古田徹也のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ言葉について考えるといつもとても興味深いなーと思います。
言葉なんていらないと思ったことはないけれども、
言葉を使うことの難しさ、そして、言葉が良くも悪くも持つ私たちへの大きな影響やは色々感じる中、
この本はそのようなことを今一度整理し直して考えさせられるものでした。
言葉の深み、言語によって見える世界が変わってくること、
だから私はきっと、他の言語に好奇心を抱いたり、学ぶ動機が湧くのだな、とあらためて気づく。
入ることでしか得られない視点や考え方を、自分も経験してみたくなる。
言語を習得したいけれども言語を習得することは並大抵のことではないなー、と、母語でさえも、その深みを理解しきれていない言葉がたくさんあるのに、と、圧倒されもしますが、一層の関心もそそられますね。 -
Posted by ブクログ
4冊目もとても読みやすく重要なポイントがまとまっているので、現代の西洋での倫理学を理解したい方には良い内容である。
個人的には徳倫理学の章が興味深かった。カントなどの義務論は、行為の是非を問うが、徳倫理学は人格を問う。それはそうだと思うのだが、人格を重視するのであれば、例えば、西洋ではゲーテやシラーなど、教養を高める教育思想があるし、日本の報徳思想や心学など、人間性を高める伝統的教育がある。それらを学ぶことの方が有意義だと思えてきた。
また、徳を重視し過ぎると軍国主義になるや、慰安婦の国家賠償の問題からケアを考えるなど、事実を無視した左翼思想が出てくるところは残念である。 -
Posted by ブクログ
面白かった。
哲学の本を読んでると「そんなこと延々と考えてどないすんねん」と思うことが多いけど、まあ倫理学は考える価値があると思う。万が一、皆が納得できる形で正しさをルール化できたら、立法やらなんやらがすごくスムーズになると思うので。そんな夢を追って思考を深めているならカッコイイと思う。
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とはいえ、やっぱり倫理は何かしらの理屈で説明できるものではないのでは、というのが読み終わっての感想かもしれない。
徳のある人物を目指す徳倫理学や、現場レベルの判断を問うケアの倫理は、結局「皆が心に手を当ててやっていくしかない」的な発想やと思うし、まあ実際そうよな、という気持ちもある。 -
Posted by ブクログ
●=引用
●しっくりくる言葉を探し類似した言葉の間で迷いつつ選び取ることは、それ自体が、思考というものの重要な要素を成している。逆にいえば、語彙が減少し選択できる言葉の範囲が狭まれば、その分だけ「人を熟考へ誘う力も弱まる」ことになり、限られた語彙のうちに示される限られた世界観や価値観へと人々は流れやすくなる。ニュースピークとはまさに、その事態を意図した言語なのである。
●私たちが言語を用いて行うことのうち、(A)特定の相手の言わんとすることを最大限に汲み取ろうしたり、その相手に合わせて噛み砕いた言葉を発したりする言語実践と、それから(B)突き詰めた精密な思考や豊かな表現を目指して行なわれる言語実践、この二種類のものの間には原理的に緊張関係があるということ、そして、この緊張関係は解くべきではない、ということだ。(中略)たとえば、<やさしい日本語>と<精密コードとしての日本語>のいずれかを、あらゆる言語実践の規範とすべきではない。そうやって二種類の言語実践の間の緊張を解いてしまえば、いずれの言語実践の実質が致命的に損なわれ、私たのち社会から多くの重要なものが失われてしまうことになる。それゆえ、<やさしい日本語>の推進に際しては、それが文字通りの意味であまねく行き渡るべきものではなく、あくまでも初期の日本語教育にかかわるものであり、また、地域に住む多様な人々がそこに自らの「居場所」をつくるためのものである、という位置づけが堅持され、その認識が広く一般に共有される必要がある。
●そうやって適当な言葉のやりとりをノリで行なっているとき、人はしばしば何も考えていない。
●ぺらぺらしゃべれることや、間髪容れずに話を切り返せることは、必ずしも美徳ではない。むしろ私たちは、秒単位のタイムスタンプが押された言葉がネット上を無数に流れ続けるこの時代だからこそ、言い淀む時間こそ大切にし、言葉がゆっくりと選び取りながら語る実践に意識的に向かうべきではないだろうか。ステレオタイプな言説によって多様な現実をぱっと一括りにして済ませたり、当意即妙な受け答えをすることそれ自体を目的とする実践よりも、現実の難しさや複雑さを受け止めた言葉を慎重に紡ごうとする実践の方を尊重すべきではないだろうか。
●遠慮をしたり、知ったかぶりをせずともよいこと。素朴と思われそうなことでも否定される恐れをもたずに、自分の経験に即して自由に語れること。話している途中で詰まっても、相手が次の言葉を待ってくれること。話を途中で遮られないこと。―こうした機会は、多くの人にとって必要なものであるにもかかわらず、貴重なものになっている。だからこそ哲学対話や哲学カフェは、哲学する場である以前に、安堵と解放と承認の場ともなるのだろう。
●マスメディアで頻繁に用いられている「賛否の声が上がっている」という類いの常套句も、問題になっている事柄の内容をさしあたり度外視して、熱量の上昇のみに言及できる便利な言葉だ。どちらかの道理に明らかに分がある場合にも、また、賛否どちらかの声の方が圧倒的に優勢である場合にも、「賛否の声が・・・」と表現しておけば、旗色を鮮明にせずに済むし、自分の言葉に責任をもつ必要もなくなる、というわけだ。「炎上している」とか「賛否の声が上がっている」といった言葉によって物事をひとまとめにしてしまうのではなく、具体的な内容を「批判」する行為が、メディアでもそれ以外の場でも、もっと広範になされる必要がある。
●批判は、相手を言い負かす攻撃の類ではない。繰り返すなら、批判は相手とともに問題を整理し、吟味し、理解を深め合うために行なわれるべきものだ。それゆえ、批判は、相手に真っ向から向き合うというよりも、言うなれば、お互いに少し斜めを向き、同じものを見つめ、そのものの様子や意味について語り合う、というイメージで捉える方が適当だ。
●以上のような「お約束」の言葉たちから逆に見えてくるのは、謝罪が謝罪であるために必要な本質的特徴だ。それは、「謝る」というのはまずもって、当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているかを表明することである、ということだ。(しかもその際には暗に、当該の認識が、謝罪する相手や世間の認識とおおよそ合致していることが期待されるとも言える)
●マクダウエルの言う通り、伝統へと入っていくことは、母語を学ぶことの一部を成している。ただし、このことはもちろん、物事の伝統的な見方はすべてそのまま受け継がれて保存される、ということを意味するわけではない。言語は生ける文化遺産であって、私たちの生活のかたちが絶えず変容を続けるなかで、言葉やその用法も変わり続けている。そして、特定の言葉に対する違和感は、社会や物事のあり方に対する私たちの見方が変わりつつあることを示す重要なサインでありうる。たとえば「お母さん食堂」や「お母さんといっしょ」といったものに見られる「お母さん」の用法は、現在でも疑問に思ったり不自然に感じたりする人が一定数おり、今後もその割合は増えていくだろう。
●同様に「募ったが募集していない」とか「半年後に割り勘にした」といったナンセンスな物言いが社会にまかり通り、そうした意味の壊れた言葉によってその場を切り抜けることが許されるとすれば、人は何事に対しても責任をとらずに済むことになり、まさに何でもありになってしまう。そして、それ以前に、言葉自体が安定した意味をもちえなくなってしまう。言葉がねじ曲がり、壊れることは、そのまま、言語的なコミュニケーションが不全に陥ることを意味する。言葉を雑に扱わず、その意味や用法に心を配り、自分の言葉に責任をもとうと務めることは、言葉とともにある私たちの社会や生活をさ支える基礎でもあるのだ。
●言葉を発することは、それ自体がひとつの行為である。この、言われてみれば当たり前のことを、彼らのような哲学者がことさら言い立てる必要があるのは、この点が実際にしばしば忘れられがちだからだ。たとえば、生活を送るうえでの単なる道具として―記録や報告や伝言のための手段に過ぎないものとして-言葉を捉えるとき、私たちは得てして、言葉が何よりも人を癒したり励ましたりしうること、また逆に、ときにどんな暴力よりも人を傷つけたり恐怖を与えたりすることを忘れてしまう。 -
Posted by ブクログ
本書は2004年に出版された、フランス哲学者によるウィトゲンシュタイン(以下LW)評論の翻訳本。著者は既に鬼籍に入っているが、フランスにLWを紹介した最初の人物だという(ということは、それまでの現代フランス哲学はLWを何ら参照することがなかったのだろうか?)。専門である神学や古代ギリシア哲学、新プラトン主義の文脈からLWを論じているが、本文と解説で丁寧な解説がなされているためそれらの知識がなくとも読み進めることは可能。むしろ最近の哲学書のような重厚長大さがなく、本文も150頁程度とコンパクトであり読み易い。古田徹也氏による解説も充実しており理解を助けてくれる。
内容に関しては古田氏も指摘している通り、徹頭徹尾LWを「論理実証主義者」と称したり(命題が論理的形式を満たすかどうかは事実との照合/検証により行うべき、というLWの主張からだと思われるが、LWは端的には「論理は事実や対象ではない(よって観察もされない)」と言っているのであり、観察可能性を重視する実証主義者とは立場が異なるのでは。「実践主義者」とでもしたほうが実態に即していると思う)、哲学的言語を「言語の悪用」と断じたり(のちに「青色本」解説文で論じられるように、哲学は日常言語と論理形式/ルールが異なるだけで悪用とは言えないのでは?)するなどやや違和感も感じたが、後者の論点からは例えば『論考』が自らを「最終的に無意味と見做されるべきもの(6.54)」とする理由が、「言語をその根本に求める哲学が、まさにその言語によっては自らを表現できないため」だということが明快に導かれており、わかりやすさという意味ではかなりいい線を行っているのではないかと思う。
もちろん、本書の白眉はこれまでのLW論とは全く異なる視座からLW哲学に光を当てていることだ。『論考』終盤では神秘的なものに対する驚きの感情が述べられているのだが、僕にはこれがそれまで冷徹なまでにストイックに論理形式の語りえなさを記述していたLW像とは相容れないものののように思えて仕方がなかった。本書ではそのLWの感情こそが「事実に対する科学的記述とは疎遠な何か、実存的もしくは倫理的、美的秩序に位置付けられる何か」であり、まさに世界の外にあって「語りえない」ものだということを「示している」のだという。「言語の限界が世界の限界(言語の乗り越え不可能性)」、つまり「言語ー世界並行論」から逸脱した部分にLWは神秘さを見出しているのだということなのだが、これは少なくとも今まで僕が読んだLW論でははっきりと示されてこなかった視点であり、これにより『論考』をより一貫性ある形で読むことができるのではと思う(ただ、これをストア派のアパティア(超然さ)に引きつけて論じる部分はやや強引に思えたが…)。
後半は、『哲学探求』における「語の意義とは、言語におけるその語の使用である(43節)」からくる言語ゲーム、なかんずく「日常言語中心主義」をめぐる考察が主。ここから外れた語の使用を実践する哲学を断罪しているが、上記の通り「青色本」解説によればLWが攻撃するのは「属するゲーム、及びルールを示さないままの語の使用」であり、必ずしも哲学のみを対象とするものではないように思える。が、いずれにせよ「語の使用」を意味の場とするLWの主張が、変化球を用いることなく多くの第一次資料からの引用をもって論じられており、前半に比べるとストレスなく読むことができる。
ただ、『論考』『探求』の考察を通じて著者が抱いた大きな疑問「LWによって示された「論理形式」「言語ゲーム」などという表現は、どのような言語ゲームに属しているのか」についてはそのまま留め置かれたままである。これをラッセル流にメタ的に処理してよしとするのか、ゲーデル流に自己言及の連環として扱うのかというのは、考えるだに強烈に困難な問題であるように思える。 -
Posted by ブクログ
キャッチーなタイトルにも惹かれ、確かに理性を最重要なものとして取り扱う哲学や倫理なども、運ってどう処理してるのだろうと興味をそそられましたのです。
運はまず偶然と必然・運命にも分類されるし、古代ギリシャのトユケーやダイモーンといった用語はこのどちらの意味も内包している曖昧な定義を有し、そこを巧妙に使い「オイディプス王」で悲劇を演出してる。概して近代の経験主義までは人間の真理や徳のある人というのは、運の影響を除いた形で論理立てていてる。西洋哲学の系譜なので、神とか来世なんてものにも関係づけて、不道徳な行いを実施し罰せられないことが不幸なんて言ってみたり。
アダム・スミスの道徳に関する公正も原則、不道徳や悪いことを実際成されたことではなく、心の内に想起したことによって罰するべきである。これが大原則なのだが、不完全人間の「感情の不規則性」つまり、意図したことと異なる過失などで生じた結果に対する罪の意識(公正の原則に従えばこれは後悔する必要などない)などに他人の尊重やシンパシーを生んでいる・異端尋問を回避するなどの肯定的な側面もある。
最後が著者の伝えたい核心なのだろう、バーナード・ウィリアムズの倫理的運という概念を提示し、人間の運と道徳の狭間で揺れ動かざるを得ない存在を強調している。トラック過失事故の例などは共感を得るし、そうなることはやはり運の要素に当事者としての責任を感じるべきという意識があるのだと気づかされる。
中々重厚な内容ではありましたが、文章の展開も冗長でダレるなんてこともなく、すんすん読み進み、最後に成人君主としての賢人(神に近い存在のようなもの)とは一線を画す倫理への問いを投げかけてくれている。親ガチャとか戦争とかの悲劇の中にあっても自分の中に徳を持つことが幸せ、なんて言えるのだろうか。 -
Posted by ブクログ
DPZの古賀さんが呟いていて、興味を持ったので読んだ。
最初の方は、言葉に関するエッセイ的な感じかなあと思っていたけれど、後半はいかに言語と思考が結びついているかがよくわかる題材が多く、普段の自分の言葉の使い方を振り返させられた。流行りの言葉は使い勝手がいいけど、ちゃんとそれを使うことによってどのような効果があるのか、どのような印象を与えてしまうのかを考えて使わなければいけないなと感じた。
自分は言葉を扱う職業に就いている。それでも自分もあまり考えず言葉を使ってしまうことがある。だから「言葉は道具以上の役割を持っている」ということを常に頭のどこかにおいて、言葉を使っていこうと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ中島敦と世紀末ウィーンの人物
中島敦とホーフマンスタールが、言葉から魂が抜ける体験を描いて言語"不信"を表明する一方で、ウィトゲンシュタインとクラウスは、むしろ言葉に魂が宿る体験に着目することで、言葉の豊饒[ほうにょう]な可能性を探る言語"批判"を展開している。
ゲシュタルト心理学
ベーコン
思考の歪み「イドラ(幻影)」
「言葉を通じて知性に負わされるイドラ」=「市場のイドラ」が一番厄介
「言葉は知性を無理に加え、すべてを混乱させて、人々を空虚で数知れぬ論争や虚構へと連れ去るものだ」
そのため「真の帰納法」が必要(経験的探究)
①観察・実験を通した事例の網羅
②適切に吟味し秩序づける
③諸事例を貫く概念を取り出す
ゲシュタルト崩壊から抜け出せない理由
P.66
…言葉を現実の(不完全な)代理・媒体と見なす言語観が彼らの物語の前提にある
「語は文から分節化される」という原理
ウィリアム・ジェームズ
「もしも感feeling of if」「しかし感feeling of but」
アスペクト(相貌、表情)変化
アスペクト盲の思考実験
=ウィトゲンシュタイン「かたち盲」「意味盲」
アニミズム物活論
『「いき」の構造』
言語浄化主義
クラウス
韻による「規則性を超えた創造的必然性」
P.196
…〈個々の言葉のもつ奥行きや多面性に触発され、その言葉のかたち(ヴォルトゲシュタルト)を把握する〉という実践を重視する姿勢によって貫かれている。
「言葉というものが、どんな仕方で機械的に使用されようとも、精神の生命によって包まれ保持された有機体であるということの予感」
言語不信 言語批判
[自分の意見・文章と思っているものが、他人(マスメディアなど)の繰り返している常套句の反復に過ぎない]
この指摘の翌月、ナチス内部のアドルフ・ヒトラー独裁体制が確立
その10年後ナチス国家が誕生した
P.217〜 現在の状況に適用