あらすじ
我々がこの世界で何をなし、何を受け取るかは、「運」というものに大きく左右されている。しかし、あるべき行為や人生をめぐって議論が交わされるとき、なぜかこの「運」という要素は無視されがちだ。特にその傾向は、道徳や倫理について学問的な探究を行う倫理学に顕著である。それはいったいなぜだろうか。本書では、運が主に倫理学の歴史のなかでどう扱われ、どのように肯定や否定をされてきたのか、古代ギリシアから現代に至る人々の思索の軌跡を追う。そしてその先に、人間のあるがままの生をとらえる道筋を探る。
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Posted by ブクログ
1053. 2023.08.10
・道徳的評価は動機付けによってなされるべきであるという原則と、しかし、未遂犯と既遂犯に同じ評価を下すことはできないという行為の帰結を評価する立場(そこには運が絡む)との相克を描く。
Posted by ブクログ
キャッチーなタイトルにも惹かれ、確かに理性を最重要なものとして取り扱う哲学や倫理なども、運ってどう処理してるのだろうと興味をそそられましたのです。
運はまず偶然と必然・運命にも分類されるし、古代ギリシャのトユケーやダイモーンといった用語はこのどちらの意味も内包している曖昧な定義を有し、そこを巧妙に使い「オイディプス王」で悲劇を演出してる。概して近代の経験主義までは人間の真理や徳のある人というのは、運の影響を除いた形で論理立てていてる。西洋哲学の系譜なので、神とか来世なんてものにも関係づけて、不道徳な行いを実施し罰せられないことが不幸なんて言ってみたり。
アダム・スミスの道徳に関する公正も原則、不道徳や悪いことを実際成されたことではなく、心の内に想起したことによって罰するべきである。これが大原則なのだが、不完全人間の「感情の不規則性」つまり、意図したことと異なる過失などで生じた結果に対する罪の意識(公正の原則に従えばこれは後悔する必要などない)などに他人の尊重やシンパシーを生んでいる・異端尋問を回避するなどの肯定的な側面もある。
最後が著者の伝えたい核心なのだろう、バーナード・ウィリアムズの倫理的運という概念を提示し、人間の運と道徳の狭間で揺れ動かざるを得ない存在を強調している。トラック過失事故の例などは共感を得るし、そうなることはやはり運の要素に当事者としての責任を感じるべきという意識があるのだと気づかされる。
中々重厚な内容ではありましたが、文章の展開も冗長でダレるなんてこともなく、すんすん読み進み、最後に成人君主としての賢人(神に近い存在のようなもの)とは一線を画す倫理への問いを投げかけてくれている。親ガチャとか戦争とかの悲劇の中にあっても自分の中に徳を持つことが幸せ、なんて言えるのだろうか。
Posted by ブクログ
運ってなんなんでしょうね。抗うものか受け入れるべきものか。まぁどっちもなんだろうなぁ。とりあえずあたふたしないようにしときます。思考が止まってしまうしね。しかし、この著者の本は読みやすくてよろし。読みやすいって大事よね。