古田徹也のレビュー一覧
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本書は2004年に出版された、フランス哲学者によるウィトゲンシュタイン(以下LW)評論の翻訳本。著者は既に鬼籍に入っているが、フランスにLWを紹介した最初の人物だという(ということは、それまでの現代フランス哲学はLWを何ら参照することがなかったのだろうか?)。専門である神学や古代ギリシア哲学、新プラトン主義の文脈からLWを論じているが、本文と解説で丁寧な解説がなされているためそれらの知識がなくとも読み進めることは可能。むしろ最近の哲学書のような重厚長大さがなく、本文も150頁程度とコンパクトであり読み易い。古田徹也氏による解説も充実しており理解を助けてくれる。
内容に関しては古田氏も指摘 -
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キャッチーなタイトルにも惹かれ、確かに理性を最重要なものとして取り扱う哲学や倫理なども、運ってどう処理してるのだろうと興味をそそられましたのです。
運はまず偶然と必然・運命にも分類されるし、古代ギリシャのトユケーやダイモーンといった用語はこのどちらの意味も内包している曖昧な定義を有し、そこを巧妙に使い「オイディプス王」で悲劇を演出してる。概して近代の経験主義までは人間の真理や徳のある人というのは、運の影響を除いた形で論理立てていてる。西洋哲学の系譜なので、神とか来世なんてものにも関係づけて、不道徳な行いを実施し罰せられないことが不幸なんて言ってみたり。
アダム・スミスの道徳に関する公正も原 -
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DPZの古賀さんが呟いていて、興味を持ったので読んだ。
最初の方は、言葉に関するエッセイ的な感じかなあと思っていたけれど、後半はいかに言語と思考が結びついているかがよくわかる題材が多く、普段の自分の言葉の使い方を振り返させられた。流行りの言葉は使い勝手がいいけど、ちゃんとそれを使うことによってどのような効果があるのか、どのような印象を与えてしまうのかを考えて使わなければいけないなと感じた。
自分は言葉を扱う職業に就いている。それでも自分もあまり考えず言葉を使ってしまうことがある。だから「言葉は道具以上の役割を持っている」ということを常に頭のどこかにおいて、言葉を使っていこうと思う。 -
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ネタバレ中島敦と世紀末ウィーンの人物
中島敦とホーフマンスタールが、言葉から魂が抜ける体験を描いて言語"不信"を表明する一方で、ウィトゲンシュタインとクラウスは、むしろ言葉に魂が宿る体験に着目することで、言葉の豊饒[ほうにょう]な可能性を探る言語"批判"を展開している。
ゲシュタルト心理学
ベーコン
思考の歪み「イドラ(幻影)」
「言葉を通じて知性に負わされるイドラ」=「市場のイドラ」が一番厄介
「言葉は知性を無理に加え、すべてを混乱させて、人々を空虚で数知れぬ論争や虚構へと連れ去るものだ」
そのため「真の帰納法」が必要(経験的探究)
①観察・実験を通した -
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22ページにある
「言葉を学ぶことは、社会のあり方や生活のかたちを学ぶこと」
この言葉に強く共感する。今私たちの頭の中でほとんどの場合、言葉が川を流れるように考え事をしている。それを表現するとき、いかにベストな言葉を使用し、相手にうまく伝えるか。それは日々の鍛錬であり、疑問を持ったり興味を持つことが大切だ。
流行り言葉の「エモい」や「メロい」などの言葉も偶然生まれたように見えるが、そこには今まで使われてきた日本語の規則性のようなものが垣間見える。
現代社会において、今まで言語化していなかったものが言葉になったとき、方言がだんだん日本中に浸透していったとき、なんとなく時代の変化を見ているようで -
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すべての哲学は、言語批判である。
ウィトゲンシュタインの言葉だという。
この立場から身近なことばの在り方を観察し、批判的に捉え返したのが本書だということだ。
ことばの中には過去の文化が蔵されている。
新しい言葉の中に、新しい世界の見方が表れている。
発言という行為には応答の責任が伴う。
ことばのもつ危うさにも言及されていた。
大きな主語での語りのおおざっぱさ。
批判が非難と同義にされ、批判が忌避される日本の言語環境。
十分吟味されないで導入された新語による視野の固定。
誤用が定着することでおきるコミュニケーション不全。
文章が上手で、非常に読みやすい。
(この人はあと数十年したら、きっと -
Posted by ブクログ
ウィトゲンシュタインとカール・クラウスの言語論についての検討をおこないつつ、「生きた言葉」や「魂ある言葉」とはなにかという問いを考察している本です。
本書ではまず、中島敦とホーフマンスタールの二編の小説がとりあげられ、それらの作品に見られる、いわゆる「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれる現象に注目がなされています。その後、ウィトゲンシュタインの言語論、とりわけアスペクト盲をめぐる議論についての検討がおこなわれています。
後期ウィトゲンシュタインの言語論は、ときおり「意味の使用説」といったことばでまとめられることがありますが、本書では、ウィトゲンシュタインがことばが帯びているアスペクトないし「表情」