保坂和志のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
とても癒されました。
毎日の暮らしの中に共存している
猫という生き物が、たくさんの
作家の方々の憩いであり
生きがいであり、無くては
ならない存在でした。
家の猫も保護してから3年
猫を飼った事もない家族の中で
その存在感の大きな事、
角田光代さんの文章の中に
(以前は、自分は自分はという
感じで暮らしで辛かったところに
猫がきて自分以外の事に心を
持っていけるようになった事で
楽になった)とありました。
まさにそれです。疲れたけど
とりあえず猫に餌をあげようと
声をかける事で気持ちが良い
方向に切り替えていける。
猫って不思議な生き物です。 -
Posted by ブクログ
★藤井時代だからこそ★おそらく1997年か98年に読んで以来の再読。将棋でのAIが一気に進み、藤井聡太が席巻する今になって、改めて保坂和志の分析と羽生の考えを読んでみたい。コンピュータは人間がプログラミングするもの、という前提があり、部分的な良し悪しを人間が判断して入力する考えだったろうが、現在のAIは人間の判断を不要にしてしまった。それだけに見方は変わっているだろう。
<以下引用>
――人間vsコンピュータとい図式で考えてしまいますが、そういう図式ではないんですよね。
羽生 コンピュータは人間が作り出すものですから結局は。人間が作り出したコンピュータvs人間なんです。
――そういう意味で、羽生さんが将棋の理論を教えるとすれば、どういうことを教えますか。
羽生 私はその辺は詳しくはないのですが、もし自分がやるとすれば、つまり定石とか詰まし方でなくて、この形の時はにはこう動かした方がいいとか、この形とこの形を比較したらこっちの方がいいとか。そういう部分的な良し悪しなり、部分的な形なり、こっちの方がいいケース、これはこっちの方がいいケースというのを膨大な量を入力していくのがいいと思います。
――それは駒の損得でもスピードでもないんですね。
羽生 そうです。場面、場面の形、形です。ただもちろんその中には駒得とかそういうこともあるので、形が悪くても駒得の方がいいという判断のケースとかも沢山いれていくのがいいのではないですかねえ。
――それはすなわち羽生さんの将棋の考え方に非常に近いのではないんですか。
羽生 そうです。つまり自分が将棋の形を考えるときにどういう判断をしているのかということをインプットしていくわけです。(「将棋世界」96年4月号) -
Posted by ブクログ
久しぶりに保坂和志を読んでやはり著者の小説観は素晴らしいと実感。小説を読むとは読んでいる体験のことであって、ああこういうタイプの小説ねとか、期待した感情(感動とか、怒りとか、)を得るために読むものではないということ。
小説家とは小説やフィクションというコードがあってそれに沿って書く人のことではない。だから例えば著者の小説で描かれる猫は単に猫であり、何かを象徴・表象するために書かれているわけではない。また大人の男女が2人いたらそこにセックスが描かれないと小説っぽくないというのもコードだ。さらに単に会話文を続ければ小説になるものでもない。これは著者が引用するトルストイのアンナ・カレーリナの文章を読むと単純な日常の会話が臨場感をもって浮かび上がるように描かれているところなど、ああ小説によってもたらされる体験とはこういうものだよな、と思わずにはいられない。
本書内で著者が何度か書くようにいわゆる上手い文章は小説らしいのだけれど、それはあくまでも小説のコードに従って書いているだけで、小説を読むという行為の結果として読者の価値観に変更はもたらせられないだろう。そのような小説からいかに脱却するか、それが現代において小説家になるということなのではないか。
まあ、そうではない小説観を持つ人がいることは否定はしないけれど、私は著者の小説観を支持したいと思う。