高野悦子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
5・6年ぶりの再読。
この本は、高野悦子さんが20歳で鉄道自殺を遂げる前日までの半年間を記録したものです。
日記形式でとても読みやすかったです。このノートを、『小百合』と名付けていたようです。
学生運動とか機動隊とか、社会的背景のことはよくわかりませんが、高野さんの文章に引き込まれ、すんなり心に入ってきました。
猛烈な孤独感や、自分の思い通りにいかない葛藤、人生になげやりになってしまう気持ち。一方で、好きな男性に頭をポンポンされて嬉しさのあまり舞い上がった様子。色々な感情の機微が読みとれて良かった。
生命の充実感を未だかつて感じたことがないと、高野さんは残しているが、すごく共感した。なかな -
Posted by ブクログ
ちきりんさんという方が日記をはじめたきっかけ、と書いていて気になり一読
日記ならではの生々しい記載が良かった
※本人は出版されて人の目晒されてどう思うのか…はあるけど
時代は違えど二十歳の大学生という若さが故の悩みに真っ直ぐ向き合いすぎたのかな、とも思った。きっと真面目で育ちよく、賢くて考えられる方やったから、なおさら苦しくなったのかなあ
煙草とかお酒とか行動自体は乱暴、やんちゃな感じがするけど、せっかく入った大学も学生運動やし、労働運動とか時代も激しいし、若い繊細な年齢も考えたら、酒・煙草はやってみたら楽になれるかな、みたいな部分もあったのかもしれない、とか思う
日記を「小百合」と名 -
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Posted by ブクログ
ネタバレ酒とたばこに費やしてる。
ジャズ喫茶でクラシックを楽しんだりしている。
夜、寝付けず、書き連ねてることが多い。
下宿を変えたことで、友人関係の記述が消える。
長時間のアルバイトに従事している。
仕送り15万円貰ってる。
でもそれを使わず、生活しようとバイトに励んでいる。
4月から5月に対象を変えて、恋愛の炎が燃える。
最初はアルバイト先。後からは大学生。
段々社会主義の言葉が洗練されてくる。
同時に言葉と現実の落差に気がつくようになり、認知的不協和を感じているのではないか?と感じさせられる。
別の言い方をすると、社会主義の言葉を受け入れたことで、観念の世界と、現実の世界の落差に悩 -
Posted by ブクログ
独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。
著者である高野さんは、このタイトルにもなった胸がつまる様な言葉を含めた、中学生から書き続けた
日記を残し、二十歳で鉄道自殺をされました。
学生紛争については、経験のない世代ですので、当時の状況を私は、理解できていないと思います。
ただ、自分が二十歳の頃にタイトルに惹かれて、手にとりました。彼女ほど、深い自己否定もなく、行動力もありませんでしたが、大人になりかけの、不自由さに共感する部分もありました。彼女は可愛く賢く、素敵なご家族もいました。それでも、最後の日記の翌日、鉄道自殺に及ぶのです。
再読して、本棚登録をして、新しい登録がた -
Posted by ブクログ
最近、1960年代後半に起こった大学闘争関連に興味がありその延長でこれも読んだ。
正直、いまだに何がそんなに当時の若者たちを大学紛争に駆り立てたのか、当時の私には計り知れないものがある。そして今の私たちが同じような状況に置かれたとして、そう言った紛争は起こるのだろうか。とはいえ、時代も環境も違えど悦子の書いた日記の中には現代の私にも共感できるような言葉があり、悦子の気持ちがわかるような気がしてしまう。途中から(悦子が大学紛争にのめり込んでいくあたり)話がうまく追えなくなり、苦労したがそれでも読むのをやめようと思わなかったのは、今の私と同い年の彼女がどういう過程で自死を選んで行ったのか、それを見 -
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Posted by ブクログ
おそらく彼女の年の頃に一度読んでいる。今時を経て読んでみると、彼女の死は学生運動云々じゃなくて、失恋が原因だったのだろうなと腹落ちした。誰にでも起こりうることかもしれない。
それでも彼女の素晴らしいところは、自らの心情を、極力装飾なく、素直に日記に書きだしているところである。現代ではTwitterやFACEBOOKなど個人が情報発信するところはいくらでもある。そのなかで、どれだけの人が虚飾なく自らを表現できているだろうか。自分だったら、日記であっても、『本当のところ』を書くことは出来ない。それは才能であると思う。
独りであること、未熟であること。人間は、二十歳でなくても生きている限りそう -
Posted by ブクログ
たくさんのことを望みすぎなのだろうか?
それとも、もともと弱いのだろうか?
中身のない観念は無為だ
若いときにはこれからの人生のことを考える必要に相対する。しかし、その材料は自分たちの周りにいる大人、社会、メディアを通した認識、書物による把握...など。
そのどれもが知った気になれるし、枠さえも作ることができる(になる)。社会、世の中といったものすべてを知ることはできないが選択せねばならない。
なかば義務のようなものだ。
職業のみならず、その他一般の諸事さえもが
完全な理解の上に築かれていない、選択されていないことの認識は心板に刻みつけておく必要がある。