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Posted by ブクログ
物語の現前性という言葉が、純文学を堪能するためのフィルターというのはすごくしっくりきた。あるものをあるがままに。メタレベルで小説を読み解こうとするからダメなんだな。現実と混淆する物語ではないんだな。決して交わることのないパラレルな世界が広がっていて、そこにあるものを新しい視点で。読み方は頭では理解できた。しかし、その楽しみ方が出来るかどうかは甚だ不安である。小説が考えを深化させていくものだというのもなるほどーと嘆息。だけど、腑に落ちない。考えを深めるだけなら、他人にお金を払ってまで読んでもらおうとしなくても、一人で書いていればそれでよろしいやん。書きながら考える。書いたことで考えられる。アウグスティヌスの例は秀逸。読みながら思考する作品が確かに存在することが分かる。アレなら買うわ。矛盾してるけど。
Posted by ブクログ
この著者の小説論を読んでいると、ほとんどマゾ的な快感を覚える。今までの自分の小説の読み方が全否定されている気持ちになるからだ。文体、印象、構造などはどうでもよく、大事なのは言葉の「現前性」、小説じたいがもつ「能産性」だという。そのうえで著者は情景描写とそこでの視線の運動に着目するのだが、その例証の手つきがすばらしい。特に情景描写を読む態度によって読者が二つにタイプ分けされ、それぞれのタイプによって「いい文章」の定義が違ってくるという主張は説得的だった。『フランドルの冬』(クロード・シモン)と『告白』(アウグスティヌス)を今まで面白いと思えなかった自分が恥ずかしい。読めていなかったのだ。
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