【感想・ネタバレ】二十歳の原点序章 [新装版] 十七歳から十九歳の日記のレビュー

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Posted by ブクログ

「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」

1969年6月、立命館大学の学生であった高野悦子が自ら命を絶った。享年20歳。『二十歳の原点』は彼女が書き残した日記である。1969年1月2日、20歳の誕生日からそれは始まる。

立命館大学文学部に入学した後、彼女は読書やアルバイト、そして学生運動との狭間で、自己を確立しようと努める。考え、迷い、悩み、叫び、行動を起こす。喫茶店「シアンクレール」で思案にくれ、あるべき自分を模索し続ける日々。

時として、その終着点は「死」に向けられた。しかし多くの場合、彼女は「生」への強い想いを抱き続ける。明るさとせつなさを交錯させながら、強く生きることを切望する。

6月22日、彼女は長い長い日記を綴る。睡眠薬を大量に飲みつつも、それに打ち勝って眠らずにいられるかを試し、最後に一編の美しい詩をうたう。それが彼女の最後の日記となった。

20歳の日々。何を考え、どのように生きていただろうか。そんなことを考えさせられる本でした。

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2011年07月13日

Posted by ブクログ

彼女が高校三年生からの立命館大学二回生までの三年間が記されております。このころから「自殺」という言葉がノートの中に散見されるようになってきます。彼女の時間は永遠に時間がとまっている事実が重いです。

この本を読んだのは確かもうずいぶんと前のことで、今回ここに書評を書き下ろすために読み返したのですが、彼女の「穢れのない」魂に向き合うのは正直に申し上げて非常にしんどかったです。これでしばらく彼女の言葉に向き合うのはこれで少し距離をおきたいと思っています。さて、高校三年生の彼女は立命館大学と明治大学を受験し、立命館大学に合格した彼女は京都へと赴くことになります。

当時は学生運動がピークの時代だったので、ちょっとここから日記が「左」がかってきますが、彼女は学長の挨拶に感動したり、部落問題研究会に入部も入部したりと、幸先のよい京都・立命館大学での学生生活をスタートさせます。ですが結局、翌年の四月に部落差別研究会を退部してワンダーフォーゲル部に入部し、山歩きをしたり、アルバイトをしたりと、普通の学生生活をしています。そして、彼女が吸っていたというハイライト。

再読して初めて気づいたのですが、
「ずいぶんきついタバコ吸ってんなぁ~」
なんて読んでいると、飲み会で酔っ払った勢いでほかのワンゲル部員に「お持ち帰り」されたことに深く傷ついたりと、どうしても下世話な部分に心が行ってしまうのですが、このことはずいぶんと彼女の中でひきずっていたことみたいですね。現在では考えられない話ですが。当時の男女交際に関する事情もあったのでしょう。この日記は彼女が実家に帰って、家族旅行で塩原に行くところで終わっていますが、

「二十歳の原点」の方になっていくと、彼女が「死」に引き寄せられていく過程が克明に記されていますので、ここで書かれていることはまだ、牧歌的であるとさえいえます。

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2011年06月30日

Posted by ブクログ

彼女の日記を3冊すべて読み終わって思うのは、もっと生きて、たくさんの言葉を残していてほしかったというその身勝手な一点。
原点序章が一番共感できたなあ。

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2009年11月10日

Posted by ブクログ

「二十歳の原点」シリーズ2冊目。17歳から19歳までの日記をまとめたもの。大学生活の中で、主体性や自己の在り方を模索し、学問の意義を考え求める、その直向きで真摯な姿は、如何にして生きるか?を強く訴えかけてきます。二十歳と半年で自ら命を絶ってしまった彼女が残した日記は文学書のように読み手に深い感動を与えてくれます。辛くなったらまた彼女の日記を読もうと思います。

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2022年01月26日

Posted by ブクログ

大学に入り,一人での時間と集団行動とのはざまで揺れる心が読み取れます。
確かに大学生のときって躁鬱状態というか,生きるか死ぬかという問題ですら両極端で考えてしまうんだよなぁと自身を思い返します。
40年近く前の日記が今でも新装版で出されるあたり,この日記の価値の高さがうかがえます。普通は,こんなに長期間ここまで自分の心の内を吐露した日記は書き続けられないと思うので。

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2014年07月09日

Posted by ブクログ

高野悦子の日記も二冊目に入り、死をにおわせる記述が増えてきて、どきりとさせられる。

立命館大学に入学して、京都での生活が始まる。部落研に入って活動したり、勉強しなくちゃとがんばるが、だらだらした生活に流されてはまた自分を叱咤する。

学生運動の時期、それらしい記述がたくさん出てくるが、時代の空気を知らない私にはピンと来ないところも多くて、少々残念に思う。

男性にあこがれたり、そのあこがれは本物かと自問したり、真面目で不器用なところは中学生の頃から変わっていない。

部落研をやめてワンゲルを始め、そこでも自分の居場所、自分の気持ち、自分の行為について厳しく反省を重ねていく。

彼女が女性であることによって縛られる現実に抵抗しようとしているのが印象に残る。職業を考え始める時期になって、あるいは学生運動の中で、向き合わざるを得ない場面が増えてきたのだろうか。

酔って男友達に乱暴されるくだりはちょっとショッキングだった。その事件も彼女は書くことによって冷静に捉え直し乗り越えようとしているように見える。

p.116に書かれた言葉が印象的だった。
「そしてこのノートは醜いものでなければならない。私自身が醜いものなのだから。」

どんなことも書く、誰に見られることも想定していない日記。しかし、その文章は非常に整っていて、読み手を意識した記述も散見される。彼女はよくノートを読み直しているようなので、自分自身を読み手に想定しているのかもしれない。

書くことを通して、内省はどんどん深まっていく。それは、もしかすると、危険なことなのだろうか。

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2011年07月16日

Posted by ブクログ

二十歳で鉄道自殺を遂げた高野悦子さんの日記。書かれた時期としては「二十歳の原点 ノート」(中高生時代の日記)に続き、「二十歳の原点 序章」は大学に入学しての二年間に相当する。
「ノート」を読んだ時にずいぶん自分に厳しいストイックなお嬢さんだなという印象を持ったのだが、この「序章」を読んで少し異なる印象を持ち始めた。

これまでどおり「主体性」や「自己」の確立という言葉は何度も出てくるのだけど、実際にこの子の日記に出てくる「事実」だけ積み上げてみると、現代の大学生に比べて、かなり怠惰なようにも見えてしまうのだ。「学問をする」ことを決めておきながら授業はほとんど出ていないし、反省した翌日からそれが破られてしまうし……。このへんは、「どこにでもいる意思の弱い女の子」である。

そういう、とりたてて秀でているわけでもない女の子の口から「主体性」云々という言葉だけが何度も出てくるのは、僕の目にはむしろ奇異に映る。しかし、それが当時の時代の雰囲気だったのだろう。現代の僕たちが時代の雰囲気に流されているのと同じように、彼女も時代の雰囲気に流されながら「主体性」という言葉を何度も繰り返していたのだろう。授業に出ないのも、一方で本はたくさん読んでいるのも、60年代後半に共有されていた大学生のコードなのだろう。

そう読むと、この本には1960年代末期の全共闘時代の大学の雰囲気が詰まっている。全共闘時代の学生がどんなことを考え、何をしていたのかを知る手掛かりが、この本にはたくさんある。

しかし、読んでいて一層魅力的なのは、そのような「時代の言葉」の群れの中に、ふと、「彼女のプライベートな言葉」が入ってくるところだ。特に(僕が男性であることもあって)恋愛や性についての言葉には、はっとすることが多い。愛情への飢え、活動家の「三浦さん」への憧れ、酔って男子学生とセックスしてしまったことへの後悔…。もちろんそれを語る言葉にも時代の雰囲気は抜きがたく存在するのだが、より普遍的な響きを持って、「高野悦子」という一人の女性像を伝えてくれる。

たぶんに覗き見趣味かもしれないが、日記文学の魅力は、こんなふうに断片的な言葉の集積をかきあつめて、書き手の像を構築するところにあるのかもしれない。

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2010年12月23日

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