近藤康太郎のレビュー一覧
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半農半Xを地で生きている著者が、自身の狩猟や米づくりの経験をもとに、生きること、経済、戦争・平和などについて思索をしたものをまとめたエッセイ。実際の狩猟や精肉の描写やコメ作りの実際の体験談から、半農半X(ライター)、自然資源を活用した生き方、贈与経済による人間関係の形成、物質文明へのアンチテーゼの提示・人間の能力の維持、資本主義から半歩ズレた生活、オルタナティブな生計手段を複数持った生活の提示などなど、内容は多岐に渡る。著者は、正に私が実現したい生き方を実践している人だ。
他方で、この生活のアプローチだけでは、開発途上国の環境問題や社会問題、地球規模でのエネルギー問題、国家間の戦争・安全保障の課題を解決することはできないということもよくわかる。例えば、アフリカのマラウイでは、エネルギー革命が起きていないための薪炭利用による森林破壊や、生産性の低い農業や産業がないことによる労働人口の農業への集中による土地の乱開発、産業がないことによる高等教育人材の受け皿がない問題とそれによる教育の不振などなどの課題がある。これらには、やはり産業の育成、生産性の向上、ガスや電力といった代替エネルギーのインフラ整備など、経済発展による課題の解決が必要だ。また、地球規模の環境問題の解決のためにも、イノベーションによる再生可能エネルギーの開発・普及なども必要だと思う。また、戦争抑止力の観点からは、経済成長による武力の維持なども必要だろう。こうした課題に対応するには、資本主義経済による経済発展を持続可能な開発に変えていくことが必要であり、その手段が、SDGsやESG投資、持続可能な調達なのだと思う。
著者のような、半農半Xの生き方を是として憧れているし、自分も実践したいと考えているにも関わらず、持続可能な開発による資本主義経済の発展に相当拘っている自分がいることに気が付かされた。
だがしかし、本当にSDGsやESGなどの仕事に、自身はこれ以上関わりたいのだろうか。なんだか胡散臭いし、やりがいを感じられなくなっているのが本音なのではないのか。そうした資本主義・成長モデルに自分がこだわっている一方、その中で生きることに、違和感を感じてそりが合わなくなり、いい加減、辟易してやる気をなくしているのが自分の本音ではないのかとも思う。
正直、悩む。二つの価値観の中で、身が割かれる。まだ自分の生き方を決めきれない。このままでは、動けない。どうすればよいのか。
そんな中、著者の提示してくれた「ばっくれる」という姿勢が、自分の道を示してくれるような予感がする。そりが合わなくなったその場から、逃げる(180度違う方向に進む)のではなく、真面目さや真剣さを放りだして、明後日の方向へ鼻歌を歌いながら、ふらふらと進む「ばっくれる」という姿勢。「ばっくれる」ということは、目的地への地図など持たず、自分でもわからぬままどこかへ向かうという姿勢だと著者は説く。そんな姿勢で、自分も次の生き方を探ってみたいと思う。
半農半Xの、Xを何にするか。願わくば、何等か持続可能な開発に少しでも貢献できるXを見つけて、今の仕事と東京から「ばっくれたい」と思う。
それにしても、こうした半農半X・田舎での定常経済での暮らしの本には、文化人類学が出てきて、贈与論が語られるのが興味深い。資本主義の貨幣経済へのアンチテーゼとしての贈与経済が、周縁の田舎ではまだ生きているということなのだろう。 -
Posted by ブクログ
■古典のコトバ
A.「仕事が忙しくて、本を読んでいる暇はない」と豪語する間抜けさえいる。
本人は、自分の多忙を有能さと勘違いして自慢しているつもりなのだから、たちが悪い。
B.楽しいから、幸福だから笑うのではない。順番が逆だ。まずは笑ってみる。人生に運命なんかない。ただの偶然。さいころみたいな丁半ばくちだ。人生これ、ギャンブルなり。
C.わずかばかりの才能でいい。そのほんの少しの才能にしがみつき、かぶりつき、專一に磨く。そうしないのは、なんと怠惰で、傲慢で、そら恐ろしいことか。
D.仮に健康で、何十年も生きながえられるとしても、刻一刻と生まれ変わる自分の存在の可能性に目を向けない生き方ならば、それは死んでいるのとさして変わりはない。
E.人間のあらゆる努力とは、自由を増やそうとする努力にほかならない。
F.インスパイアしてくれるのは好奇心。自分の知らない世界、知らない文化を知ろうとする。それが創造力につながる。
G.人間は、憎しみを糧に生きていけない。忘れなければ、生きていく資格がない。
H.許すのは、敵のためではない。他人のためではない。自分のために許す。憎しみという否定的な感情から自分を救い出し、自分を肯定するために、ほかならない。
I.人の行く、裏に道あり、花の山。 -
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近藤康太郎の仕事論。もはや自分は近藤康太郎の文章というより生き方にハマっている。
基本的に今作のメッセージも他の著作と変わっていない。人間の悩みや考えはそんなにかわらないんだから古典を読め。隙間時間を見つけて勉強しろ。リストをこなせ。そして真剣に遊び、嵌まれ。
近藤さんの本を読んでから古典を手に取る機会が増えたし読書術はかなり影響を受けている。でもやっぱり読みやすい本に流れてしまうことが多々ある。読みながら喝を入れられた気がする。
ワークライフバランスを整えろとよく目にする。猛烈に働いていた時代の反省もあるだろうし、男性の家事負担を改善すべきということも背景にあるだろう。ただやっぱりライフにワークは包含されているからライフとワークを切離してバランス取るなんて無理じゃないかと思う。むしろこの本の様に真剣に働き、遊ぶことが人生を豊かにする。ただ、それは仕事に人生を捧げろということではない。自律して仕事と勉強と遊びに没頭するということだ。
人生や仕事をハックしてKPIを達成していくようなゲーム的な仕事論とは対極の泥臭い仕事論だなと思う。ただ泥臭くても確実に生きている感が伝わってくる。 -
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猟と文章を書くことが、とてもよく似ている
そう、生まれ故郷の東京から九州の山奥へ引っ越し、狩猟と百姓仕事の合間に文章術を教える著者は言う。
初心者が初めて鴨を取るまでには25発かかるそう。それと同じくらい読者を射止めるのは難しい。だから本書は、読者へ贈る25発の文章の弾丸。
そして、連射できても最初の1発を損じれば次はない。それは猟も文章も同じ。文章における最初の一発が、はじめの3行。
書くことには、創造の女神に触れることには、自分が自分でなくなることのグルーブ感があるという。本書を読んで、獲物と狩人のように、読者と書き手が重なる境地へと、いざ。 -
Posted by ブクログ
『本を読んだら散歩に行こう』(村井理子)に紹介があったので手に取った。
文章を書くことの意味や、読んでもらえるための工夫が、簡潔にまとめられている。
実行するには、習慣化していかねばならないなあ。
書くことで、その時の自分がどんなことを考えていたかが分かる。誰でも書ける。書くことを習慣化すれば書ける。
読んでもらうには工夫は要る。起承転結の流れ、その転のヒント〔古今東西、順張り、逆張り、ユーモア)が書かれている。語彙、文体、企画、ナラティブ〔スピード感、リズム感、グルーヴ感)といった道具箱の充実も必要、そのメンテも必要。本を読め、と。
本を読んだら、感じたこと心に引っかかったことを、抜き書き帳に書き出すことで、
・自分が分る
「自分のことは、自分がいちばん、知らないのだ」。こんなことに感動し、こんな問題意識を持って生きてきたのか、を書き出す。
文章を書くことで、
・自分が変る
「知のネットワークができる」、「創作の女神が降りてくる」、「あなたでないあなたへの召喚状」。
そして自分の予期しない文章が書ける
「自分がすでに知っていることを書いて何が楽しいのか」
なぜ文章を書くのか? それは「見えなかったものを、見えるようにするためだ。すべては変わる」。
「書き言葉とは、書き手の所有物ではなく、読者のものだ。」 -
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とにかく、「文章を書き生きるモノ」としての熱量を感じさせる作品でした。
「語彙を書き、語彙を学び、語彙を共有する」簡単に自分なりに要約するとこのような内容でしたが、本作品で頻繁に出没する「常套句は親の仇だと思え」という言葉がいつまでも頭に残り、こんな常套句にまみれた感想を書くことすら恥ずべき行為だと自覚させられます。 それはつまり、「文字を書くことにプライドを持たせてくれる」、「当たり前に意識を向けさせてくれる」、そんな作品でした。
また、本作品に挙げられる、文字を書く人が必読すべき書物に関しても、聖書から現代音楽家の詩集まで、幅広い分野に触れることを提案してくれ、基礎を甘んじないプロフェッショナルとしての意地を感じさせてくれました。
本作品は、文章についての実用書ということもあり、難解な語彙が多数出現してきます。ただ、それを検索し、理解し、自分の日記なんかに取り入れてみる。そんな少しの工夫で人生が楽しくなった気がしています。
文字を書くこと、語彙を鍛えること、共有すること、それが回り回って自分の幸せに繋がるのではないか?そんな期待をさせてくれる作品でした。 -
Posted by ブクログ
社会からリアリティがなくなっている。その通りだと思う。「動物は可哀想だから車でひけないけど植物は踏んでも悲しくないから菜食主義が良い」とか「可哀想だから獣を殺すな」とか「電気を使いまくってるのに原発反対だ」とか何言ってんだ?と思うけど、頭でっかちになってリアルが見えていないんだろうなと思う。社会はもっと複雑だし、断片的にしか見えていない物事の先を想像することが大事だと思う。
まぁでもリアルがなくなるのも仕方ないとも思う。高校卒業まで過疎中の過疎のような農村で育ったがそこはリアルで溢れていた。しかし大学で東京に出てからはリアルを失った。そりゃそうだ。都市は人工の産物でノイズは極力消される。自分が消費しているものがどう生産されてきたか想像する必要がなくなる。
都市での生活が長くなってリアルが年々恋しくなる。思考や行動が効率化され想像力や社会との繋がりが希薄になってきていることが恐ろしい。この本はリアルを取り戻すためのオルタナティブを示してくれていると思う。血を見たくないから猟はしたくないけど野菜や米をつくる生活に戻りたいなと思う。獣を獲れないかわりに、「いただきます」は忘れたくない。 -
Posted by ブクログ
本質的な事やなるほど、と思う事が書かれていました。
以下、一部ご紹介。
文は人なり。
知れた常套句を使うという事は、他人の頭で感じているだけ。
仕事は結局表現。
1行目はのけぞらせ、全て読んだ後で1行目の意味が明示されていなければならない。
起、のげぞらせる
承、起の説明
転、揺さぶりをかける
結、結論はおのずと出てくる。書く前から分かっておら
ず書け連ねてその時に思い感じた事が結論になる。
など、色んな、さまざま、は見苦しい言い訳。
自分というものは他者の思考の集積。
五感を磨き抜く事。
良い田は何度も深く耕され実りは豊かになる。
使い勝手の良い言葉は言葉に逃げているだけで、
自分で考えようとしていない。
スタイルを豊穣にするなら、主義でも何でも一旦変えてみる。また戻れば良い。真似て自分の頭で考え咀嚼し吸収する。