あらすじ
哲学者のウィトゲンシュタインは「すべての哲学は『言語批判』である」 と語った。本書では、日常で使われる言葉の面白さそして危うさを、多様な観点から辿っていく。サントリー学芸賞受賞の気鋭の哲学者が説く、言葉を誠実につむぐことの意味とは。
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Posted by ブクログ
言葉への重み。最近言語化することに対しての本がたくさんある。言葉がいかに大事にされているか深くのしかかる。日本語を大切に、責任を持って使っていきたい。エモいやメロいは使いたくない。
・おしり一丁!
・子どもたちは自分たちで「生んでくれ」と頼んだわけではない。勝手に投げ込まれた各々の場所で必死に生きる彼らのために、少しでもこの世界をましなものにする責任が私たち大人にはある。
・しあわせの意味の変遷。でもその変わる前と先には連関する何かがある。
・「社会に出る」とは。社会人がそんなに偉いのか、多様な面に触れていかなくては社会人にはなれないのか。
・子供にとって世界は〈はじめて〉ばかりの、あまりに不確かなもの。それに適応しようと日々気張っている娘からすればきちんと同じことが繰り返されることは束の間の安全地帯なのだろう。それでも子どもは、自分がよく見知ったその安定した場所から進んではみ出し、危険を冒そうともする。子のそういう姿を見ながら、親は何ができるんだろう、何をすべきなんだろう、でもそんな悩みは親の自惚れに過ぎないのかもしれない。
・豆腐ほどのものを自分はこれから先、生み出せることができるのか。
・論文だとしても個人的な経験から照らし合わせて社会的な議題や、一般的な結論へと向かっていくことは別に不適切ではない。
・自分たちだけの業界用語を無駄にこねくってかっこつけて話すのはどうなのか。自分とは異なる背景を有する相手の立場に立ち、物事を分かりやすく表現して伝えようとすることは、多くの場面で多角的な理解を促進してくれる。
・ニュースピークの例は熟考への力を弱める、人々を管理しやすくするための言葉の悪い運用方法。
・やさしい日本語も、精密コードとしての日本語も、両方必要。
・ステレオタイプで何かを論議するというのはなぜこんなに楽しいのか。
・遠慮や知ったかぶりしなくてよいこと。素朴なことも否定されるおそれをもたずに、自分の経験に即して自由に語れること。こっちが言葉に詰まっても相手が待ってくれること。この対話の実践は色んな場所で行われてよいはず。
・批判は相手を言い負かす攻撃ではない。相手とともに問題を整理し、吟味し、理解を深め合う。お互いに少し斜め上を向き、同じものを見つめながら語り合うイメージ。
・為政者に「なぜ?」と直接問うて、理由の説明が返ってこないなら批判しなくては。はぐらかされたら執拗に理由を求めるために聞き返す人たちを支えなくては。
・新しいものをつくることだけが発明ではない。元々あったものを新しい見方や注意の向け方で新しく捉えるだけでも重要な発明である。
・ある個別の言葉に対して、ある人々の間に違和感が生まれてきたときに、自分もその言葉に対してあらためて注意を向けて見直す。そしてその言葉に関する現実をさまざまな角度から見直す。自分が見逃してきたものを見ようとすること。
・新しい生活様式を呈示したとき、今まで古い生活様式でずっと大切にされてきた生活の人たちの顔は浮かばなかったのか。父権主義的な言葉の強い力に立ち向かわなくてはならない。全体主義に刃向かえ。
・ステイホームは帰るべき家がない、虐待を受けている人たちに向けても発信したといえるのか。物事の一面を強力に照らし出し、人々の見方をそこに向ける言葉は、スローガンとして効力をもちうるが、代わりに見えなくなるもの、自ずと抑えつけてしまうものも、不可避的に生じてくる。
・コロナに対する専門家から発せられた言葉は大きな影響を伴って、従いたくても従えない複雑な事情を持った人たちに対して、自粛警察にとっての錦の御旗となり私的制裁を助長させてしまうのではないか。
・不法な報酬を受け取っても後で返せば収賄にならない、物を盗んでも後で返せば窃盗にならない、言葉を発しても後で撤回すれば言ったことにはならない!言葉にも暴力と同じ一過性があるはず、取り返しはつかないはずなのに。「いまの殴打を撤回します」
・しっくりこない、どうも違う、といった迷いは類似した言葉の間でしか生まれない。迷い、ためらうことを可能にする言語を贈られている。
Posted by ブクログ
とても面白かったです。子どもは特に親、先生の言葉が権威を持つようになると思います。実際私もそうでした。しかし、自己が形成されるにあたり言葉を扱うことの重要性が見えてきて、彼らの使う言葉が本当に正しいのか悩んできました。本書は、そんな私の心の中を解いてくれるような本になりました。ありがとうございます。
Posted by ブクログ
言葉にして伝えるって難しい。何気なく使っている言葉の定義や語源を十分に理解することなく、気づけば軽い気持ちでコミュニケーションをとっている自分がいる。人と会話する機会が増え、コミュニケーションがフラットになりつつある今だからこそ咀嚼するように読み直したい新書。ウィトゲンシュタインの「言語批判」をベースに、日常的に使用される言葉の側面について深く考察がなされている。
p125
ステレオタイプで話すというのは、何でこんなに楽しいんだろう。
この一文は全体を通して最も印象的だった。言われてみれば、日常生活においてカテコライズを通して物事を単純化したり、あるいは相手に伝わりやすいように比喩を用いたりする。この行為自体が絶対的に悪というわけではないが、このような"わかりやすさ"にはミスリーディングな理解・伝達を誘発したり、最悪の場合、差別・排斥といった形で人を傷つけてしまうことすらある。
p281
私たちの生活は言葉とともにあり、そのつど表現と対話の場としてある。言葉を雑に扱わず、自分の言葉に責任をもつこと。言葉の使用を規格化やお約束、常套句などに完全に委ねてはならないこと。これらのことが重要なのは、言葉が平板化し、表現と対話の場が形骸化し、私たちの生活が空虚なものになることーひいては、私たちが自分自身を見失うことーを防ぐためだ。
単に語彙力や読解力を高めれば良いという話ではなく、多様な言葉のもつ多様な側面を見渡し、他者との対話を重ねていく中で「言葉を哲学する」こと。批判的な精神をもって探究を続け、言葉に対して責任を負える人でありたい。
Posted by ブクログ
言葉について考えることは、それが息づく生活について考えること p.37
「お父さん」や「お母さん」等々も、そして「先生」も、子どもから見た自分の立場にはほかならない。それを一人称として用いることによって、いまの自分が、子どもを保奏し、ときに教え諭す役割を担う者であることを、自ずと示しているのである。p.64
依存先が限られてしまっている」ということこそ、障害の本質にほかならない。逆に言うなら、「実は膨大なものに依存しているのに「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、自立。といわれる状態」だということである。p.69
※しっくりくる言葉を吟味するということ
学部生の書く哲学・倫理学の論文は、まず何らかの問いを立て、それに対する答え(および、その答えの根拠)を探究する、という手順を踏むのが一般的だ。このとき、読む側からすると、なぜそれを問うのかという大本のポイントが掴めない場合がある。その問いに客観的な重要性があるかどうかが明確でなかったり、逆に、あまりにメジャーな問いであるがゆえに、それをなぜ今こうしたかたちで問うのかが分からない、といった具合だ。そうした場合、論文指導の最初にまずこの点を学生に尋ねると、学生本人のこれまでの経験が問いの基層にあるケースが多い。たとえば、高校時代にかくかくのことに悩んだとか、アルバイト中にしかじかの場面に遭遇したといった経験だ。それを聞いて腑に落ち、論述の内容に入り込めるようになったとき、私は学生に対して、論文の冒頭において当該の経験に―書ける範囲で、あるいは、より一般化したかたちで触れつつ、問いを自然に導くかたちにしてはどうか、と提案することもある。さらに、そこからその問いの客観的な重要性を示す論述が必要な場合もあれば、問いが明確に示されれば、それだけで十分に重要性が分かる場合もある。よく勉強している学生はど、そういうことを書いていいんですか、と驚く。p.86
十拍一絡げにする言葉の危うさ p.123
重要なのは林の表現を尊重するということだ。具体的には、相手の言葉を十分なかたちで描い上げ、それがどのような脈絡の下で発せられたのかをきちんと踏まえたうえで応答するということが必要だろう。批判を受ける側も、自分の言わんとすることをちゃんと聞いてもらい、それをよく理解してもらったうえで、納得できる問題点を指摘されるのであれば、苦い思いをしたり、多少傷つく部分はあるとしても、感謝する部分の方がきいだろう。p.138
「自粛を解禁」という誤用が意味すること p.240
「発言を撤回すること」はできるか p.250
※つまり、しっくりくる言葉の候補は、自分がこれまでの生活のなかで出会い、馴染み、使用してきたものたちなのである。それゆえ、そうした言葉の探索は自ずと、これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを、部分的にでも振り返る実践を含んでいる。よく、「自分の言葉で話しなさい」ということが言われ、創意のある言葉やユニークな言葉を繰り出すことが無闇に推奨されることもあるが、「自分の言葉で話す」というのは必ずしもそういうことではない。むしろ、ありがちな言葉であっても、数ある馴染みの言葉の中から自分がそれをしっくりくる言葉〉として選び出すのであれば、そのことのうちに、これまでの来歴に基づく自分自身の固有なありようや、自分独自の思考というものが映し出される。逆に、「お約束」に満ちた流暢な話しぶりや滑らかな会話は、こういう場合は人はこう言うものだ)、こう言うのが世間では正解だ〉という暗黙の基準にしばしば支配されている。それが常に悪いわけではないが、しかしそのときには、言葉に責任をもつべき自分がそこに存在しないことも確かなのである。P.280
Posted by ブクログ
最初は本当に素朴な日常のちょっとした言葉や、子どものちょっとおかしな言葉からなぜそう言うのか?を考えていくところが入りやすくそこから段々と正しい言葉を使うことの有用性を明らかにして行く感じだった。
確かにと思ったのは子どもに対して自分のことをお父さん、お母さん、もしくは先生と呼ぶのはなぜか。それは自分が子どもに対して教え導く存在だと思っていてその地位を明示している、と言ったような内容があった。
Posted by ブクログ
素朴な視点で言語を考える。
なぜ「三角い」や「緑い」と言ってはいけないのか。自然発生したものなら、どんな言語にも、必ずしも規則的ではない慣習的な言葉がある。また、文化由来の「高飛車」なんていう言葉もある。オノマトペを多用する文化としない文化の違いとは。言葉は、自然的な事実、歴史、音韻やリズムなど、実に複雑な要素の賜物。そうした面白さを伝えてくれる本だ。
哲学者のウィトゲンシュタインが援用されるが、何より本書の白眉であり、著者のズルい所は、この「素朴な視点」の保有者として、幼い娘の発言を引用してくる点にある。そして、著者同様、私にとっても、その娘の言葉が最も考えさせられるテーマとなる。
ー いま、六歳になろうとしている娘は、先日、歯磨きしている私に近寄るなり、「なんで、頭のなかで「こう言おう」と思わなくても人はしゃべれるの?」と質問してきた。「好きな食べ物は?と聞かれたら、「唐揚げです」と思わなくても「唐揚げです」と言えるのはなんで?」いやそれは実に、自分がずっと不思議に思っていることだよ。本や論文のなかで何遍もそのことについて書いたんだ。しばし呆気にとられ、どうしてこんな問いがこの小さな体のなかから生まれてくるのかと不思議でならなかった。
何気ないやり取りだが、実にずっと不思議に思っていること、その通りなのである。果たして本当にその事に気づいたのか、寓意を含んだありがちな嘘松なのか。どちらでも良いくらい、言語的思考の本質を射抜く問いである。
結局、「三角い」の違和感もそうだが、いちいち母語の文法を考えずに話す訳ではなく、また同様に文法の多少の誤りも無視して理解が可能なように、言語は私たちに身体化されたものだという事の証左だろう。身体化されているので、普段考えずにやり過ごしがちなもの。しかし、よくよく考えると面白いという視点に出会える本だった。
Posted by ブクログ
とっても面白かった!割と言葉に対して敏感な方だが、そうかこういう点もあるのかとたくさんの発見があった。
角度が異なるけれど、本当に難しくて苦しくてわからない!と英語学習の悩みの中にいる私にとって、一つ悩みを減らしてくれるものだった。生活に根ざしており感覚的に使っているため、母国語でないと難しいのは当然という点と、語彙が減ることで言語が痩せていくという点。言語学習の解決にはならないけれど、あぁこれは豊かさの表れなんだなと思うことでハードルが下がった。すべて理解するのは無理なのだ。
Posted by ブクログ
とても面白かった。
哲学的な本だと難しいかと思ったが、日常にある様々な言葉を題材にして、正しい言葉を使うことや文章を書くことの大切さがわかる。
英語や流行り言葉が多様化しているが、歴史の中で作られてきた日本語や漢字のニュアンスなど、他に置き換えることができない表現の違いなどが書かれているのがおもしろかった。
例えば、走ると駆けるを同一言葉にできないのか、、など、一見同じように見えるが、それぞれの持つ意味を掘り下げていくと別の意味合いを持っている事実なども、普段は気づかず使ってきたので、なるほど、と思った。
Posted by ブクログ
日常で使っている言葉をあらためて振り返る機会を与えてくれる好著だ.様々な視点から言葉を考察しており非常に楽しめた.政治家の言葉のいい加減さや思慮のなさは今に始まったことではないが、特に最近は酷いと感じている.基盤になる常識が不足しているのだろう.当然語彙も不十分だ.若者に伝搬しないといいなと思っている.
Posted by ブクログ
●=引用
●しっくりくる言葉を探し類似した言葉の間で迷いつつ選び取ることは、それ自体が、思考というものの重要な要素を成している。逆にいえば、語彙が減少し選択できる言葉の範囲が狭まれば、その分だけ「人を熟考へ誘う力も弱まる」ことになり、限られた語彙のうちに示される限られた世界観や価値観へと人々は流れやすくなる。ニュースピークとはまさに、その事態を意図した言語なのである。
●私たちが言語を用いて行うことのうち、(A)特定の相手の言わんとすることを最大限に汲み取ろうしたり、その相手に合わせて噛み砕いた言葉を発したりする言語実践と、それから(B)突き詰めた精密な思考や豊かな表現を目指して行なわれる言語実践、この二種類のものの間には原理的に緊張関係があるということ、そして、この緊張関係は解くべきではない、ということだ。(中略)たとえば、<やさしい日本語>と<精密コードとしての日本語>のいずれかを、あらゆる言語実践の規範とすべきではない。そうやって二種類の言語実践の間の緊張を解いてしまえば、いずれの言語実践の実質が致命的に損なわれ、私たのち社会から多くの重要なものが失われてしまうことになる。それゆえ、<やさしい日本語>の推進に際しては、それが文字通りの意味であまねく行き渡るべきものではなく、あくまでも初期の日本語教育にかかわるものであり、また、地域に住む多様な人々がそこに自らの「居場所」をつくるためのものである、という位置づけが堅持され、その認識が広く一般に共有される必要がある。
●そうやって適当な言葉のやりとりをノリで行なっているとき、人はしばしば何も考えていない。
●ぺらぺらしゃべれることや、間髪容れずに話を切り返せることは、必ずしも美徳ではない。むしろ私たちは、秒単位のタイムスタンプが押された言葉がネット上を無数に流れ続けるこの時代だからこそ、言い淀む時間こそ大切にし、言葉がゆっくりと選び取りながら語る実践に意識的に向かうべきではないだろうか。ステレオタイプな言説によって多様な現実をぱっと一括りにして済ませたり、当意即妙な受け答えをすることそれ自体を目的とする実践よりも、現実の難しさや複雑さを受け止めた言葉を慎重に紡ごうとする実践の方を尊重すべきではないだろうか。
●遠慮をしたり、知ったかぶりをせずともよいこと。素朴と思われそうなことでも否定される恐れをもたずに、自分の経験に即して自由に語れること。話している途中で詰まっても、相手が次の言葉を待ってくれること。話を途中で遮られないこと。―こうした機会は、多くの人にとって必要なものであるにもかかわらず、貴重なものになっている。だからこそ哲学対話や哲学カフェは、哲学する場である以前に、安堵と解放と承認の場ともなるのだろう。
●マスメディアで頻繁に用いられている「賛否の声が上がっている」という類いの常套句も、問題になっている事柄の内容をさしあたり度外視して、熱量の上昇のみに言及できる便利な言葉だ。どちらかの道理に明らかに分がある場合にも、また、賛否どちらかの声の方が圧倒的に優勢である場合にも、「賛否の声が・・・」と表現しておけば、旗色を鮮明にせずに済むし、自分の言葉に責任をもつ必要もなくなる、というわけだ。「炎上している」とか「賛否の声が上がっている」といった言葉によって物事をひとまとめにしてしまうのではなく、具体的な内容を「批判」する行為が、メディアでもそれ以外の場でも、もっと広範になされる必要がある。
●批判は、相手を言い負かす攻撃の類ではない。繰り返すなら、批判は相手とともに問題を整理し、吟味し、理解を深め合うために行なわれるべきものだ。それゆえ、批判は、相手に真っ向から向き合うというよりも、言うなれば、お互いに少し斜めを向き、同じものを見つめ、そのものの様子や意味について語り合う、というイメージで捉える方が適当だ。
●以上のような「お約束」の言葉たちから逆に見えてくるのは、謝罪が謝罪であるために必要な本質的特徴だ。それは、「謝る」というのはまずもって、当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているかを表明することである、ということだ。(しかもその際には暗に、当該の認識が、謝罪する相手や世間の認識とおおよそ合致していることが期待されるとも言える)
●マクダウエルの言う通り、伝統へと入っていくことは、母語を学ぶことの一部を成している。ただし、このことはもちろん、物事の伝統的な見方はすべてそのまま受け継がれて保存される、ということを意味するわけではない。言語は生ける文化遺産であって、私たちの生活のかたちが絶えず変容を続けるなかで、言葉やその用法も変わり続けている。そして、特定の言葉に対する違和感は、社会や物事のあり方に対する私たちの見方が変わりつつあることを示す重要なサインでありうる。たとえば「お母さん食堂」や「お母さんといっしょ」といったものに見られる「お母さん」の用法は、現在でも疑問に思ったり不自然に感じたりする人が一定数おり、今後もその割合は増えていくだろう。
●同様に「募ったが募集していない」とか「半年後に割り勘にした」といったナンセンスな物言いが社会にまかり通り、そうした意味の壊れた言葉によってその場を切り抜けることが許されるとすれば、人は何事に対しても責任をとらずに済むことになり、まさに何でもありになってしまう。そして、それ以前に、言葉自体が安定した意味をもちえなくなってしまう。言葉がねじ曲がり、壊れることは、そのまま、言語的なコミュニケーションが不全に陥ることを意味する。言葉を雑に扱わず、その意味や用法に心を配り、自分の言葉に責任をもとうと務めることは、言葉とともにある私たちの社会や生活をさ支える基礎でもあるのだ。
●言葉を発することは、それ自体がひとつの行為である。この、言われてみれば当たり前のことを、彼らのような哲学者がことさら言い立てる必要があるのは、この点が実際にしばしば忘れられがちだからだ。たとえば、生活を送るうえでの単なる道具として―記録や報告や伝言のための手段に過ぎないものとして-言葉を捉えるとき、私たちは得てして、言葉が何よりも人を癒したり励ましたりしうること、また逆に、ときにどんな暴力よりも人を傷つけたり恐怖を与えたりすることを忘れてしまう。
Posted by ブクログ
「親ガチャ」「まん延」「発言を撤回」…巷にあふれる「何となくひっかかる」言葉の背景には何があるのか。安易な常套句に逃げることなく、言葉と、ひいては相手と真摯に向き合い、自分の発言に責任を持つことの大切さを説く。単に用法の正誤を論じた本ではなく、私たちの社会のあり方を問う一冊。
Posted by ブクログ
日々、使う/使われている言葉を吟味することの大切さを再認識させられる。目下、Covid-19によって、言葉とそれを取り巻く環境も大きな変動を受けているが、この点に関する様々な指摘は、言葉が持つ力の強さをよく示している。著者の娘さんの言葉に対する素朴な感覚は尊いし、炒めるを辞書でどう書くかの話や見出しの検討の話は、言葉を扱う我々が普段どのような心構えを持つべきかと言うことを端的に表しているように感じた。
Posted by ブクログ
その人が話す、使う言葉が、思考の解像度を反映して、価値尺度は露になる。だから、泥臭く読書をして言葉を手にしていくこと、磨いていくことは尊う。そもそも不完全なコミュニケーションの精度をそれでも上げて、伝える技術、言葉を運用していく作法を手にしようともがくこと。
Posted by ブクログ
DPZの古賀さんが呟いていて、興味を持ったので読んだ。
最初の方は、言葉に関するエッセイ的な感じかなあと思っていたけれど、後半はいかに言語と思考が結びついているかがよくわかる題材が多く、普段の自分の言葉の使い方を振り返させられた。流行りの言葉は使い勝手がいいけど、ちゃんとそれを使うことによってどのような効果があるのか、どのような印象を与えてしまうのかを考えて使わなければいけないなと感じた。
自分は言葉を扱う職業に就いている。それでも自分もあまり考えず言葉を使ってしまうことがある。だから「言葉は道具以上の役割を持っている」ということを常に頭のどこかにおいて、言葉を使っていこうと思う。
Posted by ブクログ
日常使う言葉、見る言葉、気になる言葉を、問うたり磨いたり掘ってみたり振ってみたり(?)。そうやって、それが何なのかを知ろうとする試み、それが哲学なのだろうか。それって何だか科学と同じだな、と感想を書きながら今思った。何か新しいものは生まれなかったけれど、言葉がまたひとつ、自分のニオイがするものになった気がする。
ちょっと政治色が強い節があるので、そこは著者の本領から、読者が勝手に離れてしまうのではないかと懸念した。まあでも、書かれた時期がそういう時期だ。
Posted by ブクログ
22ページにある
「言葉を学ぶことは、社会のあり方や生活のかたちを学ぶこと」
この言葉に強く共感する。今私たちの頭の中でほとんどの場合、言葉が川を流れるように考え事をしている。それを表現するとき、いかにベストな言葉を使用し、相手にうまく伝えるか。それは日々の鍛錬であり、疑問を持ったり興味を持つことが大切だ。
流行り言葉の「エモい」や「メロい」などの言葉も偶然生まれたように見えるが、そこには今まで使われてきた日本語の規則性のようなものが垣間見える。
現代社会において、今まで言語化していなかったものが言葉になったとき、方言がだんだん日本中に浸透していったとき、なんとなく時代の変化を見ているようで楽しい。つまり、言葉は楽しい。
Posted by ブクログ
すべての哲学は、言語批判である。
ウィトゲンシュタインの言葉だという。
この立場から身近なことばの在り方を観察し、批判的に捉え返したのが本書だということだ。
ことばの中には過去の文化が蔵されている。
新しい言葉の中に、新しい世界の見方が表れている。
発言という行為には応答の責任が伴う。
ことばのもつ危うさにも言及されていた。
大きな主語での語りのおおざっぱさ。
批判が非難と同義にされ、批判が忌避される日本の言語環境。
十分吟味されないで導入された新語による視野の固定。
誤用が定着することでおきるコミュニケーション不全。
文章が上手で、非常に読みやすい。
(この人はあと数十年したら、きっと新聞紙上の鷲田清一さんのポジションにいるのではないかと思う。)
取り上げられた内容は、どこかでこれまでに読んだことがあるような。
哲学の人だけでなく、言語学の人も問題にしている内容でもある。
誤用が定着することを危険、としているところは、哲学者だなあ、と面白く感じたところではあったけれど。
勝手に私が期待しすぎているだけかもしれないが、もう少し突っ込んだ議論があったらなあ、と感じる。
たとえば、やさしい日本語についての議論。
私は10年以上ボランティアとしてやさしい日本語を使う仕事をしている。
その立場から言って、本書の議論にはやや疑問が残る。
筆者は、やさしい日本語が日本語の豊かさを損なったり、日本語での思考を単純化したりすることを危惧している。
理屈としては、ごもっとも。
が、やさしい日本語は、実践家の中でいろいろな立場はあるかもしれないが、少なくとも自分たちにとっては、「緊急避難」的に用いるものだ。
情報から取り残される人を少しでも少なくするために、限界を意識しつつ使うもの、と言ったらいいだろうか。
やさしい日本語を使ってみれば、すぐに表現の限界にすぐにぶち当たる。
だから、例えば専門的な内容の文書や表現そのものを楽しむ文芸的な作品にまでやさ日にすることは、まずない。
やさしい日本語に関わっている人ほど、このような「住み分け」を意識するのではないかと思う。
すべての表現をやさ日化すべきだと主張する人がもしいるとすれば、それはやさ日を表面的にしか知らない人ではないのかと思う。
また、筆者が危惧するほど、やさしい日本語が日本社会に広がるとも思えず、規範化もしない気がする。
グロービッシュやベーシック・イングリッシュの話を思い出す。
簡略言語は、ネイティブには広がらない。
身につけるメリットが感じられないからだ。
関わっている者の立場からは、もう少し関心を持ってもらいたいとさえ思うが、これが現実。
そう考えていくと、筆者の危惧は、理屈としては理解できるが、今自分が見えている現実とはかなり異なっているように思われる。
あとは、謝罪についての議論も、もう少し詳しく掘り下げてほしかった。