柴田元幸のレビュー一覧

  • トム・ソーヤーの冒険

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    トム・ソーヤの冒険ってよく聞くけど実際こんな話やったんや…
    もっと色んなところに冒険しにいくような話やと思ってた

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    2020年12月17日
  • 翻訳夜話

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    柴田元幸と村上春樹の対談(フォーラム)を書き起こしたもの+カーヴァーとオースターの作品をそれぞれが訳したもの。翻訳はそのテキストが第一で、それに対する偏愛が大事なんだなと。凝った訳や綺麗な訳をしようとするよりも、その作品を誰よりも理解しているという自負と作品への愛が分かった。

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    2020年04月04日
  • 舞踏会へ向かう三人の農夫 下

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    下巻でようやく内容が掴めてきて、楽しめた。
    「写真」とはというところから、掘り下げられた、壮大な話になっていた。
    しかし、魅力的な写真だ。

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    2020年03月08日
  • 舞踏会へ向かう三人の農夫 上

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    なかなか読むのが難しい。
    最後の方でようやく登場人物をつかみかけてきた程度。
    とりあえず、表紙カバーが気を引く。

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    2020年03月05日
  • 翻訳夜話

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    翻訳家・村上春樹と柴田元幸の対談。
    翻訳の世界も小説と同じようにセンスが求められる。村上は小説家として、柴田は文学者として翻訳を行っているが、それぞれ背景となる世界が違っているので、翻訳にもそれが現れる。翻訳に対する自分の流儀、好みの作家など翻訳に関する色々な話が紹介されていて面白かった。

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    2020年01月02日
  • オズの魔法使い

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    実は、ストーリー知らず。30過ぎてはじめて読んだ。


    弱いのに強いライオンに、心がないのに心優しい木こり、脳みそがないのに賢いカカシ。


    古典は、やっぱり残るだけの魅力があるから、後世に残っていくんだな、と。

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    2019年06月20日
  • 翻訳夜話2 サリンジャー戦記

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     『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(以下、この本に沿って『キャッチャー』と呼ぶ)の翻訳を手掛けた村上春樹と、彼の翻訳仲間である柴田元幸が、翻訳者という視点からサリンジャー及び『キャッチャー』について縦横無尽に語る本。

     小説について作家が語る本を読むのは、おそらく初めてだと思う。読書ガイドとして書評集を買うことはあったが、どれも一冊につき2~3頁程度で語られており、こうして一冊の本としてガッツリ語られたものを読んだことはなかった。 読むことになった理由は、『キャッチャー』を読んだ時の印象が、普段読む多くの青春小説に比べ非常にもやもやした感覚が残ったため。
     青春小説というと、例えば主人公に好きな人がいて、その女の子(男の子)とのロマンスがある。で、相手を愛したり憎んだりいろいろして、結ばれたり結ばれなかったりする。そして、そこで様々な経験を通じ、物語が始まった時より少しだけ大人になっている。そんな物語が圧倒的に多い。古くは夏目漱石の『坊っちゃん』とか、私の愛してやまない『文学少女シリーズ』とか、最近なら『君の膵臓をたべたい』とか、アニメ『宇宙よりも遠い場所』とか。
     こうした「物語を通じた若者の成長」という枠に、どうしても『キャッチャー』がしっくりこなかった。元々大反響を呼んだ小説だということはもやっと聞き及んでいたので、この違和感の正体を垣間見たくて、この本を読むことにした。

     この本で語られている限り、やはり主人公の成長というよりは、ホールデンは永遠の16歳であり、「そこにしっかりと留まり、読者の心のひとつのありかとして機能することを宿命づけられた小説」(p.220)なのだそうだ。
     また、同時に米国の、しかも60年代の小説ということもあり、出版当時教育界などからヒステリックなまでのバッシングがあったこと、今でも一部では有害図書として扱われていること、ある凶悪殺人犯がこの小説をバイブルの如く扱っていたこと、当時は(日本もそうだろうが)社会・世間の繋がりが非常に強かったので、説教や世間に当て嵌めるような教育が今以上に重視されていたこと、など、小説を読んだだけでは気付けなかったものも多数あり、作品の理解(?)に大いに役立った。
     あとは、サリンジャーがホールデンのように、あるいはホールデン以上にイノセンスな世界にのめり込んでしまい、隠遁生活を送るようになるという解説のくだりはやはり印象的だった。前にも後ろにも進めないホールデンの閉塞感が悪い方向に向かってしまったような(そりゃ社会から隔絶された隠遁生活が悪くも何ともないと言えばそれまでだが)、汚いとも取れるノット・イノセンスの世界を拒絶するということがどういうことか、
    突き付けられている気もする。

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    2019年04月20日
  • インヴィジブル

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    1967年のニューヨークやパリを舞台に、一人の大学生が自分を巻き込んだ人物と対決する。
    40年の時を経て、当時の人たちがいろいろと証言していく。

    インヴィジブル具合が、ちょっと中途半端かなと思った。

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    2019年02月11日
  • インヴィジブル

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    オースターの初期作品において、「不可視(invisible)」であるということはイコール「非在」であるということだった、と思う。『見えない男の肖像』では、「不可視」な父親の「非在」が語られ、NY三部作では他者から「不可視」になることで主人公が非在者となって姿を消していく。しかし、そのものズバリ“インヴィジブル”というタイトルが付けられた本書では、不可視であることは必ずしも非在を意味しない。不可視であることが在/非在の境界を曖昧にしていったその先に、真実と創作、事実と願望の見極めがつかない物語だけがただ、在る。
    第一章では、語り手のアダムが経験した1967年春の出来事が描かれるが、この章の物語世界にすっかり引き込まれたところで、不意に第二章が始まる。時は2007年、語り手はアダムの友人・ジム(という名を借りたオースター自身の投影らしき作家)。ジムが第一章の原稿を手にするまでの経緯が語られ、続いて、第一章の続編である「夏」の物語が綴られる。一人称の回想形式で書かれた第一章とは異なり、「夏」は二人称、現在時制で語られている。そして第三章、アダムが書き残したメモを元にジムが書いた「秋」の物語。第四章では、ここまでの物語に登場した人物たちが自ら語り出す。
    一人称で語るアダムの物語から、その外側の世界へ。そしてさらに、その世界にいる別の人物の目線の中へ。第一章では語り手であるがゆえに不可視化されていたアダムの容姿が第二章で浮かび上がり、第一章の印象が変わるように、第二章、第三章で綴られた出来事も、アダムの作品世界の外の人物が語り手となる第四章で別の色彩を帯びてくる。
    真実は何か。殺人はあったのか、愛の日々はあったのか。起きたこと、起きなかったこと。あり得たかもしれないこと、なかったかもしれないこと。人生を形作るものはただ「事実」だけではない。願いや疑惑や直感的な印象、失ってもなお胸の内に住み続ける存在、消えぬ思い出、それら「不可視」だけれども確実にそこに「在る」、虚実の境界が意味をなさない物語もまた、誰とも分かち合えない自己、逃れることのできない主観の世界に生きる私たちの人生の、重要な位置を占めるものなのだと思う。そしてその、不可視の存在を可視化させる、一瞬の幻を永遠に記録する“言葉”の力というもの――その圧倒的で魔術的な力を、改めて感じさせる作品でもあった。

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    2019年01月22日
  • インヴィジブル

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    大学生アダムとコロンビアの客員教授ボルンの邂逅から始まる数奇な物語は、様々な語りを通して、はっきりとした真実がわからないままに語られていく。

    まさに〝Invisible〟.
    現実もこうなのかもしれない。

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    2018年10月24日
  • インヴィジブル

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    詩人を目指す大学二年生の「私」はパーティの席上でフランス人男女と知り合う。次に会ったとき、そのボルンというコロンビア大学の客員教授は「私」に雑誌編集の話を持ちかける。新雑誌の内容から運営まですべてを任し、資金は援助するという嘘みたいな話である。連れのマルゴが「私」のことを気に入ったのが支援を申し出た理由だ。最近、財産を手にしたので、女を喜ばせてやりたいという。

    信じられない話だが、ボルンは大金の小切手を用意していた。事件は前祝いの夜に起きる。夜道で黒人の少年が二人を銃で脅したのだ。おびえる「私」をしり目に、ボルンはしのばせていたナイフで少年を刺す。銃には弾が入っておらず、救急車を呼ぼうという「私」をボルンは裁判沙汰になっては面倒だと制す。翌朝、背中を何度も刺された少年の死体が発見される。「私」は悩んだ末、何日たってから警察に連絡するが、その頃ボルンはすでにフランスに帰国していた。「私」はボルンと自分が許せなかった。

    以上が第一部の概要。文中「私」と記されているのは、アダム・ウォーカー。第二部の話者である、今は作家となった「僕」と同じニュージャージー出身で大学の同級生。第一章は、ウォーカーが作家となった「僕」に送りつけてきた小説の原稿だった。白血病を患うウォーカーの余命は幾ばくもなかった。同封の手紙には、どうしても書きたかったことを死ぬ前に小説に書いているが、内容は事実に基づいているとあった。

    小説の書名は『一九六七年』。第三次中東戦争勃発の年で、アメリカの諸都市で人種暴動の嵐が吹き荒れた熱い夏だ。第二部「夏」は過去を振り返る回想形式で「君は」と二人称で書かれている。事件のあった後「君」はフランス留学を認められる。留学を目前にした一九六七年の夏休みを、「君」は最愛の姉と過ごしている。この二人の過ごす夏休みが尋常でない。二人は姉弟として愛し合うだけでなく、男と女としても激しく愛を貪りあう。

    第二部を読んだ「僕」はウォーカーに会うためオークランドを訪れるが、ウォーカーはすでに死んでいた。体力がなくなりかけていたせいか、「僕」宛に残された第三部「秋」は完成した原稿ではなく「店へ行く、眠りにつく」といった電報のようなメモ書きで概略が書かれ、完成は「僕」に委ねられていた。「僕」は「三人称、現在時制」で文章を完成させることにする。

    第三部はフランスに渡ったウォーカーとボルンのその後を描く。ボルンは帰国後マルゴと別れ、別の子連れの女性と婚約中。パリ留学中、街角で偶然再会したウォーカーとボルンは、旧交を温めることになる。ウォーカーは、ボルンを許したふりをしながらイレーヌとセシルという親子に近づき、信用を得た後でボルンの秘密を明かし、婚約を破談に持ち込むことで復讐を果たそうと動きはじめる。

    第四部の舞台となるのは現在。二〇〇七年に小説を書き終えた「僕」はフランスを訪れ、現在は文学研究者となった五十七歳のセシルを訪ねる。「僕」はセシルから、その後のボルンと母親との顛末を聞かされる。最後に付されるのが、セシルの眼から見た晩年のボルンの姿を描いたセシルの手記である。ボルンが何故イレーヌと結婚しようとしたのか、その謎が暴かれる。読者が謎に満ちたボルンという人物を知るための手掛かりになっている。

    四部構成で、第一部は一人称、過去時制。第二部は二人称、現在時制。第三部は三人称、現在時制。そして第四部を締めくくるのは、謎の解決を仄めかす他人の手記、といういかにもポスト・モダン風の手の込んだ構成の小説になっている。内容は完全なフィクションながら、素材となっているのは、同時代にコロンビア大学に学び、詩人を目指し、パリに留学し、帰国した後、小説家となったポール・オースターその人の過去である。

    「インヴィジブル」とは、「不可視」という意味。アイデンティティや、生きる意味を探ることを主たるテーマとするポール・オースターにとって、見るという行為はいつも問題となる。だが、作家の書くことの真偽は読者にとっては「不可視」である。オースターはそれを逆手にとり、書いた作家にも「不可視」の小説を書いた。小説の核となる、ボルンの殺人、姉との近親相姦、ボルンの来歴等々について、小説の完成者であり、作者なのに「僕」は真実を目にすることは許されていない。

    「僕」との話の中で、グウィンは弟との関係を彼の妄想と言い切っている。ボルンの話を信じるなら、少年は公園に運んだ時には死んでおり、多くの刺し傷は別の誰かによるものだ。しかし、「僕」には二人の言葉の真偽のほどを計る術がない。小説は完成を見たものの、ひとりの青年が体験した戦慄と陶酔、そしてその贖罪のための後半生は「不可視」の闇に包まれたままだ。

    凝った構成で、読ませるための読者サービスに溢れた小説になっている。ポール・オースターは自己言及的な作家で、自伝的エッセイも書けば、半自伝的な作品も書いている。これだけ、何度もくり返し自分の人生を扱っていながら、まだそれを素材に新しい小説を書こうという意欲を残しているというのがすごい。そうは思いながら、自分という存在に対する臆面もない熱の入れように、ちょっと気おくれを感じてしまう自分がどこかにいる。自分という存在は、自分にとってそんなに大したものなのだろうか、と。

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    2018年10月24日
  • 翻訳夜話2 サリンジャー戦記

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    小説家であり翻訳もこなす作家の村上春樹と訳書をいくつも出版している柴田氏の対談。翻訳夜話という新書の2にあたる。
    タイトルにあるように作家サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳にまつわる様々なエピーソードなどを対談形式で送る本。

    文学や翻訳に興味がない人はまったくおもしろくないだろうが、そういうのに少しでも手を付けている人はなかなか興味深く読めるとおもう。

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    2018年10月09日
  • 翻訳夜話2 サリンジャー戦記

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    "the Catcher in the Rye" 40年振りの新訳について、訳者 村上春樹と柴田元幸が語り尽くす。

    出版に先立って行なわれた白水社主催の対談、本書出版のために行なわれた文春主催の対談、訳書に(契約上の問題で)未掲載となった幻の訳者解説、柴田元幸のエッセイ風解説の 4編からなる。圧倒的に面白いのは、やはり出版前夜の興奮を湛える白水社の対談。"the Catcher in the Rye" を訳すためには、物語そのものではなく、スタイル(文体)を翻訳する必要があった、そしてこの40年の日本語の変化や、日本文化のアメリカ化が、(1964年の野崎訳と比較して)それを比較的直截的にしているという話は興味深い。それに比べると文春の対談は凡庸。

    訳者解説は(意図して)大半がサリンジャーの略歴で、作品自体の解説はあまりしていない。その微かな作品解説の中で、"the Catcher in the Rye" を「構造的に完成された(あるいはそれを意図して書かれた)小説ではない」というのはその通りで、構造に着目して読み込む類の小説ではないだろう。しかし、その魅力を同世代の共感に求めたのは短絡的に過ぎる。個人的には、サリンジャーという「大人」が 16才のホールデンという adolescence を克明に描き切っているところが、この小説の興味深いところだ。それは大人になってから思い描く adolescence の勢いであり、未熟さであり、16才当初のそれそのものではないところに逆に魅力がある。

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    2016年03月21日
  • オズの魔法使い

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    わかりやすいテーマを持ち、終始明るい雰囲気で進む物語であった。
    設定の良い意味での不徹底さと大人子供をはじめとした境界の曖昧さから、考えるとはどういうことか、また心とはなんなのかといった疑問を説教がましい形でなく伝えている、まさに現代のおとぎばなし「ふしぎなおはなし」であると感じられる。

    それでいて、覚えておきたいような言葉や小気味良いフレーズも数多く登場する。

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    2015年04月04日
  • ジム・スマイリーの跳び蛙―マーク・トウェイン傑作選―

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    ネタバレ

    村上春樹さんの言及により読んでみた。一番最後の夢の話が結構最近の自分の行動と(夢で見た内容を記述)シンクロニシティな感じでした。あと、小話の面白さの本質について、とかもなかなかよかった。

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    2015年03月04日
  • 翻訳夜話2 サリンジャー戦記

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    「キャッチャー」で何を言わんとしているのかを知りたくて読んだ。翻訳する際に意識していることも書かれてある。

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    2015年01月26日
  • 翻訳夜話2 サリンジャー戦記

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    キャッチャー・イン・ザ・ライを翻訳した村上春樹と柴田元幸によるサリンジャー・キャッチャー論、及び翻訳論。小説家の見方、米文学研究者の見方、翻訳者の見方、そして純粋な読者としての見方から、キャッチャーを多角的に語り尽くす対談。村上さんによる訳者解説と、アメリカ文学におけるキャッチャーの位置付けを洒落た形式で語った柴田さんの文章も読める。

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    2014年12月04日
  • オズの魔法使い

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    古典。長い時を経てもなお読まれてる作品にはそれだけの含蓄がありますね。
    様々なテクニックが凝らされた昨今の小説のような面白さはもちろんないけども、キャラクターから滲み出る人柄、ユーモアと皮肉、不思議な世界観などなど。面白かった。

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    2013年07月01日
  • 小説の読み方、書き方、訳し方

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    予想していた以上に、高橋源一郎が「実のあること」を言っている。かなり勉強になる。
    また日本文学はかなり「進んでいる」。
    復習必。

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    2013年05月29日
  • 翻訳夜話2 サリンジャー戦記

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    おもしろい。
    ホールデン少年が結局何が好きで本当に気に入らないものは何だったのかということを考えていたので。

    彼らがこんなにもいろいろ考えながら読めるのは、当たり前だけどほんとうにたくさんの本を読んできたからなんだと思うと果てしないなあ

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    2013年04月13日