高野悦子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
最近、1960年代後半に起こった大学闘争関連に興味がありその延長でこれも読んだ。
正直、いまだに何がそんなに当時の若者たちを大学紛争に駆り立てたのか、当時の私には計り知れないものがある。そして今の私たちが同じような状況に置かれたとして、そう言った紛争は起こるのだろうか。とはいえ、時代も環境も違えど悦子の書いた日記の中には現代の私にも共感できるような言葉があり、悦子の気持ちがわかるような気がしてしまう。途中から(悦子が大学紛争にのめり込んでいくあたり)話がうまく追えなくなり、苦労したがそれでも読むのをやめようと思わなかったのは、今の私と同い年の彼女がどういう過程で自死を選んで行ったのか、それを見届けたかったからなのだと思う。悦子には、世の中は汚い、自分も汚い人間の一人かもしれぬ、それでもその汚さが世の中の、自分の全てだと思い悩んだまま逝ってほしくなかったなぁ、と自分勝手に思ったりしました -
Posted by ブクログ
たくさんのことを望みすぎなのだろうか?
それとも、もともと弱いのだろうか?
中身のない観念は無為だ
若いときにはこれからの人生のことを考える必要に相対する。しかし、その材料は自分たちの周りにいる大人、社会、メディアを通した認識、書物による把握...など。
そのどれもが知った気になれるし、枠さえも作ることができる(になる)。社会、世の中といったものすべてを知ることはできないが選択せねばならない。
なかば義務のようなものだ。
職業のみならず、その他一般の諸事さえもが
完全な理解の上に築かれていない、選択されていないことの認識は心板に刻みつけておく必要がある。 -
Posted by ブクログ
今の20歳前後の読者の中で、大学紛争の時代を知っている人はほとんどいないはずだ。その意味で、この日記は「遠い世界の出来事」かもしれない。でも、この人の苦しみや孤独感は、少なからぬ若い人の共感を呼ぶと思う。
この本は、1969年6月24日、20歳で鉄道自殺をとげた高野悦子さんの日記である。書かれた順で言えば、中学~高校時代の「二十歳の原点 ノート」と、大学1・2年生の「二十歳の原点 序章」に続き、大学3年生となった1969年1月~6月までの日記が収められている。刊行順は「二十歳の原点」(71年)「序章」(74年)「ノート」(76年)だが、僕は書かれた順に読んできた。
高校時代から自分を厳しく律しようとする真面目な女の子だった著者は、大学に入って学園闘争やサークルの活動を通じて自己と社会との関係を問い続けていた。日記の前二巻は、この時期のことを書いたものだ。
この巻では、それが激流に変わる。学園闘争を背景に、著者の孤独感が強まっていく。学問や部活といった話題は後景に退き、詩や、バイト先の男性への恋愛感情や、酒、タバコといった諸々が彼女の中心になっていく。そして、五月の末には家族との「訣別」……。
こっちはもちろん結末(彼女の自殺)がわかって読んでいるんだけど、それにしてもこの展開に「そんなに焦らなくていいのに」と声をかけてしまいたくなる、痛々しい展開の日記だ。
なにが彼女をそこまで追い立てたのだろう。それは僕には最後まで実感を伴った形ではわからなかった。もしかして、この年代の人の焦りを読みとく感性を、30代の僕はもう失っているのかもしれない。だからよけいに、若い読者がどう読むのかを知りたいと思う。
なお、最後の日の日記には、「旅に出よう」という言葉から始まる詩も書かれている。この翌日に自殺するという文脈を抜きにすれば、静謐なトーンの素敵な詩だ。これもぜひ読んでみてほしい。
日記の後にある父親・高野三郎氏の文章「失格者の弁」も良い。なんとか娘の死をめぐる「物語」を編み出して一つの決着をつけたいという思いに満ちていて、解釈せずにはいられない姿が読む者の胸を打つ。僕にはむしろ、日記本編よりもこの父の痛切な手記が印象的だった。
(補記)「ノート」「序章」「原点」という三部作をまとめて読む時、「彼女は結局「書くこと」によって殺されたような気もする。書いて内省を深めることで、どんどん自分を追い詰めていったような。この点、国語教員として、どう考えればいいんだろう。 -
Posted by ブクログ
二十歳で鉄道自殺を遂げた高野悦子さんの日記。書かれた時期としては「二十歳の原点 ノート」(中高生時代の日記)に続き、「二十歳の原点 序章」は大学に入学しての二年間に相当する。
「ノート」を読んだ時にずいぶん自分に厳しいストイックなお嬢さんだなという印象を持ったのだが、この「序章」を読んで少し異なる印象を持ち始めた。
これまでどおり「主体性」や「自己」の確立という言葉は何度も出てくるのだけど、実際にこの子の日記に出てくる「事実」だけ積み上げてみると、現代の大学生に比べて、かなり怠惰なようにも見えてしまうのだ。「学問をする」ことを決めておきながら授業はほとんど出ていないし、反省した翌日からそれが破られてしまうし……。このへんは、「どこにでもいる意思の弱い女の子」である。
そういう、とりたてて秀でているわけでもない女の子の口から「主体性」云々という言葉だけが何度も出てくるのは、僕の目にはむしろ奇異に映る。しかし、それが当時の時代の雰囲気だったのだろう。現代の僕たちが時代の雰囲気に流されているのと同じように、彼女も時代の雰囲気に流されながら「主体性」という言葉を何度も繰り返していたのだろう。授業に出ないのも、一方で本はたくさん読んでいるのも、60年代後半に共有されていた大学生のコードなのだろう。
そう読むと、この本には1960年代末期の全共闘時代の大学の雰囲気が詰まっている。全共闘時代の学生がどんなことを考え、何をしていたのかを知る手掛かりが、この本にはたくさんある。
しかし、読んでいて一層魅力的なのは、そのような「時代の言葉」の群れの中に、ふと、「彼女のプライベートな言葉」が入ってくるところだ。特に(僕が男性であることもあって)恋愛や性についての言葉には、はっとすることが多い。愛情への飢え、活動家の「三浦さん」への憧れ、酔って男子学生とセックスしてしまったことへの後悔…。もちろんそれを語る言葉にも時代の雰囲気は抜きがたく存在するのだが、より普遍的な響きを持って、「高野悦子」という一人の女性像を伝えてくれる。
たぶんに覗き見趣味かもしれないが、日記文学の魅力は、こんなふうに断片的な言葉の集積をかきあつめて、書き手の像を構築するところにあるのかもしれない。 -
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二十歳で命を絶った高野悦子の十四歳から十七歳までの日記。
私も日記は飛び飛びになりながらもつけていたので(今はもう残っていないけど。残しておけばよかったな)、なんだか懐かしいような気持で読んだ。
彼女の日記を読んで受けるのは「なんて自分に厳しい人なんだろう」という印象だ。「思想は裏付ける行動を必要とする」なんて中学生で書くんだもんな。二十歳で自ら死を選んだという出来事を知っている読者にとっては、彼女の真摯さは痛々しくも感じる。だが、それはあくまでも未来から過去をさかのぼって見た時の話である。
定期試験の点数、勉強の予定、読んだ本。バスケットボールの練習メニュー、心臓の病気のこと、部活をやめるときの葛藤。友達に対する優越感、劣等感。志望校をどこにしようか、どんな勉強をしようか。女性としてどんなふうに生きていけるか。
先に起こることを考えずに彼女の記述に寄り添えば、私よりも少しだけ真面目でストイックで内省的で不器用でもあるかもしれないけど、同じクラスにいたって全然おかしくない、ひとりのふつうの女の子だと思う。生徒が記す葛藤と通じるところも多い。
一冊読み通して面白く感じるのは、年齢が上がるにしたがって書かれている文章も少しずつ大人っぽくなっていくこと。また、非常に理屈っぽいことを論じるかと思えば、さらりと書かれた詩が結構すてきだったりのも印象的だった。
決して要領の良いタイプではないけれど、知的で魅力的な少女。彼女が今後どんなふうに成長していき、あの結末につながっていくのか、とても気になる。 -
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「普通の少女が描き出した文章から溢れ出る純粋さ、愛おしさ・・・。二十歳で命を絶った彼女が、駆け抜けた青春のすべてが刻まれた愛と死のノート」。
こういう惹句に、僕は基本的に嫌悪感を覚えるほうだ。別に彼女に罪はないのだけど、「夭折」した「かわいらしい少女」(写真を見るとたしかにそう感じる)が書き続けてきた「純粋さや愛おしさが溢れたノート」という構図自体に、「良く出来た商品」としての構図を見てしまうからだろう。
この本は、1969年に鉄道自殺を遂げた高野悦子の、14歳から17歳までの日記が綴られたノートである。実際に読んでみると、そういう商品的な構図とは別に、この少女が本当に真摯に「克己」を目指していたことが伝わってくる。常に自分の行動を振り返り、反省し、本を読み、・・・14歳の頃からよくもこんなに自分に厳しい姿勢で臨めるなあと思ってしまうほど。もちろん一方では学校の勉強がつまらなくて試験勉強をしなかったり、進路に悩んだりと「中高生らしい」場面も出てくるのだけど、全体的には彼女の「痛々しい」までの「成長しなければ!」という熱い思いが伝わってくる。
この人は凄い、とは思うが、そういう生き方が果たして幸福なのかどうかは、僕にはよくわからない。彼女の日常には、ある種の息苦しさが常につきまとっていたのではないか、そんな心配もしてしまう。彼女のまっすぐな生き方は、彼女自身に、幸福と不幸のどちらを多くもたらしたのだろう。
この本、1970年代のベストセラーだったらしい。彼女の生き方は、当時の若い世代に共通したものなのだろうか。それとも当時にあっても、こういう生き方をするごく一部の人々の抱える難しさを皆が感じ取り、そこにある種の憧れや憐れみという共感を寄せたのだろうか。
当時の若い人たちが、この本をどのように読んだのかを知りたいと思う。そして、今の若い世代である僕の中3の生徒達が、高野悦子さんのような生き方をどう感じるのか、それもぜひ聞いて見たい。 -
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2010.01.22. やっと、読み終わった。人の日記が、こんなにも生々しくしんどいとは。本のタイトルと著者だけは聞いたことがあって、昔、流行ったとかナントカ。興味本位で読み始めたんだけど、14歳からの心の激しい揺れや葛藤が、本当に細かく書かれていて、読んで疲れた。とにかく、「頑張らねば!」と思い、計画を立ててはうまくいかず、落ち込む→「頑張らねば!」の日々。もう少し、休憩したら…と声をかけたくなる。それにしても、日記に名前を付けて呼びかけるのが流行ってたのかしら?最初は「小百合さん」、次は「ジュディーさま」。うちの母も、中学生の頃「キティ」と日記に呼びかけていたそうな。