古田徹也のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
22ページにある
「言葉を学ぶことは、社会のあり方や生活のかたちを学ぶこと」
この言葉に強く共感する。今私たちの頭の中でほとんどの場合、言葉が川を流れるように考え事をしている。それを表現するとき、いかにベストな言葉を使用し、相手にうまく伝えるか。それは日々の鍛錬であり、疑問を持ったり興味を持つことが大切だ。
流行り言葉の「エモい」や「メロい」などの言葉も偶然生まれたように見えるが、そこには今まで使われてきた日本語の規則性のようなものが垣間見える。
現代社会において、今まで言語化していなかったものが言葉になったとき、方言がだんだん日本中に浸透していったとき、なんとなく時代の変化を見ているようで楽しい。つまり、言葉は楽しい。 -
Posted by ブクログ
すべての哲学は、言語批判である。
ウィトゲンシュタインの言葉だという。
この立場から身近なことばの在り方を観察し、批判的に捉え返したのが本書だということだ。
ことばの中には過去の文化が蔵されている。
新しい言葉の中に、新しい世界の見方が表れている。
発言という行為には応答の責任が伴う。
ことばのもつ危うさにも言及されていた。
大きな主語での語りのおおざっぱさ。
批判が非難と同義にされ、批判が忌避される日本の言語環境。
十分吟味されないで導入された新語による視野の固定。
誤用が定着することでおきるコミュニケーション不全。
文章が上手で、非常に読みやすい。
(この人はあと数十年したら、きっと新聞紙上の鷲田清一さんのポジションにいるのではないかと思う。)
取り上げられた内容は、どこかでこれまでに読んだことがあるような。
哲学の人だけでなく、言語学の人も問題にしている内容でもある。
誤用が定着することを危険、としているところは、哲学者だなあ、と面白く感じたところではあったけれど。
勝手に私が期待しすぎているだけかもしれないが、もう少し突っ込んだ議論があったらなあ、と感じる。
たとえば、やさしい日本語についての議論。
私は10年以上ボランティアとしてやさしい日本語を使う仕事をしている。
その立場から言って、本書の議論にはやや疑問が残る。
筆者は、やさしい日本語が日本語の豊かさを損なったり、日本語での思考を単純化したりすることを危惧している。
理屈としては、ごもっとも。
が、やさしい日本語は、実践家の中でいろいろな立場はあるかもしれないが、少なくとも自分たちにとっては、「緊急避難」的に用いるものだ。
情報から取り残される人を少しでも少なくするために、限界を意識しつつ使うもの、と言ったらいいだろうか。
やさしい日本語を使ってみれば、すぐに表現の限界にすぐにぶち当たる。
だから、例えば専門的な内容の文書や表現そのものを楽しむ文芸的な作品にまでやさ日にすることは、まずない。
やさしい日本語に関わっている人ほど、このような「住み分け」を意識するのではないかと思う。
すべての表現をやさ日化すべきだと主張する人がもしいるとすれば、それはやさ日を表面的にしか知らない人ではないのかと思う。
また、筆者が危惧するほど、やさしい日本語が日本社会に広がるとも思えず、規範化もしない気がする。
グロービッシュやベーシック・イングリッシュの話を思い出す。
簡略言語は、ネイティブには広がらない。
身につけるメリットが感じられないからだ。
関わっている者の立場からは、もう少し関心を持ってもらいたいとさえ思うが、これが現実。
そう考えていくと、筆者の危惧は、理屈としては理解できるが、今自分が見えている現実とはかなり異なっているように思われる。
あとは、謝罪についての議論も、もう少し詳しく掘り下げてほしかった。 -
Posted by ブクログ
ウィトゲンシュタインとカール・クラウスの言語論についての検討をおこないつつ、「生きた言葉」や「魂ある言葉」とはなにかという問いを考察している本です。
本書ではまず、中島敦とホーフマンスタールの二編の小説がとりあげられ、それらの作品に見られる、いわゆる「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれる現象に注目がなされています。その後、ウィトゲンシュタインの言語論、とりわけアスペクト盲をめぐる議論についての検討がおこなわれています。
後期ウィトゲンシュタインの言語論は、ときおり「意味の使用説」といったことばでまとめられることがありますが、本書では、ウィトゲンシュタインがことばが帯びているアスペクトないし「表情」について検討をおこない、一方では彼が言葉のうちに宿る「魂」の実体化を否定しながらも、他方ではことばを理解しているといえるためにはそのつかいかたを知っているだけではなく、言葉を体験しているのでなければならないという考えをいだいていたことが指摘されます。著者は、「ぴったりと合う」ことばをさがしているときの体験などを例に、ことばのアスペクトを次々と見わたしていくことによってことばの輪郭が把握されるという見かたを提示しています。
つづいて、こうしたことばの見かたにもとづいて、クラウスの言語観が検討され、とりわけことばがたんなる伝達のための道具ではなく、「かたちを成す」機能をそなえていることに目を向けています。さらに、マス・メディアなどを通じて紋切り型のことばが流通することの危険性にいち早く目を向けていた思想家としてクラウスを評価し、ことばへのかかわりが倫理的な問題につながっていることを展望しています。