が拮抗し、その結果として表現される存在者である、ということだろう。しかし存在は、本来分節していない自然(ピユシス)なものであり、哲学の外部にある。名詞的な現前として分節する(非本来的時間性)のではなく、動詞的な瞬間として捉える(本来的時間性)ことでしか、形而上学を乗り越え実存を捉えることはできない。言葉は無意識(存在)の表出のひとつだが、あくまで意識的なものである。形而上学、つまり存在忘却、故郷喪失の時代にいる我々にできることは、思索や詩や芸術を通して、失われた存在を追想しつつ待つことである。
    作品を端緒として、クローズアップされ分節され再構成された存在者を見ることで、その背景にあるコミュニズム的世界が開かれ、現れ出る。この世界を含んだ存在者をソクラテス以前のギリシア人は自然(ピユシス)と呼んだ。ある作品=被制作物=存在者(神殿)を通じて、それまで混沌であったところに世界の明るみ=ピユシス(太陽、潮騒、生物たち)が開かれる。その現成と同時に、暗みにある故郷とも呼ぶべき基底としての大地が初めて姿を現す。ここで、世界と大地は闘争の関係にある。つまり、大地=混沌と闘争しながら存在者が存在者として立ち現れ、それらの相互作用から世界が開かれるという無意識の過程こそが真理の実現態であり、芸術作品は、形而上学の外部にある、この自然(ピユシス)な存在と無意識の深みにある感性との交響を、増幅し具象化して追想させる存在論的機能をもつ。

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    2025年04月27日
  • 反哲学史

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    『反哲学入門』からの続きとして読んだ。
    『反哲学入門』と比べ、この本は、重なる内容もあるが、個人的にはより詳しく丁寧に述べられている印象があった。この本を読むことで前書の復習になり頭に残ったので、個人的にはよかった。

    ある特定の哲学者の思想を理解しようとしたとしても、その人限定の書籍を読むだけでは理解しづらい。なぜならその思想の背景には、当時より前の哲学者たちの思想を基にしていたり、あるいはその人たちに対する反論が存在しているためである。
    本書は、その思想の歴史的なつながりを理解するのに最適である。索引も付いているため、これから原著を読む時はこの本を振り返るようにしようと思う。

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    2023年12月29日
  • 反哲学史

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    生涯を通して「反哲学」を標榜されていた著者の反哲学。
    決して難しい哲学の本ではありません。

    木田先生が訳されておられる書籍にはかなり難しいものが多いですが、一般向けにお書きになられる本はとても分かり易くて助かります。
    メルロ=ポンティとか現象学の本も読んではみたいのですが、まだまだ力量不足でその域には至りませんが、木田先生の著書は語り口も好きで結構読ませて頂いております。
    「哲学」の面白さは木田先生のお書きになった本に教えられたことが多く…

    評価したり感想を述べたりするのは
    やはり少し恐れ多い汗

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    2023年09月29日
  • ハイデガーの思想

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    ハイデガーの存在論や哲学観の全体像がよくわかる。カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサールなどの関係性や影響も時系列ごとに綺麗に整理されていて読みやすい。

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    2022年04月16日
  • 反哲学史

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    反哲学といえばニーチェだという決めつけ。それ以上の知識の拡がりがないままの自分がこの本を読んで得られたのは、哲学というものをめぐる大きな歴史の動きと、それに伴い変化していく哲学者たちの考え方だった。哲学者一人ひとりの考えを深く理解することはこの本だけでは不可能だが、各々の哲学者が「なぜ」そのように考えたのか(またはその考えに『縛られた』のか)、「なぜ」その時代にその考えが現れたのかを理解するには大変良い書であると思う。

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    2021年11月03日
  • 現代の哲学

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    反哲学入門の続きのような感覚で読み始めたけど、ちょっと趣が違う。哲学に限らず20世紀の学問・思想の限界(理性の崩壊)から話が始まり、そこを突破するための存在論・認識論の新しい地平、生理学などの力を統合し進む現象学中心の展開を見る。後半マルクス主義の潮流あたりは特に難しくてあんまり読めていないなと思う。
    自分にとっての「体」の持つ意味、心と体の分かちがたく結びつく様、世界内存在としての企投の場であるということを検討してからの言葉の検討、言葉とは思考のからだであるという流れがとても美しく、頭の中で強く広く響く。今まで持っていた言葉への違和感がするする解き明かされていくようで気持ち良かった。

    鶏のエサ実験や失語症や色名健忘の話が面白かった。私は相貌失認とそれに関連してひどい方向音痴なのだが、これを読んで相貌失認はおそらく記憶の問題ではなくて鶏のエサ認識のように対象の差異を相対的に細かく認識する機能の欠陥なのではないかと感じる。
    方向音痴も色名健忘の「障害によって侵されているのは、判断力であるよりは、むしろ判断力の生まれてくる地盤であり、……つまりそこに何らかの意図を造形するわれわれの能力なのである」という部分は非常に大きな気付きになった。
    地図上で目の前の建物がどこにあるか分かり、地図上でどう進めば目的地へ着けるか分かるのに、目の前のどの道路をどちらへ進めばいいかは何分考えても分からないという自分の感覚は「頭がおかしい」という言葉でしか認識できていなかったが、そういうことなのかと腑に落ちてすっきりした。
    欠けているのは理解ではなく要素をシンボル化し利用する「ベクトル」であるということがチンパンジーのところでも書いてあったが、左右盲だとかこうした細々した困りごとはたぶん頭の根っこでつながっているのだろう。
    哲学の本でこの辺りのことに大きな収穫があるのは思いがけない嬉しいプレゼントだったけれど、たぶんもっと読めばさらに得られるものがあるだろうと思うので、また読みたい。

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    2020年11月19日
  • わたしの哲学入門

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    ここ最近、木田元の哲学書を連続して読んだが、その中でも最高の書。形而上学=哲学というのがプラトンが、現実社会(事実存在)と現実にはない理想の世界(本質存在=神の世=イデア)とを分離したことから始まり、それがニーチェにて終了し、現代哲学はこの形而上学的な二元論から、自然な存在というものを中心に論じるギリシャ時代の哲学(という言葉は正確ではないが)に戻ろうとしているという、古代から現代までの哲学と言われるものの推移をかなり簡易に解説している。これを読んで、やっとで形而上学を理解できた気がする。本質存在が、キリスト教の神になり、デカルトの理性になり、それがカントからヘーゲルまでのドイツ観念論に引き継がれていくという歴史のダイナミズムがよくわかった。しかしながら、これを読むと哲学というのは何という無駄なことをしているのだろうとつくづく思う。こんなことを考えなくても生きていくことは可能であるし、考えてもただの言葉遊びとしか思えないし、ただ木田元が言っているようにこんなことを考えないと生きていけない一部の人のための学問なのだと思う。その点で普通の人が読むような本ではないが、自分の思考能力を高めたいと思う人には面白い本だと思う。

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    2019年03月10日
  • 反哲学史

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    哲学とは何かを体系的に考えるのに大変有用な本。要は、イデアも純粋形相も神も理性もすべては一つの形而上学的(現世とは異なる理想的な世界が存在し、それに向かって世界は進んでいく的)な同じ思想形態であり、西洋哲学、西洋思想はすべてこの思想形態を中心に発展してきたということがよく分かった。実存主義はそれを真っ向から否定するものであり、哲学ではなく反哲学と呼ぶべきものということらしい。とは言っても、旧来の哲学も決して無駄だったわけではなく、人間中心主義的な考え方が現代の科学文明を発展させる礎になったのだろうし、それにより人権宣言も行われたのだろうし、社会の要請の上で成り立つ思想形態なのだと思う。今の実存主義的な考え方も将来はどうなるかわからないのだろう。

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    2019年01月05日
  • 対訳 技術の正体 The True Nature of Technology

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    『技術というものは、どうやら人間の思惑などには左右されず、自己運動し、自己展開するものらしい』―『はじめに』

    理科系の頭の中には常に因果律が根本的な心情として存在していて、原因となる運動があり結果となる作用がある、という考え方に知らず知らずの内に拘泥している。しかし複雑系という考え方を待つまでもなく、至極単純に思えたニュートン的運動力学でさえ、対象となる物体が二つから三つに増えただけでその行方を正確に予想することが困難となる(三体問題)。単純な因果関係は成立しない。それが分かっているから、問題を解くために問題の一部を極端に単純化し、解を求める。そうして求めた近似解を万能解のように振りかざしてより複雑な問題に応用しようとする。大切なのは定式化だというけれど、適用範囲を誤れば結果の精度は、もちろん、保証されない。初等数学を学んた時、1/xという解に、適用範囲をx≠0と書き添えないと正解と認められないというのはなんと面倒で美しくないと思ったけれど、適用範囲を越えてそれを振りかざせば手に負えない無限が襲って来る。日々扱う表計算ソフトウェアはそれを単純に#DIV/0とこちらの不手際を笑うのみだが、一度暴走を始めてしまったシステムを止めるのは容易ではない。それを想定の範囲を越えていた為と言い繕っても、手にしている解に限界があるとは中々認めない。この哲学者の言わんとしていることは、そういうことなのだろうと思って三つの短いエッセイの巻頭に添えられた文章を読み始める。

    『むしろ、技術が異常に肥大してゆく過程で、あるいはその準備段階で科学を必要とし、いわばおのれの手先として科学を産み出したと考えるべきではないだろうか。そして、その技術にしても、人類がつくり出したというよりも、むしろ技術がはじめて人間を人間たらしめたのではないだろうか』―『技術の正体』

    ところが、そこから思わぬ展開となる。理性は自然を理解する術かと思いきや、自然が理性を利用するのだという。技術が科学を必要とする。そして人が技術を産み出すのではなく、技術が人を人足らしめる、と。恐らく、技術の素、あるいは萌芽は自然の中に既に在って、人はそれを理屈(科学)抜きに模倣し利用しているのだ、というのがこの哲学者の主張するところなのだろう。林檎が落ちる中に科学的な真理がある訳ではなく、科学は自然の動きをおおまかに説明するだけのことに過ぎない。ある技術は無から考察によって産まれるというよりは、それが何故そうなるのかの理屈抜きに具現化する。例えば野球の投手が投げる変化球のように。その軌道がどのような放物線を描くのかを説明する科学は、全て後追いなのだ。投手は理屈抜きにその軌道を変化させる。

    じっくりと考えてみれば納得できる話だが、今この瞬間も我々は誰に担保されたのかもわからない技術に頼って生きている。早さを競うロボットコンテストで、ローテクで勝負せざるを得なかった参加チームが、ハイテク制御を駆使した競争相手を次々に破ったのは、予想外の競技会場の温度にハイテク制御機構が暴走しロボットが機能しなくなったからだが、これもまた全てをコントロール出来るとうそぶいた途端、足元を救われた形だろう。

    今や、人工知能はそんな理屈さえも無視して人間が判断することと同じことがてきるとさえ主張する。シンギュラリティを危惧する前に、我々はもっと自然の律動に寄り添った生き方を模索するべきなのか。但し、それを我々が判断できるという考え方もまた煽りであることは間違いないが。

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    2018年09月25日
  • マッハとニーチェ 世紀転換期思想史

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    マッハとニーチェを中心に、世紀転換期のヨーロッパ思想史について論じた本です。

    著者の盟友だった生松敬三がヨーロッパ思想史にかんする名著を数多く残していますが、現象学やハイデガーの研究者として知られる著者もまた、この分野にかんする造詣が深く、それぞれの思想家の影響関係について綿密な考察が展開されており、たいへん勉強になりました。また、雑誌『大航海』(新書館)に17回にわたって連載された記事をまとめたものということもあって、親しみやすい語り口で議論が展開されているのも、個人的には高評価のポイントでした。

    マッハからフッサールへの影響関係はむろんのこと、マッハ=アヴェナリウスの「経験批判論」に対して厳しい批判をおこなったレーニンや、マッハの思想から影響を受けたといわれるアインシュタイン、さらにムージルやホフマンスタール、ヴァレリーといった作家たちにおける世紀転換期思想の受容のされかたなど、該博な知識に基づく議論が自由闊達に展開されています。

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    2018年06月10日
  • 反哲学史

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    哲学というのは私を含めた一般の人々にとってはおそらく難解で近づきがたいものである。しかしながら、この本は、とてもわかりやすく、哲学に苦手意識を持つ私でも最後まで楽しく読むことができた。わかりやすさの理由として第一に、読者の疑問に沿う形で文章が構成されている。用語であれ、論理展開であれ、疑問がわく部分に対し説明がしっかりとされていた。第二に、様々哲学者を比較しながら紹介しているため、思想が相対化され、理解の手助けとなっている。そして、第三の理由としては、二つ目と関連するが、「反哲学」という視点を導入していることである。このことにより、より長期的な枠組みとして哲学史を捉えられる構成になっていると思う。

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    2016年03月01日
  • わたしの哲学入門

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    著者と哲学との関わりについて書いたあと、歴史に沿って哲学の流れを説明するというのが本書の構成である。
    ハイデガーという一つの視点から、様々な哲学者の思想を批評しながら歴史に沿って進展するため、それぞれの思想をかいつまんで説明するような入門書よりも、思想と思想のつながりや思想の流れがわかるので理解しやすかった。

    理系の人間で、哲学にあまり触れてこなかったわたしでも、「認識」、「イデア」、「実存」、「純粋理性」…などの難しい哲学用語をそれなりに理解できるようになり、哲学の流れを人に説明できるようになった。この事実からして、素晴らしい入門書といえるのではないか。

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    2016年02月03日
  • 現象学

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    ハイデガーの存在論を理解する近道は、まずフッサールの現象学を勉強することだと思う。読後にそういう感想を持った。木田元は現象学の勘所を本当に丁寧に説いてくれている。

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    2016年01月27日
  • ハイデガーの思想

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    ハイデガーの言う「存在」とは何か。本書はそれを丁寧に説き明かしてくれる。その説明の中で「世界内存在」という概念についてわかりやすい解説が行われている。これらを杖にもう少しハイデガーの思想について勉強していこうと思う。

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    2015年11月19日
  • 対訳 技術の正体 The True Nature of Technology

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    技術は人間の理性が作り上げたものではなく、人間の前に技術があり、人間を人間足らしめたのは技術である。非常に納得するが、とはいえ、技術進歩は人間が起こしているもので、複雑になるにつれ、アンコトローラブルに陥るからこそ技術者は責任と倫理を持たなければならないような気がする。

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    2015年01月03日